ばいかる丸 (1921) Baikaru Maru class
貨客船ばいかる丸
大阪商船の大連航路貨客船。大阪商船初のタービン船で、電気溶接を大幅に取り入れたことでも有名。
建造にあたっては進水までの船体工事を三菱神戸で、以後の艤装を三菱長崎で行っており、最新技術である電気溶接を採用したことが背景にあると考えられる。
竣工後は大連航路に就航していたが、支那事変の勃発と共に陸軍病院船となり、太平洋戦争開戦後は国際赤十字病院船として活躍している。この間の昭和14年には、各海運会社の近海航路を集約して発足した国策会社の東亜海運に売却されている。
その後、昭和20年5月に大分姫島沖で触雷し大破座礁、放棄されたまま終戦を迎えた。後に浮揚はされたもののしばらく尼崎で係船されており、この間海技専門学院(後の海技大学校)分教場となっていた。
しかし、終戦時すでに船齢24歳の老嬢は、ここから新たな道を歩み始める。
昭和24年になって極洋捕鯨が購入、貨客船時代の上部構造物ほとんどを撤去し、機関室を船尾に移設して余剰品であった旧海軍の22号ディーゼル2基を搭載、解剖甲板と鯨体を引き揚げるスリップウェイ設置などの大工事を経て、翌25年小笠原捕鯨のための近海捕鯨母船に改装完成。さらに昭和26年には南氷洋マッコウ捕鯨に従事するため船内工場拡張、これに伴う解剖甲板の改装、燃料タンク増設、耐氷構造とするための補強工事を行う。以後、北洋捕鯨など各種母船事業に従事。
昭和30年には新造母船の登場により冷凍工船への改造が行われ、船名を「極星丸」と改めて南氷洋捕鯨などに従事、昭和42年に捕鯨枠の削減に伴う不稼動船となって売却解体される。この時実に船齢46歳で、ここまで船容の変化した例も珍しい。
竣工:1921.9
総トン数:5,243t
垂線間長/幅/深さ:122/15.3/9.2m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:5,500SHP
速力:17.3kt
旅客定員:1等92/2等150/3等568
音戸丸
(1923) Ondo Maru class
貨客船音戸丸
大阪商船の瀬戸内海航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手による。日本船として初めて主機に初めてディーゼルを採用した。
戦時中は中国の沿岸航路に就航し、終戦以後消息不明。
日本初のディーゼル船ということを示すため、煙突を廃止して排気管のみとしたものの、ファンネルマークをつける場所に困り、周囲に櫓を組んでつけることになった。
しかし、違和感は如何ともしがたく、遂にダミーファンネルに交換してしまった。同型2隻は最初からこの姿で竣工している。
瀬戸内海航路は大阪から下関まで、途中瀬戸内海を蛇行しつつ20余の港に寄港し、5日(!)をかけて結ぶものであった。ちなみに寄港地をいくつか省略した急行便というものもあり、所要日数を20%短縮して4日(!!)で結んでいた。
竣工:1923.11
総トン数:688t
垂線間長/幅/深さ:52/8.5/5.5m
機関・軸数:ディーゼル1基1軸
出力:915BHP
速力:12.4kt
旅客定員:2等89/3等329
同型船:三原丸,早鞆丸
さんとす丸級
(1925) Santos Maru class
大阪商船の南米航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手により、主機に内燃機関を搭載した本邦初の大型貨客船。また、初めて新造時より自動操舵装置を搭載した級でもある。3番船もんてびでお丸の主機は初の国産舶用大型ディーゼル(三菱ズルツァー)。
さんとす丸級裏話・その1
3番船もんてびでお丸の主機は苦心の末に完成させた初の国産舶用大型ディーゼル。造船所の試運転台で一号機の試運転が成功し、「回った回った」と喜んで所長に報告したところ、「回るよう出来ている機械が回るのは当たり前」とたしなめられたとか。
さらにその後関係者一同で宴会に繰り出してしまい、船体設計者の和辻博士が造船所に現れたときには誰もいなかった、という2段オチがついている。
