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飛行船アフリカを征く

※注:この文章は、ソーシャルネットワークサービスmixiにおいて、私こと天翔の日記(2007年12月5日2008年3月5日)で不定期連載した文章を、編集して加筆訂正したものです。



「暗黒大陸」、かつてそう呼ばれていた広大な陸地がある。

 この言葉は決してその実態を表してはいなかったが、アフリカ大陸がそう称されていた事実と、その空白が埋められるに至った経緯には一考の余地がある。その詳細は他の文献に譲ることとするが、当時の列強と呼ばれた国々の手に握られた数片ずつのピースが真っ白であった地図へはめ込まれてゆくと、やがて完成した色付きのジグソーパズルは、そのまま各国の勢力を表す植民地図となったのである。

 20紀初頭のアフリカ地図を見てみよう。少なくとも地図の上では国境線がすでに確定しており、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガル、イタリア、スペイン、それぞれの支配国に基づいて色分けするとかなり色彩豊かな地図になる。
 これが「暗黒大陸」と呼ばれていた頃のアフリカである。リビングストンの偉業から半世紀、アメリカでE.R.バローズの手によるターザン小説が発表されたのもこの時期である。

参考:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Africa1910s.jpg(英Wiki)

 アフリカ東海岸中部、現在のタンザニアに相当するドイツ領東アフリカ(German East Africa)に関する一騒動が今回の舞台である。



 1914年8月の第一次世界大戦の勃発以来、連合国による海上封鎖を受けて、世界に散在するドイツ植民地帝国は孤立し、絶望的な戦いを余儀なくされていた。開戦数ヶ月を経ずしてそのほとんどが連合国の軍門に降り、11月には中国の膠州湾租借地の要衝、青島が日本に占領されて、太平洋のドイツ勢力はほぼ一掃されている。
 同じ頃、インド洋で通商破壊を行っていた軽巡洋艦エムデンが撃沈され、翌月にはシュペー提督率いるドイツ東洋艦隊がフォークランド沖海戦で全滅するという悲報が伝えられていた。

参考;ドイツ植民地帝国:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Map_of_the_German_Empire.PNG(日Wiki)

 舞台は濃霧と氷雪の北海から、陽光と灼熱の大地アフリカへと移る。まもなく開戦3年目を向かえようとしている、1917年5月。ドイツ領東アフリカは、連合軍の侵攻に耐えて未だ健在であった。
 東アフリカの現地軍司令官、パウル・フォン・レトウ・フォアベック大将は、一握りの白人兵とわずかなアスカリス(askaris,原住民兵)で大英帝国の侵攻に対して持ちこたえていた。祖国から封鎖によって切り離され、彼はあらゆるものにおいて欠乏していた。

 前西アフリカ守備隊の主席医務官であったツピッツァ博士は、このドイツ植民地軍の窮状を憂慮しており、1917年5月、植民地省に対してツェッペリン飛行船で医薬品を送るよう提案を行った。海軍省において、この計画は海軍大臣フォン・カペル大将と、航空部門担当のスターケ大将によって認可された。東アフリカの同胞への救助計画はとてつもないアピールになり、飛行の成功はドイツ海軍の戦意高揚に役立つだろうと判断されたのである。
 また、7月に行われたLZ120(陸軍所属,r型最終船にして陸軍が建造した最後のツェッペリン飛行船)による101時間耐久飛行は、海軍省、保護領部隊、飛行船指導者、ツェッペリン社による共同研究に刺激を与えた。

◆ツピッツァ博士(Dr.Zupitza)がどのような職務職責を持つ人物なのかよく分かりません。戦時中植民地大臣の職にあったとの記述もありますが??

 同盟国内における最南端の飛行船基地は、ブルガリアの黒海沿岸近くに位置するヤンボル(Jamboli/Jambol,イスタンブールの北西約200km)であった。レトウ・フォアベック大将の領地の中心、マヘンゲ(Mahenge,現タンザニアの首都ダルエスサラームの西南西約400km)までは直線距離で5,800kmである。

参考;タンザニアの地図:http://jatatours.intafrica.com/map.html

 この距離を翔破する飛行船は、7,000kmの航続距離と、4基のエンジンで65km/hの速力を発揮する能力を持たなければならない。彼女は108時間、つまり4日半空中にいることになる。16トンの積荷―11トンは小火器の弾薬、医薬品はわずか3トン―は67,000m^3の気嚢容積を要求することになるだろう――"Super Zeppelin"ことr型のそれが55,000m^3であるにもかかわらず。

 この計画は秘匿名称"中国問題(原文:China Matter,ドイツ語だとChina Sacheになるのかな)"と名づけられた。海軍省は、海軍軍令部への正式報告や皇帝の意思確認がまだだというのに、特別船の建造と指揮官の選定を命令した。
 飛行船はドイツに帰ってくることができないので、指揮官には経験の浅い士官の1人、ボックホルト大尉が選ばれた。飛行船は建造期間短縮の為、フリードリヒスハーフェンで建造中のv型(L53〜65/除L54)に船体延長工事を行うことになった。これがL57で、w型に分類され後に" Afrikaschiff "(アフリカ船)と呼ばれることになる。

◆v型からはそれまで10m間隔だった主環材を15m間隔とし、代わりに主環材の間に入っていた中間環材を1本から2本に増やしています。これによって気嚢数の削減(18->14)と若干の自重減少につながっていますが、船体強度は低下しているのではないかと思います。船体サイズは"Super Zeppelin"r型と同じですが、中身は"Height Climber"になっています。

 L57はv型を気嚢2個分30m延長し、就役時点で史上最大の飛行船となりました。ドイツでこれを上回る大きさのツェッペリン飛行船が登場するのは戦後になってからです(船体容積でLZ126ロサンゼルス/'24、全長でLZ127グラーフ・ツェッペリン/'27)。マイバッハ製ガソリンエンジン240hp5基は原型通りで、最大速力は抵抗が増大した分10km/hほど低下して103km/hです。
 正確な図面は無いのですが、建造・運用の都合上、主環材の最大直径は決まっている筈なので、紡錘形の船体の中央部、最大直径になる辺りに円筒形の延長部を挿入したのでしょう。それが搭載能力の向上にも一番効果的ですしね。写真を見ると、それぞれ1基ずつのエンジンが搭載された前部ゴンドラ、左右舷側ゴンドラ、2基搭載の後部ゴンドラがあるのですが、左右の後ろがやたら間延びしている感じなので、その間で延長されているのでしょう。

