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二等巡洋艦利根(初代)

入渠中の二等巡洋艦利根1 入渠中の二等巡洋艦利根2 入渠中の二等巡洋艦利根3 入渠中の二等巡洋艦利根4 桟橋へ向かう二等巡洋艦利根

起工:明治38年(1905)11月27日
進水:明治40年10月24日
竣工:明治43年5月15日

要目
基準排水量:3,760t
公試(常備)排水量:4,113t
全長:122.8m
垂線間長:109.7m
最大幅:14.4m
平均吃水:5.1m
主缶:宮原式混焼缶
主機械:レシプロ
軸数:2軸
機関出力:15,000hp
速力:23.0kt
主砲:152o単装砲2基
副砲:120o単装砲10基,76o単装砲4基
発射管:450o単装魚雷発射管3基
乗員数:370名

概要
 日露戦争における戦没艦の戦力補充として明治37年末に立案された緊急建艦計画で、明治37〜38年度計画艦として建造が決定された軍艦9隻(戦艦3隻、装甲および二等巡洋艦5隻、通報艦2隻)、駆逐艦33隻の計画艦の内、唯一の二等巡洋艦として、当時水雷艇程度の小艦艇建造実績しかなかった佐世保海軍工廠で起工された。

 常備排水量4,000t程度の軍艦の完成に四年半の年月を費やしたのは、佐世保工廠が大型艦建造に適した諸設備が不充分で作業者の技術能力が低かったためと言われている。しかし、本艦建造の経験が次の二等巡洋艦筑摩の建造に受け継がれ、その後軽巡の一番艦建造は佐世保工廠が主務造船所となった。

 利根の設計で特筆すべきことは、同じ計画で建造された装甲巡洋艦筑波に続いてラム(衝角)形状艦首を廃止したことである。それまでは海戦時ラムで敵艦に衝突し、相手艦の水線下に破口を開け浸水により沈没させるという肉薄攻撃が艦隊決戦の一戦法として考えられていたが、当時すでに大砲の射程距離が大となり、敵艦に接近して衝撃することは戦術的に不可能となっていた。そこで日本海軍は新艦計画の機会に世界の海軍に先駆けて、構造が複雑な鋳鉄製のラム艦首を廃止した軍艦の計画に取り組んだのである。

 利根の艦首は凌波性を良くするため水線上艦首先端を延長し、外観上はヨットの船首を思い出させるような艦首形状となった。このため軍艦として取り付けられる艦首の菊の紋章は、通例の先端に1個では外見上下向きとなり威厳を損ねるとされ、両舷に1個ずつ付けられた。艦尾形状も艦首方向にナックル(二投曲線)させたので斬新な艦型となり、スマートな艦として各国海軍の注目を集めた。

 搭載缶は従来艦の石炭専用から、石炭と重油併用の宮原式混焼缶が搭載された。しかし、主機関は蒸気タービンが搭載されず、二等巡洋艦としてレシプロ機関を搭載した最後の艦となった。

主な行動
◆明治44(1911)年6月
 装甲巡洋艦鞍馬と共にイギリス訪問、英国王ジョージX世の戴冠記念観艦式に参列。その後フランス、イタリア、オーストリア、ハンガリーの諸港訪問。11月12日横須賀帰港。以後、水雷戦隊旗艦任務に従事。

◆大正3年8月23日
 日本の対ドイツ宣戦布告で第2水雷戦隊旗艦として青島攻略・膠州封鎖作戦に出動。

◆大正4〜5年
 第3艦隊第6戦隊新高、対馬、明石の旗艦として南支那海、シンガポール、インド洋方面に出動。

◆大正6年2月7日
 連合国艦艇と共同でドイツ潜水艦および武装商船追撃作戦参加のため、第6戦隊を解隊。再び水雷戦隊旗艦として日本近海を行動。戦争終結後も水雷戦隊の旗艦を務める。

◆大正13年〜
 第1遣外部隊に編入され、揚子江の警備に従事。

◆昭和6年4月1日
 除籍。

◆昭和8年4月30日
 九州南西奄美大島付近海上で第一航空戦隊(赤城・加賀)所属航空隊の実艦爆撃標的となり沈没。 


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