さんとす丸級裏話・その2
ある時、メキシコ湾で採れる海老を日本まで輸送できないか、という話が大阪商船に持ち込まれた。よろしい、やってみようということで新造船さんとす丸3隻に-12℃の冷凍室が備え付けられ、成功を収めた。今度は逆に日本のトンボ鮪を缶詰(シーチキン)の原料として輸出しよう、ということになり、これも成功した。
すると、日本のミカンを南米に輸出したいという者が現われ、冷凍室を冷蔵室に改造して試験的に輸送することになった。一部は痛んでしまったものの、入港の翌日には市場に並んでいたと言う。よし、2回目からはと意気込んだところ、ミカンの売れ行きが悪く、やがて輸送は中止されてしまった。
竣工:1925.12
総トン数:7,267t
垂線間長/幅/深さ:130/16.9/10.9m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:4,600BHP
速力:15.8kt
旅客定員:1等38/特3等102/3等666
同型船:らぷらた丸(後の干珠丸),もんてびでお丸
ぶゑのすあいれす丸級
(1929) Buenos Aires Maru class
貨客船ぶゑのすあいれす丸
大阪商船の南米航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手により、さんとす丸の拡大改良型。南米航路はシンガポール経由喜望峰周りで総航程1万2千海里余に及び、熱帯地方を2ヶ月近く航海するものであったが、この級の登場より神戸-サントス間の所要日数を46日まで短縮した。なお、この記録はあるぜんちな丸級によって35日にまで短縮される。
戦争中、ぶゑのすあいれす丸は陸軍病院船として、りおで志゛ゃねいろ丸は海軍特設潜水母艦(略称りお丸)としてそれぞれ徴用され、共に戦没している。
竣工:1929.10
総トン数:9,626t
垂線間長/幅/深さ:140/18.9/12m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:6,000BHP
速力:17.1kt
旅客定員:1等60/特3等220/3等586
同型船:りおで志゛ゃねいろ丸
浅間丸級(1929) Asama Maru class
客船浅間丸
日本郵船のサンフランシスコ航路客船。天洋丸からおよそ20年の空白を経て建造された、日本が誇る豪華客船。東洋汽船との合併によって同航路を引き継いだ日本郵船が、威信を賭けて建造した”優秀船”。その意気込みは違うことなく、日の丸船隊のフラグシップとして”太平洋の女王”の称号を贈られている。
同クラスの経歴に関しては関連書籍も数多く、詳しくは割愛するが、中でも長姉は3姉妹のうちで最も波乱万丈と言える生涯を送っており、その顛末は「狂気の海」 内藤初穂著 中央公論社刊(文庫版題「太平洋の女王 浅間丸」)に詳しく収められている。
しかし、浅間丸の主機は輸入によるものであり(龍田丸は国内ライセンス生産)、その他航海用計器、通信機器、補機類、果ては内装設備に至るまで輸入品といった有様で、世界一流品の展覧会といった様相を呈していたという。
最後に、エピソードを一つ。
浅間丸級の建造が決定し、英国の船会社にサービスを学ぶため乗組員を派遣した時の話。ある時、
「お前のところはたいそうな騒ぎだが、一体何トンの船を建造するんだ」
と聞かれたものがいた。胸を張って「一万六千トンだ」と答えると、相手は首を傾げて曰く、
「そんな小さな船、うちの会社にはないなぁ」
竣工:1929.9
総トン数:16,947t
垂線間長/幅/深さ:171/22/13m
機関・軸数:ディーゼル4基4軸
出力:16,000BHP
速力:20.7kt
同型船:龍田丸
・旧塗装+日の丸
昭和15年(1930)2月の第55次航海の途中から7月の第58次まで、半年に満たない期間はこの姿だった。55次航では有名(?)な”浅間丸事件”が発生しており、その余波とも言える。なお、船橋の屋上と後部甲板上にも日の丸が描かれている。
戦雲西より湧き立ちて、太平洋上波高し。つまりは対空・対潜の味方識別標識というわけである。
・新塗装