◆用語解説
"Super Zeppelin"
 LZ62、海軍名L30、またの名を"Super Zeppelin"です。なぜ英語かというと、この型を確認したドイツ国内のスパイが連合軍にそう報告をしたから、だそうです。
 ツェッペリン飛行船はこのr型でほぼ完成の域に達します。17隻の同型船が建造されましたが、極論、最終のx型に至るまでr型の改良を超えるものではなく、L30は当時の軍用飛行船の一つの到達点であったと言って良いでしょう。すなわち、英本土爆撃を主任務とした戦略爆撃飛行船が完成したのです。

 まず、以前のものに比べて船体が大きくなり、前型に比して1.5倍以上の気嚢容積を持っています。既存の格納庫では寸法的にほとんど余裕がなく、新しい格納庫が建造されています。さらに船体の外形形状が流線型になり、搭載された6基のエンジンにより当時の飛行機と大差ない最高速力を得ています。

"Height Climber":
 戦争後期の1917年初頭から、"Height Climber"(ハイトクライマー;高々度飛行船とでも訳しましょうか)に分類される飛行船(s型,L42以降)が登場します。対応するドイツ語を見たことがありませんので、これも他称でしょう。この型は、サイズや外観こそL30と大差ありませんが、自重がなんと1割以上軽くなります。構造体の重量減少を図るのはもちろん、爆弾搭載量の半減、搭載機銃とエンジンの数を減らし、稼いだ重量はすべて上昇限度の向上につぎ込んでいます。

 1917年9月26日、L57は進空した。この全長226.5m、気嚢容積68,500m^3の巨大船は、処女飛行において出力不足と操船困難が判明する。長距離飛行において、船体に6度のトリムを与えて4基のエンジンを全力運転とすれば2.5tの動的浮力を得られたが、それは同時に速力の減少とほとんど完全に舵効を失うものであった。ボックホルト大尉は『私の経験上、この型は3度以上のトリムでは継続して飛行できない』と記している。

 一方、9月19日になるまで、この計画は海軍軍令部総長のホルツェンドルフ大将に伝えられていなかった。「皇帝の同意が必要であり、もし9月27日までにそれが得られれば、飛行は次の新月期である10月12日から20日に行うことができた」とカペル大将は記している。

◆"von Holtzendorff"は、後に数少ない帝政ドイツ海軍元帥となる人物と同じ人だと思います。多分。

独Wik:http://de.wikipedia.org/wiki/Gro%C3%9Fadmiral



◆飛行船の構造がさっぱり、とかいう方にはこちらでも。
 http://www.history.navy.mil/photos/ac-usn22/z-types/zr1-v.htm(アメリカ海軍歴史センター)

 アメリカ海軍の硬式飛行船第1号、ZR-1"Shenandoah(シェナンドア)"です。設計はフランスに不時着したL49をコピーしたもので、ツェッペリン型の特徴を色濃く残した船体です。
 下の方に建造中の写真が何枚かありますが、骨格で内側にブレース(補強)が飛び出しているのが主環材、ないのが中間環材です。L49は"Height Climber"ですが、v型(L53〜)以前の設計なので構造は10m間隔の主環材の間に中間環材が1つというもののようです。

 外皮張りかけの写真がありますが、中期以降のツェッペリンは長さ20〜40mで幅は多角形の面に合わせたキャンバスを紐で骨格に結んであるだけです。これはドープ(防水の為のアセチルセルロース系塗料)を塗った状態で160〜125g/m^2(ガス抜け防止の為船体上部は厚く、下部は薄い)というものでした。



 海軍大臣カペル大将は引き続いて陸軍の意向を気にしている旨を記しているが、海軍省で開かれた9月25日の会議では、陸軍の同意をほぼ取り付け、皇帝が計画に同意するような工作も試みられた。その効果もあってか、10月4日に皇帝に計画が提示されると容易に認可が下り、10月6日、海軍軍令部は飛行船が今月後半には到着する旨を、無電で東アフリカ総督に通知した。

 2回の試験飛行の後、L57はヤンボルに回航された。1917年10月7日正午には、85ケースの貴重な医薬品を含む特別貨物の搭載が完了した。
 指揮官のボックホルト大尉はこの日の夕方、L57を格納庫から出そうとしていた。燃料不足の為に最大速力試験を行っていなかったので、それを行うのが目的だった。低気圧が高速で接近しつつあり、高空では強い南西の風が吹いていたが、16:00の時点で風力階級は0であった。ボックホルト大尉は基地の近辺で2時間の飛行を行い、嵐が始まる前には格納庫に戻る予定だった。
 17:10、大尉はL57を格納庫から出すように指令した。船尾がわずかに格納庫から出た時、横から突風が吹き、不慣れな地上要員は後部トロリーの索具を放棄してしまった。飛行船は船体が破損しない可能な限りの速さで格納庫から引き出され、風に揺れる格納庫の扉の前を通過した。

◆固定式の格納庫には外に向かって地面に固定されたレールが敷設されており、この上を動く台車(トロリー)に飛行船の船首と船尾をロープで繋ぎ、人力で引っ張って出し入れを行います。この台車は"Laufkatze(そのまま移動台車)"と呼ばれており、横風に弱い巨大な船体を安全に出し入れする為の設備でした。

 旅客用飛行船(というよりあのヒンデンブルクの写真)で有名な係留塔は戦後になってから開発されたもので、こちらの方が省力化が図れます。WW1中の独飛行船はより人手の必要な運用システムを採っていた訳ですが、係留塔というアイデア自体を思いつかなかったのか、飛行船の方が係留できるだけの船体強度を持たなかったのか、それとも発着場の敷地(飛行船の全長を半径とする円の面積/1隻辺り)が確保できなかったのか、私にはよく分かりません。格納庫に入れた方が修理や搭載の利便性は勝るとは思いますが。
 ただ、L49ベースの米海軍ZR-1は船首に係留装置を設けたものの、船体への負荷があるとの理由から試験以外で係留マストを使っていないらしいこともヒントになるかもしれません。証拠写真もありますしね。
 http://www.history.navy.mil/photos/images/h92000/h92612.jpg

 アメリカ海軍はこの問題を力技で強引に解決します。係留塔自体を移動式にして格納庫に運び込んでしまうという方法を採りました。レイクハースト基地のこの伸縮可能な係留塔は、当時最大かつ最重量の陸上を移動できる構造物だったとか。
 http://www.history.navy.mil/photos/images/h85000/h85745.jpg

 ちなみに係留塔には船体を地面より高い位置に係留する「ハイマスト」方式と、地面すれすれに係留する「スタブマスト」方式があります。ハイマストの場合、乗客乗員は船首の係留点から乗降することになります。エンパイアステートビルもこれに分類されるかもしれませんね(ビルの屋上のTV塔基部は飛行船の係留ができるようになっています。小型の軟式飛行船でテストされましたが、どうも上手くいかなかったみたいです)。
 ハイマスト方式は高度をぎりぎりまで下げて地上に激突する危険を冒さなくてもよいこと、地面の占有面積を減らせることが長所でしたが、欠点は突風で『吹き上げられて』しまうことでした。アメリカ海軍のZR-3"Los Angels"は最大傾斜85度を記録しています。これに懲りて以後スタブマスト方式に転換したようですね。
 http://www.history.navy.mil/photos/images/h84000/h84568.jpg

 ハイマスト(というより係留塔そのものの)発祥の地イギリスでは特に問題は起こらなかったようですが、そもそも何かが起こる前に飛行船自体が墜落事故を起こしてその運用から撤退してしまったという見方もできます。以後現在に至るまで、軟式飛行船はスタブマスト方式で係留されています。小型で身軽だからでしょうね。

 L57は急遽離陸し、ボックホルト大尉は空中にいる間に風が落ちることに望みをかけた。しかし、無電で送られてくる情報は、風の強まりと気圧計の急速な降下を告げていた。大尉は再び着陸し、風向が格納庫の軸に対して平行になるまで待つことを決めた。発着場には地上要員として300人の陸軍兵士がいたが、彼はこれを400人に増やすよう要求している。しかし、この時点でL57を格納庫に入れることが絶望的なまでに横風が強くなっていた。

 ボックホルト大尉は再度離陸し、暴風雨の空中に乗り出すことを決意する。彼はもし必要でれば、東に進んでヤンボルからはるばるKovnoにある陸軍格納庫に行くつもりであった。しかし、食料と悪天候用衣服の搭載が遅れており、これが取り返しのつかない事態を招く。

◆"Kovno(コブノ)"について調べると、現リトアニアの都市"Kaunas(カウナス)"のロシア語読みとしか出てきません。確かに当時は同盟軍の占領下にあったようですが、陸軍の格納庫があったかどうかまでは分かりませんでした。
 しかし、位置はヤンボルの真北、直線距離にして600km以上あるんですが。東に向かうのは黒海に出るということだとして、どこか別の場所なのでしょうか。

 暴風雨はこれまで以上に猛烈に吹き始め、23:50、雨を伴った突風が船体を捕らえて地面に叩きつけた。前部ゴンドラの支柱はほとんど破壊され、水平舵と昇降舵、バラスト投下索とエンジンテレグラフが使用不能になった。これにより、再びの離陸が不可能になった。

 00:40、風が落ちたので大尉はL57を格納庫に入れようと試みる。格納庫の扉に差しかかった時、突然船体が18m浮き上がった。風下に発生する渦によって船体は吸い寄せられ、船首を入り口にぶつけてしまう。L57は地上要員を引きずりながら、発着場を横切って吹き流されていく。暴風雨の中でこの暴走を防ぐ為、ボックホルト大尉は浮揚ガスの放出弁を開き、小銃で気嚢上部に穴をあけるよう指示を出した。

 突然の横風で船体が振れ、全長226.5mの船体は左舷舷側ゴンドラを軸にして回転し、後部ゴンドラは崩壊した。船首と船尾が破壊され、船体は空中に立ち上がった。放棄された船体は発着場を横切り、鉄条網に突っ込んでいく。気嚢の表面で火花が踊ると、それは次の瞬間爆炎となった。02:00、水素の大規模な爆発が起こり、引火したガソリンと弾薬は明け方まで燃えつづけた。貴重な特別貨物はすべて失われてしまった。



 海軍省における計画の支援者達は、48時間を経ないうちにこの報に接し、計画の続行を決めた。シュターケンで建造中のL59が、L57と同様の方法で船体延長を行うよう指示された。
 ボックホルト大尉は、気象条件を無視してL57の最後となった飛行を指示した責任を認めた。シュトラッサー中佐が彼を軍法会議に送らなかったにもかかわらず、彼はすでにL59の指揮官に補任されていたエルリッヒ大尉と交代させられることを望んでいた。
 海軍省と軍令部はボックホルト大尉を擁護し、シュトラッサー中佐は大尉の申し出を却下した。しかし、彼の判断ミスによる1ヶ月の計画の遅れは、すべての企図を無駄にするに充分な長さであった。

 10月25日、改装を指示されてから16日後、L59は竣工して初飛行を行った。急いで15トンの物資が搭載された。

◆L59が搭載した物資の内訳は以下の通りです。

小銃弾薬:311,000発/7,689kg
機関銃弾帯:230本57,500発/1,794kg
機関銃弾薬箱:54箱13,500発/441kg
機関銃:30丁/510kg
小銃:4丁/240kg(乗員の不時着時用)
機関銃予備銃身:9本/171kg
包帯・医薬品:61袋/2,626kg
縫製用品:3袋/120kg
郵便:25kg
双眼鏡:28kg
小銃予備遊底:50kg
鉈と鞘:76kg
無線機予備部品:33kg   計13,803kg

 私が参考書籍の表のポンド表示をキロに直したものですが、そのまた大元の資料の数字はおそらくキロです。つまり、キロ->ポンド->キロと換算している(筈)ので、正確さは期待できません。
 しかし、その表はつじつまが合っていない(各項目の重量を全部足したら「合計」の重量より100ポンド多かった)上に、小銃4丁で240kgや銃身9本で171kgはどうも納得できません。40丁の90本なら理解できますが。

◆なお、L57とL59の写真はいくつか現存してますが、両者はよく混同されています。識別点として、フリードリヒスハーフェンで建造された船は尾部円錐を避けるように縦舵に切り欠かしがあるので、それが確認できればL57ということになります。

◆以前記したとおり、ドイツ領東アフリカまでの距離は直線距離で6,000km近くあり、想定される飛行距離は片道7,000kmに及びます。一方、改装工事を受けたw型(L57/9)は実に22t近いガソリンと1.5tの潤滑油を積むことができ、航続距離は16,000km(しかも全速で)を誇ります。見たところカタログ上往復飛行は可能です。
 では、彼らは補給を行った後に再び戻ってくることになっていたのでしょうか、それとも片道切符だったのでしょうか。