昭和15(1940)年、第59次航より実施された新塗装。
秩父丸(1930) Chichibu Maru
客船秩父丸(後の鎌倉丸)
日本郵船のサンフランシスコ航路客船。浅間丸級の3番船で、戦前の日本における最大の客船。
姉妹船と異なり、主機にズルザーではなくB&Wディーゼルを用いたため主機と推進軸が半数の2基2軸となった。これにより煙突も2基から1基になり、外観上大きな相違点となっている。
1939年1月に鎌倉丸と改名するが、この1年半ほど前にローマ字表記をヘボン式から日本式に統一することが決定され、CHIHIBUはTITIBUと表記を改める必要があった。しかし、”TIT”が英卑語であることからこれが見送られていたのだが、日本を取り巻く情勢は遂にそれを許さないまでに至ったのである。
'42年8〜10月の間には、日本と米英間で抑留民間人の交換を行う輸送に従事している。
竣工:1930.10
総トン数:17,498t
垂線間長/幅/深さ:171/22.6/13.0m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:15,500BHP
速力:20.7kt
旅客定員:1等243/2等95/3等500
平洋丸(1930) Heiyo Maru
貨客船平洋丸
日本郵船の南米航路貨客船。当時同航路に就航していた安洋丸('13竣工)が老朽化で補助資格を失う為、代船として建造された。船価は450万円。
郵商協調により、南米航路に関しては大阪商船が米東岸航路、日本郵船は西岸航路にそれぞれ配船していた。後に照国丸級の靖国丸、氷川丸級の日枝丸も同航路に配船されている。
なお、当初福洋丸と命名されていたが、建造中に改められて平洋丸となった。昭和18年(1943)1月、米潜の雷撃により沈没。
竣工:1930.3
総トン数:9,816t
垂線間長/幅/深さ:140/18.3/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:7,500BHP
速力:16.7kt
旅客定員:1等42/2等80/3等500
氷川丸級(1930) Hikawa Maru class
貨客船氷川丸級
日本郵船のシアトル航路貨客船。
ネームシップは秩父丸と同じ横浜船渠で建造され、同船より1月半ほど遅れて竣工している。もっとも、船価は秩父丸の1,193万円に対して655万円と半値に近かった。船価がほぼ等しい照国丸と船容を比べると、航路の違いによる差異が分かって興味深い。
しかしてその経歴はコレスポンドの浅間丸級、照国丸級他に比べて群を抜いて波乱万丈に富んだものであり、詳細は市販の書籍に譲ることとするが、彼女が終戦直後日本最大の船舶として登録されていた時期があったということが、いかに激動の時代を生き抜いてきたかという事実を示していると思われる。
彼女は今でもその姿を見られる日の丸船隊最後の一隻として、横浜港に錨を下ろしている。しかし、戦火の中に消えた2隻の妹のことにまで思いを馳せる人は少ない。日枝丸は昭和18年(1943)11月米潜の雷撃により、平安丸は翌19年2月のトラック大空襲で沈没している。
竣工:1930.4
総トン数:11,622t
垂線間長/幅/深さ:155/20/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:11,000BHP
速力:18.0kt
旅客定員:1等72/2等69/3等186
同型船:日枝丸,平安丸
照国丸級(1930) Terukuni Maru class
貨客船照国丸級
日本郵船の欧州航路貨客船。当時同航路に就航していた老朽船の代替として建造され、後にこのクラスに対抗するためシャルンホルスト級が建造された。
室内の装飾は、前後して建造された浅間丸3姉妹が欧州のデザイナーによるものであるのに対し、日本式となっており趣を異にしている。これを含めて各等級の旅客定員構成を比べてみると、当時の各航路がどのような役割を果たしていたかが理解できよう。
なお、浅間丸の船価は1,127万4,000円、照国丸のそれは617万7,000円であった。