 。。。実は両方の説があります。往復か片道か、どこかで聞いたような話ですね(笑

 しかし、片道飛行であった、とする根拠の方が信用に足ると私は判断しましたので、これを前提に話を進めていきます。以下にその根拠など。

 すでに記した通り、ボックホルト大尉が指揮官に選定された理由は「帰ってくることができないから経験の浅い士官を」という理由だったようですし、飛行船の構造物は転用が予定されていました。キャンバス製の外皮と気嚢は寝袋やテント、衣服に用いられることになっており、これは、積荷の「縫製用品:3袋/120kg」が裏付けになるでしょう。構造材であるジュラルミンは建築材料に、エンジンは発電機として使用されることになっていたようです。

 一方、片道飛行を疑わしいとする説もあります。それは1隻でも多く欲しい飛行船を、この作戦で使い潰してしまう(結果としてL57はそうなりましたが)ことは許されないだろうというものです。
 気嚢の材料についてですが、化学合成品の無かった当時、気密を保つ為にあるものが使われていました。"Goldbeaters skin(ゴールドビーターズ・スキン)"というもので、金箔師が金箔を作る、すなわち金を薄く叩き延ばしていく際に使われるものでした。日本では「箔打ち紙」と呼ばれる和紙が用いられましたが、西洋では牛の腸から採ったこれを用いていました。

 余談ですが、このゴールドビーターズ・スキンも曲者でして、牛の腸のどの部分でできているのかよく分かりません。牛の腸、それも盲腸の外側の薄い膜の部分という記述があり、牛1頭で1m×15cm以上は取れないらしいので、どうもそれが正解のようですが(牛の腸は50m以上ある)。薬品で溶かして取り出すみたいですね。

 アルゼンチン産のものが質が高かったようですが、開戦後の海上封鎖で手に入らなくなり、質の劣るドイツ産のものが使われました。綿(戦争末期には絹)の布地にロウとワックスを塗り、内側にゴールドビーターズ・スキンを2層に張った1平方メートル当たり150g程度という、気密性と値段の高い自然素材で気嚢が作られていたのです。
 ちなみに、大きな気嚢だと1個当り牛5,000頭分が必要だったそうです。例えばL49は18個の気嚢を持っています。

 この貴重な材料を無駄にするだろうか、というのが片道飛行を否定する理由として上がっていました。あと、個人的にはドープ塗られたりゴールドビーターズ・スキンが張られたキャンバスで服とか作れるんだろうか、という疑問はありますね。もっとも、それ以上の根拠は無いのですが。


 なお、関連する日本語書籍はこの問題以前の部分で間違えたりしており、ますます混迷を加えるだけなので判断の材料にしていません(苦笑

 30日、ボックホルト大尉は『最優先指令』を受け、ヤンボルに向かい、そこから東アフリカに向かうことを指示された。乗員は着陸後、地上軍に加わることになった。
 敵の飛行場を避ける為に考えられる飛行経路は2つあり、アフリカ沿岸までエーゲ海を経由して進むか、トルコの山脈を越えてコス島(トルコ沿岸のエーゲ海の島)に出るかであった。また、東アフリカ保護領へ接近するに際しても2つの選択肢があり、マヘンゲの南東からか、あるいはリウェール(Liwale,現タンザニアの首都ダルエスサラームの南南西約400km)の北東からのいずれかから向かうべきであると考えられていた為、彼は駐留部隊司令部と無線連絡を取ろうと努力していた。

 これらの飛行計画を携え、1917年11月3日朝、ボックホルト大尉はシュターケンからヤンボルに出発した。L59はその夜を空中にあって過ごし、翌朝1,600mのバルカン山脈を越えた。11月4日正午過ぎには、係留索をヤンボルの発着場に投下して、当時のバルカン特急が3日を必要とする旅程を28時間30分で成し遂げた。

 以後、大尉はアフリカへ飛行する試みを2回失敗をしている。最初は11月13日、離陸する際に格納庫への接触を避けようとバラストを落とし過ぎた為、飛行を断念することになった。在空時間はわずかに2時間である。
 次は3日後の16日、今度は小アジア(アナトリア)半島をパンダルマ(Panderma,現バンダルマ/Bandirma,イスタンブールの南西約100km)とスミルナ(Smyrna,現イズミル/Iamir,イスタンブールの南南西約350km)を結ぶ鉄道をたどって半分横断したところで、雷雨に遭遇する。搭載していた7トンのバラスト全量が投下されたが充分でなく、1トンの積荷もまた投棄された。バラストなしで飛行は継続できず、乱気流に揺さぶられながらL59は基地に戻り、離陸から32時間にヤンボルに戻った。
 ボックホルト大尉は2回の失敗はバラストが不十分であったとし、不器用で低出力なL59の運動性を考慮しても、彼は疑いなく正しかった。

◆バラストには砂と水とがあり、砂バラストは50kgの袋入りでした。水バラストの搭載方法は以前「ユトランド上空の飛行船」で説明したような気がしますので割愛します。
 なお、'17初め頃から砂バラストの使用が推奨されています。これには凍結防止剤として水バラストに混ぜられていた、グリセリンの不足が影響しているような気がします。そもそも、砂バラストはそれまでほとんど使用されていない模様です。塩化カルシウムが凍結防止剤の代替品として用いられましたが、これが決定された当初、構造材たるジュラルミンに及ぼす影響が忘れ去られていた節があります。

 使いやすいからか、あいかわらず水バラストが好まれましたが、確かに場所によっては投下に気を使いますし、中でも無数の地上要員がいる発着場の真上で50kgの砂袋を落とすのは殺人行為でしょう。中身だけ投下するにしても、操舵室のノブを引けば1個当り1,000kgを60秒で投下でき、しかもそれが多数(14個/L30)ある水バラストに比べて何倍も面倒です。



 11月20日、気象予報隊は北極気団が南下していることを報告した。天気予報はおおむね期待できるものだった。ボックホルト大尉は、暖かい地中海上空では上昇気流とそれに伴う積雲と雷雨があるかもしれないが、少なくともアフリカ沿岸までは快晴と追い風であろうと判断した。今回は充分なバラスト―9.2トン、前回は7トン―、21.7トンのガソリンと16.3トンの貨物を搭載し、連絡将校としてツピッツァ博士と21名の乗員が搭乗することになった。

 翌21日朝、ブルガリアの地上要員はL59を格納庫から発着場へと曳き出した。天候は曇り、気温は正確に氷点、北の風風力2であった。08:30、”離陸!”の号令と共に、L59は長い旅路に就いた。

◆飛行船の離陸は英語で"Take off(重航空機)"でも"Lift off(ロケット)"でもなく、"Up ship"です。でも着陸は"Landing"だったり。
 "Up ship"はドイツ語ではなんて言うんでしょうね? 直訳だと"Auf schiff"なんでしょうが、見たことがありません。

 朝のうち、L59は追い風に助けられて予定より南へ進むことができた。09:45、トルコのアドリアノープル(Adrianople,現エディルネ/Edirne,イスタンブールの西北西約200km)を横断し、マルマラ海(両端にダータルネス海峡とボスポラス海峡を持つ内海、地中海と黒海を結ぶ)に舵を取った。南岸のパンデルマ(前述)で小アジア半島に達すると、鉄道に沿ってスミルナ(前述)に向かった。日没を迎えた後、L59はスミルナの東を通過し、月明かりで鉄道をたどって19:40、トルコ沿岸を離れてLipsos海峡(発音不詳/リプソス?,トルコ沿岸に近いエーゲ海にある)に針路を取った。

 22:15、クレタ島の東端沖にあったL59は前方に黒い雲を発見した。雷鳴が轟き、至近距離の稲妻の閃光はゴンドラの乗員の顔を昼間より明るく照らし出した。すぐに上部見張り所から聞きなれた報告があった。「船が燃えています!」

 セントエルモの火はボックホルト大尉と乗員達にとってよくある話だった。まもなくL59は雲の塊を後にし、晴れた空域に出た。星が頭上に輝き、北アフリカの海岸線を示すかすかな輝きを南に見た。しかし、この嵐を通過する間L59の無線アンテナは巻き上げられており、外界から切り離された状態にあった。後にこの数時間の空白が重要な意味を持ってくる。

◆この頃ツェッペリン飛行船が使用していた周波数はよく分かりませんが(多分長波か中波)、無線アンテナは垂下式です。船体とアンテナの間で放電が発生して危険なので、雷雲の中では巻き上げられます(「ユトランド上空の飛行船」参照)。サン・テグジュペリの「夜間飛行」でもアンテナを上げ下ろしするシーンが出てきますね。

 なお、アマチュア無線の世界で短波アンテナに「ツェップアンテナ」というものが存在します。ツェッペリン飛行船に搭載されたことからこの名が付けられた、とのことですが、いつの時代かはよく分かりません。もはや趣味の世界でしか用いられない形式のようですが。

 05:15、L59はエジプトのメルサ・マトルーフ(Mersa Matruh,首都カイロの西北西約400km,現在空港がある)に近いRas Bulair(発音不詳,位置不詳)上空に達し、海岸線を越えて北アフリカ内陸へと進入した。眼下には灰色の単調な荒地が広がり、L59の乗員達はその恐るべき空虚さに月の表面に来てしまったように感じた。

 太陽は雲ひとつない快晴の空から照りつけて船体を加熱し、浮揚ガスが自動弁から放出された。大気は完全に乾燥しており、燃料の消費で船体が非常に軽くなっていることもあって、L59はさらなる浮揚ガスの損失を防ぐ為に一日中ノーズヘビーの状態で飛行した。
 このノーズヘビーを修正するには船尾に750kg相当の荷重を加えなければならないほど極端に船首を下げることによって、船体に負の動的浮力を働かせ、浮揚ガスを放出することなく高度を維持したのである。

◆気嚢内の浮揚ガスの温度が周囲の大気より上昇することを『過熱(Superheat)』といい、浮揚ガスの喪失に繋がります。
 急激な大気圧の変化(通常は高度の急変が原因)による浮揚ガスの膨張によって気嚢が破裂するのを防ぐ為、自動弁と呼ばれる安全弁が気嚢底部にあり、また任意に開いて浮揚ガスを放出することができる"Maneuvering valves(操縦弁、とでも訳しましょうか)"が気嚢上部にあります。なお、浮揚ガスは通常地上において気嚢容積ほぼ一杯まで充填されていたようです。

 飛行船が高度を上げていくと、周囲の気圧の低下に伴って気嚢内の浮揚ガスが膨張し、その圧力が一定以上(水銀柱8〜10mm相当)になると自動弁が開いて浮揚ガスの自動放出("Blow off")が発生します。この自動弁の直径は最大のもので80cmです。
 この時の高度を"Pressure height(圧力高度)"といい、その時点における飛行船の上昇限度とほぼ同義です。過熱による浮揚ガスの膨張によって圧力高度は相対的に低下し、ブローオフがより発生しやすくなります。

 そして過熱が収まると、浮揚ガスの体積は収縮して浮力が減少し、高度を維持するには放出された浮揚ガスの浮力に相当する重量のバラストを投棄する必要があります。このことからも、バラストの搭載量は放出可能な浮揚ガスの量、すなわち操船余地と同義であることが分かります。

◆ちなみに逆に低くなるのは『過冷(Supercool)』で、こちらは浮揚ガス体積の減少に伴い浮力が減少します。ここで高度を保つ為にバラストを捨てると、再び温度が均衡した時に浮力過剰となってやはり浮揚ガスを放出(喪失)する羽目になるのですが。

 砂漠の焼けた砂から熱い上昇気流が立ちのぼり、乗員の誰もが経験したことがないほどL59を暴力的に激しく揺さぶった。それは、長年任務に就いている乗員の何人かが乗り物酔いにかかるほどであった。

 正午すぐ、乗員達はファラフラ・オアシス(Farafrah/Farafra Oasis,カイロの南西約400km)の緑の椰子を目にする。その後は再び砂漠が続き、何人かの乗員は明るい砂の反射を長く見すぎた為に頭痛を訴えていた。15:00過ぎにはダフラ・オアシス(Dakhla Oasis)を通過する。
 ボックホルト大尉は人跡未踏の砂漠でこれらの正確な位置に到達することに成功し、彼の海上及び陸上、また昼夜を問わない、天測で可能な限りの正確な航法技術を証明した。太陽と月による飛行船の影は、対地速度と偏流を提供してくれた。飛行船の影の長さはその全長から算出でき、これらは簡単な換算表によって求められるのである。