第二次世界大戦勃発直後の昭和14年(1939)11月、照国丸はロンドンへの航海途上、英国東岸ハリッチ沖で触雷、乗組員177名と乗客28名は全員救助されたものの遂に沈没してしまった。
靖国丸は昭和15年に欧州航路が休航となった後、海軍に徴用されて特設潜水母艦、運送船を経て昭和19年(1944)1月、米潜の雷撃により沈没している。
竣工:1930.5
総トン数:11,931t
垂線間長/幅/深さ:154/20/11.3m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:10,000BHP
速力:17.8kt
旅客定員:1等121/2等68/3等60
同型船:靖国丸
畿内丸級
(1930) Kinai Maru class
貨物船畿内丸
大阪商船のニューヨーク航路貨物船。
日本が不況に沈んでいた昭和初期、大阪商船が社運を賭して北米航路に投入した高速貨物船。各国船が集中することによる過剰船腹で運賃は低く据え置かれ、慢性的赤字を抱える同航路に対し、資本金に匹敵する資金を投入して同型船6隻、後に準同型船2隻が建造された。
このクラスの就航によってニューヨーク急航線が開設され、従来45日を要した横浜−ニューヨーク間をわずか28日にまで短縮した。生糸等の高価貨物は大陸横断鉄道に積み替えを要することなくパナマ運河経由で西海岸まで運搬され、航路の収益は大幅に改善された。
これに続けとばかり、北米航路には続々と優秀な日本船が投入され、あたかも大西洋で繰り広げられていたブルーリボン競争を彷彿とさせる様相を呈し、英米船を圧倒することになった。
なお、これら優秀船の中には、ほとんど無名の貨物船にあってかろうじて船名を耳にすることのある神川丸などが含まれる。
船舶としての特徴は、冷凍貨物室、生糸運搬用のシルクルーム、油運搬用のディープタンクに加え、強力な揚貨機とデリックブームの多数配置などが挙げられるが、最も特筆すべき点はこの優秀船が2年の間に6隻投入されたことであり(後さらに2隻追加)、このクラス全体を輸送システムとして見た場合の完成度に注目すべきであろう。
この輸送システムは近代日本海運において一つの革命であり、その先駆者として歴史に名を残すべき名船であった畿内丸とその姉妹も、やがて太平洋を覆う戦雲の中に姿を消していくことになる。
竣工:1930.6
総トン数:8,357t
垂線間長/幅/深さ:135.6/18.4/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:7,200BHP
速力:18.32kt
同型船:東海丸,山陽丸,北陸丸,南海丸,北海丸
準同型船:関東丸,関西丸
長良丸級
(1934) Ngara Maru class
貨物船長良丸級
日本郵船のニューヨーク航路貨物船。
日本郵船が第一次船舶改善助成施設の適用を受けて建造した高速貨物船。同型船の船名がすべてNを頭文字とするところから、N型と呼ばれる。
1930(昭和5)年の大阪商船に続き、翌31年に国際汽船、翌々32年には川崎汽船と三井物産が北米航路に参入し、就航船舶の高速化が進むと、日本郵船も大阪商船とこれら新興勢力に対抗するべくこのクラスを投入した。
しかし、「結果的にN型は性能の面では畿内丸型をなお若干下回った」(日本郵船百年史)という。
竣工:1934.8
総トン数:7,142t
垂線間長/幅/深さ:136/19/10.5m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:6,700BHP
速力:18.58kt
同型船:能登丸,那古丸,能代丸,鳴門丸,野島丸
東亜丸級
(1934) Toa Maru class
・油槽船東亜(とうあ)丸
飯野商事(後の飯野海運)所属、第一次船舶改善助成施設適用の油槽船第一号。戦時には給油艦として用いられることが前提になっており、それまでの油槽船に比して高速を発揮できることから「海軍型油槽船(タンカー)」、また設計を行った建造所の名から「川崎型高速油槽船(タンカー)」などと呼ばれることもある。
竣工:1934.4
総トン数:10,052t