 16:20、前部エンジンの減速ギヤハウジングに亀裂が生じた。応急修理はなされたものの、このエンジンが再び使用されることはなかった。不運にもこのエンジンが無線用発電機を駆動していた為、L59は受信こそ可能であったものの、無電を発信することが出来なくなった。
 なお、その他の4台のエンジンはこの飛行終了まで稼動した。休息と保守の為、それぞれのエンジンは8時間毎に1〜2時間停止された。

◆後部のプロペラはエンジン2基で、左右舷側と前部のプロペラはそれぞれエンジン1基ずつで駆動しています。

 地上の特徴は、形のないの砂地から険しくそびえる岩地へと次第に変化した。日暮れの直前には、ピンク色のフラミンゴの雲が通り過ぎた。これは、ナイル川が遠く離れていないことを示していた。21:45、ちょうど日が暮れた時、L59はワディ・ハルファ(ナイル川沿いのスーダンの都市、エジプトとの国境近くにある)でナイル川に到着し、その流れから少し離れて南下を続けました。

 ボックホルト大尉は、昼間の熱による浮揚ガスの損失で、夜の間に船が重くなることを予想して、2トンのバラストを投下した。彼は、4基のエンジンと4度の仰角で飛べば、動的浮力が積荷を運ぶ助けになると信じていた。
 問題は、L59が北東の季節風地帯に入ったことでさらに難しくなった。ナイル渓谷の大気は湿っぽく蒸し暑かった。飛行高度における気温は22:30で20℃、03:00には上昇して25℃となった。5℃の過冷は浮揚ガスを収縮させ、浮力が減少した。

◆このあたり原文そのままです(気温は馴染みのない華氏から摂氏に換算してあります)。補足は何もありませんが、多分気嚢内の浮揚ガスの温度が20℃のままだったんでしょう。当然外気との交流はありませんし、気嚢は船体外皮が覆う骨組の内側にありますから、その間の空気が断熱材代わりになったものと思われます。

 大尉は困難な状況を予測し、それは03:00にやってきた。稼動中の4基のエンジンは、もはや暖かい大気の中において動的浮力で彼女を支えきれなくなり、L59は失速して高度945mから400mに降下した。大きなアンテナを失い、山頂に激突しかけた。エンジンが停止され、2,800kgのバラストと弾薬が投棄されたことで、ようやく上昇することができた。

 ボックホルト大尉は、後に次のように記している。「夜間に絶えず4度の仰角で飛ぶような重さは、Jebel Ain(不詳,都市名?)のようなスーダンにおける突然の温度変化で容易に大惨事となる。特に、もしエンジンが暖かい外気温による過熱で故障していたら。。。飛行船は冷却効果を大切にする為に、毎夜3,000kgもしくは4%に相当する浮力を保持するべきだ」

 その少し前、L59は一通の電文を受信していた。時刻は11月23日の02:30、ハルツーム(Khartoum,現スーダンの首都)の西方200kmにあり、離陸してから42時間が経過していた。



 すべては遅きに失したのである。L59の戦時日誌には、こう記されている。

 「作戦中止、帰還する。敵はマコンデ高地(Makonde,タンザニア〜北モザンビークに渡る地域)の大部分を占領し、すでにKitangari(発音不詳/キタンガリ?,位置不詳)を確保した。ポルトガル軍は南から残余の植民地軍を攻撃している」

 この時受信した無電がナウエン(Nauen,ベルリンの西約40km,テレフンケン社の北米向け無線送信所があった)から送信されたのは、前日(11月23日)の12:45であった。



 時は少し遡る。

 10月7日にL57を喪失し、L59による作戦の継続が決定された後に―少なくとも10月15日より早い時点で―海軍軍令部は記している。「作戦の実際の遂行は、当然ながら"China Area"からの情報が入ってくることに依存しているが、最近の情報によれば、深刻な状況の悪化が起こったようである」

◆"China Area"はこの作戦の秘匿名称"China Matter"からでしょう。

 7月上旬からドイツ領東アフリカの植民地軍は強力な攻勢下にあり、戦線は徐々に後退していた。植民地軍の兵士達の寿命は尽きようとしており、日々それは減少していた。その崩壊は11月下旬に発生する。内陸部のドイツ軍が降伏し、またロヴマ河(Ruvuma,タンザニア南部を流れる川)北部の戦闘で、レトウ・フォアベック大将直卒の軍が敗退してその大部分が捕虜となっていた。

 フォアベック大将に対する最後の動きであるイギリスのマコンデ高地占領の報告は、11月9日にドイツ植民地省に届いていた。この報告を海軍軍令部に送る際に、植民地省は、これらのレポートはしばしば誇張されることが判明している、と言い添えた。ドイツの抵抗は以前頑強であるように見受けられた。そして、イギリス軍はマコンデ高地を制圧してはいなかった。「このように、本当の変化は軍事情勢で生じなかった」

 いずれにせよ、11月21日の離陸はあまりに遅すぎた。20日中、ベルリンの植民省は、敵のフォアベック大将に対する勝利の主張を検討していた。21日の朝、マコンデ高地における英軍の進出に関してさらなる情報が到着した。そして、L59の離陸3時間半後に、植民地省は海軍軍令部に対し、もはや作戦の責任を問わないことを通知した。
 フォン・ホルツェンドルフ大将は直ちに飛行の断念を皇帝に言上した。そして、ヤンボル基地はL59を呼び戻すよう指示された。数時間後に返信が届いた。「L59はすでに通信可能圏外に進出している。ナウエンを通じて呼び戻すよう要求する」
 ベルリンに近いナウエンの強力な渡洋無線送信所が、11月21日の夜の間、再三に渡って飛行船を呼び出し続けたが無駄に終わった。

◆前述の通り、この時L59はクレタ島の南にあった雷雨中を飛行しており、無線アンテナは引き上げられていて受信できませんでした。

◆要するに、ドイツ植民地省がドイツ領東アフリカの情勢判断を誤ったのでしょう。実際には、飛行は継続できたのかもしれません。しかし。。。

 なお、勇猛なフォアベック大将は数百の兵を伴ってモザンビークへと渡河する道を切り開いた。11月25日と26日の両日で、L59が運ぶ予定であったものと同等かそれ以上のポルトガルの補給品を手に入れた。大将はこの時点ではL59が自分を発見してくれることに疑いを持っており、この飛行が目的にかなう為には、1ヶ月早くなされなければならなかった。これは、ちょうどL57の喪失を原因とする遅れであった。
 その上、最も強度の高い情報保護にもかかわらず、敵情報部はL59の作戦について完全に分かっていた。東アフリカのイギリス軍は、ツェッペリン飛行船がおそらく11月20日頃に到着するであろうことを、そして航空機をその攻撃に備えておくことを指示されていた。

◆いずれにせよ、L59は目的地までの道程を残りわずかにして、命令により引き返すことになりました。

 一方、この作戦を察知していた筈のイギリス軍も、飛行途上における有効な阻止活動は出来ずじまいでした。

◆巷に流通している日本語書籍では、「輸送に成功して帰還した」「イギリスの欺瞞無電により失敗した」「欺瞞無電に悩まされながら飛行を続けたものの、目的地直前で守備隊が降伏してしまったので引き返した」などと紹介されていますが、いずれも事実でないと言えるでしょう。

 どうも日本以外でもそういう『伝説』―L59の飛行はイギリスが捕獲したドイツの暗号書による偽無電で失敗した―が一般に広まっているようですが。



 L59は針路をヤンボルに向け、足どりも重く帰路をたどる。

 古く胃もたれする自己発熱式缶詰、貯蔵されたハムとソーセージ、パンとバターという喉の渇きを引き起こす食べ物、竜骨に沿って騒がしくばたつく外皮の上に余りに低く吊るされていたハンモック、船内温度は昼の砂漠上空において27℃を、夜のアジア半島上空で-10℃を記録した。にもかかわらず、乗員の士気はこの作戦の成功を目前に控えることによって持続していた。控えめに言っても、彼らには緊張からくる影響があった。何人かの乗員は発熱、過労、不眠症を訴えていたにもかかわらず、彼らは4時間2交替の当直に就いていた。

 ボックホルト大尉は、「すべての困難を克服して任務を成し遂げる寸前である、という認識は、引き返すことを非常に難しくし、士気に影響を受けた」と認めている。

 11月24日03:30、 L59はSollum(発音不詳,現As-Salum?/アッサッルーム,リビアとの国境に位置するエジプトの港湾都市)でアフリカ大陸を離れた。地中海上で再び雷雨に遭遇したが夜明けと共に去り、L59はAdalia湾(発音不詳,現Antalya?/アンタルヤ)のトルコ南岸に向け、高度90mで北東の針路を飛び続けた。14:00、湾の西端にあるChelonia岬(発音不詳,位置不詳)に到達する。

 小アジア半島を横断する夜間飛行は、スーダンで大惨事になりかけたことが再び発生し、原因も同じであった―夕方の気温低下の為に代償として投下したバラストの不足である。
 日没直後、L59は過重条件下でウシャク(Ushank/現U?ak,イスタンブールの南約300kmの都市/地域)北方の山地上空を高度400mで飛行していた。動的浮力で飛行する為に5〜6度の仰角を取り、4基の機関を全速で運転していた。突然の激しい山風によって彼女は投げ落とされ、3tのバラストが直ちに投下された。

 11月25日04:30、飛行船はヤンボル上空にあったが、地上要員の数が揃わなかったので着陸は07:40であった。22人の冒険家達が体を強張らせて降りてきた。彼らは凍え、疲労し、あるものは発熱し、そして全員が飛行船の揺れるゴンドラの中にいるかのように、ふらふらと降りてきた。しかし、作戦の失敗にも関わらず、彼らの成し遂げたことに誇りを持っていた。

 滞空時間は実に95時間―ほぼ4日間、それは飛行船がこれまで経験したことがない非常に両極端な気候を通過する6,700kmに及んだ。残燃料は10,300kg、なお64時間の飛行が可能であった。



 L59が帰還することを誰も予想していなかったが為に、その処遇について問題が持ち上がった。

◆簡単に記しますと、カイゼルはL59を再びアフリカ大陸へ派遣しようとしました。スーダンのオスマン・トルコ帝国軍を支援する為です。海軍軍令部と飛行船部隊指揮官シュトラッサー中佐は共にこれに反対します。
 しかし一方でこの両者の意見は異なっており、軍令部がL59にコンスタンティノープル沖で機雷捜索を命じようとして、シュトラッサー中佐の反対を受けています。

#ロシアに掃海を邪魔されていたから、というのがその理由のようです>飛行船で機雷捜索

◆中佐は、前者に関してはすでにこの種の飛行は敵の察知するところにあって、待ち伏せが行われている可能性が大きいこと、また、熱帯の軽い空気の中で飛行船を操船するのが困難であること、特に着陸時に損傷を受ける可能性が大きく、程度によっては再び離陸することができなくなるとして、帰還の見込みが低いことを理由に反対しています。
 また、ヤンボルの飛行船基地には、頻繁な離着陸に対応できるだけの十分な地上設備と訓練された人員が不足しており、またL59自体が地上での取り扱いを行うには巨大に過ぎることが後者の反対理由でした。

 では彼が何を望んでいたかというと、L59にエンジン1基を増載した上で、北海において高速偵察船として用いることでした。

 今後の先行きが不透明なまま、11月30日、L59はその将来的な用途が定まるまで母基地で待機するよう、軍令部による決定が下されます。L59の所属は、少なくとも記録上では12月12日からユーターボッグ(Juterbog)、20日からフリードリヒスハーフェンになっています。

◆L59指揮官のボックホルト大尉は、どちらかというと軍令部に近い考えを持っていたようです。12月4日に彼は上司をすっ飛ばして海軍軍令部に次のような書簡を送っています―中佐は部下を嫌っている、というような文言を付け加えて。

 彼は、L59は地中海で長距離爆撃を行うべきだと考えていたようで、その目標として「西にはValona(発音不詳/位置不詳,アルバニアの湾名?)、ブリンディシ、ナポリ、マルタ、南西にはトリポリ、南にはアレキサンドリア、カイロ、ポートサイド、アスワン、そして南東にはイギリスの大きな弾薬集積所があるバグダードがある」と記しています。

 大尉はこれらの攻撃によって、軍事的成果をあげることを求めていました。その理由は、
1)敵にこれらの場所を防衛する戦力を西部戦線から抽出させる
2)通商、特にポートサイドとアレキサンドリアにおけるそれを妨害する
3)北アフリカの現地民、特にカイロやアスワンで政治的な影響を与える
4)ヨーロッパの基地から他の航空機には出来ない長距離進攻を行うことで、海軍飛行船部隊の士気を向上する