垂線間長/幅/深さ:152/19.8/11.3m
機関・軸数:ディーゼル1基1軸
出力:8,611BHP
速力:18.4kt
・油槽船極東丸(1934)
飯野商事所属の東亜丸級2番船。
・特設運送艦極東丸(1938)
同型船に先駆けて徴用されたため、艦隊随伴の高速給油艦の試験として通信設備やデリックなど、後の姉妹船とは異なった各種装備が施された。なお、船尾の大型デリックは不要とされたためか後に撤去される。
・油槽船かりほるにあ丸
昭和19年('44)、フィリピンのキャビテにて撃沈された油槽船極東丸を浮揚して日本に回航し、昭和21年('46)12月より復旧修理・船体延伸を行なった。
新生なったかりほるにあ丸は、船体中央を切断して6m延長し、油槽を2個新設しており、油槽容積は16,100m^3から17,300m^3に増大した。なお、元の船体は鋲接構造であるが、この延伸部分は溶接構造であったという。
改装完成:1947.9
総トン数:10,500t
垂線間長/幅/深さ:158/19.8/11.3m
機関・軸数:ディーゼル1基1軸
出力:8,000BHP
速力:17kt(定格)
吉林丸級
(1935) Kitsurin Maru class
貨客船吉林(きつりん)丸級
大阪商船の大連航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手によりうをマイナー過ぎてネタがないぃぃ〜
。。。大阪商船の大阪−大連間を結ぶ大連航路は明治38年1月(日露戦争中)に開設され、日本と大陸を、シベリア鉄道を通じて欧州を結ぶ大動脈として輸送量は増加の一途をたどる。昭和12年(1937)には吉林丸級を含めて使用船舶10隻(5,000t〜7,000t級)月25航海の定期航路に成長していた。
主要貨物として往路は野菜・青果、酒類と工業製品、復路は豆かす、豆類、飼料と銑鉄であったが、昭和10年前後にみかんを年間3万トン近く輸出しているのが目を引く。
やがて大陸の戦火が拡大すると徴用によって使用船舶は一時期減少するが、南米などの遠洋航路から撤退してきた船舶で再び活気を取り戻す。しかし、開戦と共に再び大規模な徴用が始まり、開戦翌年の昭和17年(1942)には航路そのものが船舶運営会に移管され、3年後の終戦によって名実共に消滅することになる。
熱河丸は昭和18年11月中国大陸沿岸で潜水艦の雷撃により沈没、吉林丸は昭和20年5月に瀬戸内海で触雷沈没、戦後解体されている。
竣工:1935.1
総トン数:6,783t
垂線間長/幅/深さ:128/17.1/10.2m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:7,800SHP
速力:18.6kt
旅客定員:1等44/2等141/3等751
同型船:熱河丸
シャルンホルスト Scharnhorst
(1935)
貨客船シャルンホルスト
シャルンホルスト級3姉妹の長女。三女のグナイゼナウ(Gneisenau)は機関がギアードタービンとなっている他はほとんど外観に相違はなく、準同型船と言える。しかし、次女のポツダム(Potsdam)は要目こそ近似しているもののまったく別の船で、これは同船を建造中に2社の共同経営であった極東航路の航路権が、協定により単独経営に変更されたことによる。
長女の波乱に富んだ生涯は有名であるが、三女は'43に触雷沈没、次女は大戦を生き延びて英国に接収され、軍隊輸送船として'60まで使用された後、巡礼船となって'76に41年の生涯を閉じている。
竣工:1935.4
総トン数:18,184t
垂線間長/幅/深さ:190.7/22.6/12.5m
機関・軸数:ターボ・エレクトリック2軸
出力:32,400SHP
速力:23kt
旅客定員:1等149/2等144/3等281
同型船:グナイゼナウ(Gneisenau)
第二図南丸級
(1937) No.2Tonan Maru class
第二図南丸級(1937)
大阪鉄工所桜島造船所で建造された、日本水産の捕鯨母船。ノルウェーから購入した図南丸に続く、日水2隻目にして初の国産母船である。