 ちなみに、この手紙が中佐の手元に届いたのは17日になってからでした。

◆ここでL59を長距離爆撃に用いるのが適当か否かで、2人の間でちょっとした論争が惹起されます。

 シュトラッサー中佐は、アフリカ飛行は別の重要な目的の為に行ったことであり、飛行船の帰還は考慮されていなかったこと、昼夜の気温差が激しい長距離飛行ではバラストに余裕が無く、爆撃時に十分な高度が取れないこと、そしてわずか1隻の飛行船では飛行可能期間とそうでない期間―修理・整備中―が等しいことを述べています。

 そして最後に、L59と400人の支援要員を他の目的、彼が従来から主張するところの「北海偵察と英本土爆撃」に用いるべきだ、と繰り返しています。飛行船はこれを目的に建造されており、他の機会において他の目的を満足させるだけの能力を持っている兵器であるけれども、どのような目的にも使えると考えると失望させられるし、この有用な兵器の見通しにも悪影響を与えるだろう、と。

◆カイゼルは翌1918年1月5日、シュトラッサー中佐に反しボックホルト大尉に賛成する決断を下します。

 しかし、結果はシュトラッサーが正しいことを証明しました。L59が長距離爆撃船としてヤンボルに戻った2月21日からの6週間半で、彼女が空襲を行ったのはただ1回のみでした。目標はイタリア中西部の港湾都市ナポリです。



 1回の失敗の後、3月10日の夜、L59はナポリに向けて離陸した。アドリア海をスクタリ(Scutari,現Shkoder/シュコダル,アルバニア北部の都市)からマンフレドニア(Manfredonia,イタリア中東部の都市)にかけて横断し、高度3,600mから計6,350kgの爆弾を海軍基地、ガス事業所、バグノリ(Bagnoli)製鉄所に投下した。この飛行におけるL59の飛行時間は37時間12分であった。

 ボックホルト大尉は、海軍軍令部に乗員に供給される食料が悪いことを抗議する電文の末尾にこう付け加えている。「もし私が結婚したら、新婚旅行はナポリに行きたい」
 しかし、彼はそのいずれかをなすまで生きていなかった。

 3月20日、ボックホルトはポートサイド(エジプト,スエズ運河の地中海側に位置する港湾都市)を空襲する為、ヤンボルを離陸した。しかし、翌21日の04:40、厄介な向かい風と戦いながら、彼は街のわずか5km東で、夜明けの接近により攻撃を断念した。ポートサイドを攻撃する2回目の機会はやってこなかった。雲の層が飛行船の下に入って来て、地面のすべての光景を断ち切ったとき、クレタ島のスーダ湾にあるイギリスの海軍基地を攻撃するその晩の試みは阻まれた。
 52時間と23分の飛行を終えてヤンボルに帰還した時、大半の爆弾は搭載されたままだった。

 エンジンのオーバーホールの為5日間任務を外れた後、L59は4月7日にヤンボルから最後の離陸を行った。ボックホルト大尉はバルカン半島とオトラント諸国を横断して進出し、マルタの英海軍基地を空襲することを計画していた。

 その夜、アドリア海を航行していたUボートが上空300mを通過していく飛行船を目撃し、さらに水平線上で大火炎の炸裂を見たのを最後に、L59は消息を絶った。油膜と数片の木材、落下式燃料タンク1基がDurazzo(発音不詳,現Durres/ズルラス,アルバニア西岸の都市)で発見されたのみだった。

◆こうしてL59は失われました。総飛行回数18回(試験飛行含む)、わずか6ヶ月の生涯でしたが、その短い期間に遺した功績は飛行船史上非常に大きいものです―以来90年の歳月を経て、それが忘れ去られつつある今でも。

◆海外での話ですが、しばらく前にネットニュースか何かでこのL59のナポリ空襲が取り上げられたことがあったような記憶が。。。



 ドイツ地中海艦隊所属の潜水艦UB53(指揮官シュプレンガー中尉)が飛行船の飛来によって目を覚まされた時、オトラント海峡封鎖戦の為、Cattaro(カッタロ,Kotor/コトルのイタリア語読み,モンテネグロの沿岸都市)から南に向けて航行していた。L59の作戦のことを知らなかったシュプレンガー中尉は、最初に彼女を見た時、イタリアの航空機であると考えたが、まもなくそれが誤りであると感じて砲の固定を命令した。
 彼と乗員達は飛行船が300m以下の高度で飛行していくのを、そして余りにも近かったのでゴンドラが見分けられるのを、沈黙を守って眺めていた。

 90分後の21:30、中尉は観測している。「およそ200度の方向に、UB53からおそらく22〜27海里の距離で、空中で2箇所の火が見え、一見榴散弾の爆発のようであった。直後、水平線全体を巨大な火炎が短い時間昼間のように輝かせ、ゆっくりと海面に落ちていき、20分以上水平線の向こう側で燃え続けていた。火が出た時、数回の大きな爆発音が聞こえた。外から見る限りでは、船が撃墜されて燃え落ちたようだった。後に彼女が墜落した方向に現れた探照灯は、捜索が行われているように見受けられた。3時間後におおよそその位置を航過した時、何も発見できなかった。位置はおよそ北緯41度2分、東経18度53分であった。」

 L59の破壊に関する唯一の目撃証言はそのようなものである。

 イタリアがL59を破壊したと主張しなかった為、ドイツはL59が事故の犠牲となったと判断した。彼女の乗組員が燃料系統の頻繁な漏出について不平を言っていたので、最も妥当とされる意見は水素がガソリンの火によって点火されたということである。

 4月22日、海軍軍令部はL59の代替を求めたが、シュトラッサー中佐は、指揮下には北海にある11隻の飛行船しかなく、割くことはできないと反対することに成功した。海軍軍令部長は、秋にパレスチナを攻撃する敵の明らかな意図を考慮して、ツェッペリンはヤンボルからポートサイドとアレキサンドリアの空襲に送られるべきであると助言したが、その計画が実行されることはなかった。

◆こうして、L59の喪失と共に、地中海方面におけるドイツ海軍飛行船部隊の活動は終わりを告げます。もっとも、この頃すでにドイツ海軍飛行船部隊自体の終焉も程近い時期ではありますが。

◆後の戦間期、ツェッペリン飛行船による商業飛行が行われていたのは周知の事実(と思いたい)ですが、LZ127"Graf Zeppelin"の世界周航や各地への巡航(アフリカへも飛んでいます)、北米及び南米への定期飛行に際して、このL59の遺した記録が参考にされています。

(以上)

公開:08/03/30


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