建造にあたってはイギリスの捕鯨母船Svend Foynの設計図を購入、これに範を取った。船体の線図は同じであるが、工場甲板下に甲板を一層増設して船内容積の増大を図っている。この措置はノルウェーの造船技術者と協議の結果であると言われているが、これが為、船体寸法は大洋捕鯨の日新丸とほぼ同じであるが総トン数は1,500t余り大きく、結果第二図南丸は戦前日本最大の商船として君臨することとなった。
なお、安部川河畔に位置する桜島工場における進水では、多数の鎖を引きずらせることによって、この巨船が進水台から滑り降りる行き足を止め、なおかつ川と平行に方向転換して対岸に乗り上げないように意が払われた。
第二図南丸は昭和12,13,14,15年度の南氷洋捕鯨に出漁し、漁閑期は北米から海軍用重油の輸送に従事した。世界情勢の悪化に伴い、昭和16年度の出漁が中止となるや同年11月に海軍に徴用され、パラオでの敵前上陸訓練を経て、開戦直後のミンダナオ島ダバオへの上陸作戦に参加している。
その後は昭和19年(1944)8月22日東シナ海において潜水艦の雷撃により沈没するまで、本土南方間の輸送に従事していた。
遅れること一年、同じ造船所の同じ船台で竣工成った第三図南丸は昭和13,14,15年度の出漁の後、同様に海軍に徴用されて開戦劈頭のボルネオ島攻略作戦に参加し、その搭載量を生かして1隻で陸軍1個連隊の輸送を行った。なお、この作戦に従事中の昭和16年12月23日、クチン沖で潜水艦の雷撃を左舷後部の油槽に受けて中破し、内地に回航して浅野ドックで6ヶ月に及ぶ修理を行っている。
翌昭和18年7月、再びトラック島西方海上で潜水艦の雷撃を受けた。この敵潜はティノサ (USS Tinosa, SS-283)で、発射雷数実に15本、命中13本うち起爆1本、過早爆発1本、不発11本であった。第三図南丸は再び左舷後部に被弾、機関室に浸水して航行不能となったものの、不発魚雷10本を水線下舷側に刺したまま、軽巡五十鈴に曳航されて27日夜トラック島にたどり着いた。死者5名、浸水量は8,000tに及び、後部スリップウェーはほぼ全没状態であったという。
8月末日付で海軍運送船を除籍され、10月に工作艦明石とトラック島工作部の手により破孔にケーソンを当てて排水、内地へ回航して修理する機会を待ったが、次第に不利になる戦局はそれを許さず、以後浮きタンクとして使用されている。
そして翌昭和19年2月17日、トラック大空襲。翌18日も空襲は続き、軍艦以外にタンカー5隻5万2千トン、貨物船11隻4万6千トン、貨客船9隻4万9千トン、特設艦船9隻5万3千トンが撃沈された。隻数の割にタンカーの被害総トン数が大きいのは、もちろん第三図南丸が失われた為である。
第三図南丸は17日朝に船尾への至近弾を受け、次いで船橋後方に直撃弾を受ける。これらの損傷によって再び機関室に浸水し、徐々に沈下が進んで20日未明、遂に横転沈没した。
戦い終わって昭和25年(1950)、戦後再開された南氷洋捕鯨の戦力を増強する為、日本水産はGHQに第三図南丸の浮揚修理を申請した。紆余曲折の末浮揚に成功、日本に回航されてきた船体は鉄屑そのものであったという。
以後6ヶ月の間に4,000t近くの鋼材を新品と交換し、レシプロ機関に替えて4,000SHPの蒸気タービン2基を搭載、主缶を新しい水管缶4基に更新、舵も2枚に変更して第三図南丸の改装は終了した。船尾が軽くなった為、トリムを調整する目的で最前部の1番油槽は清水槽として使用されることになったという。総トン数は19,308tとなっている。
新たに図南丸の名を与えられた新生母船は以後14回の南氷洋捕鯨、4回の北洋捕鯨に出漁した後、昭和46年(1971)捕鯨枠の減少により不稼動船となって解体され、33年の生涯を終えている。
第二図南丸/第三図南丸
竣工:1937/8/1938/9
総トン数:19,425t/19,210t
油槽容積21,354m^3
垂線間長/幅/深さ:163/22.5/17.3m
機関・軸数:三連成蒸気レシプロ2基2軸
出力:7,000IHP
速力:14kt
高砂丸
(1937) Takasago Maru
貨客船高砂丸
大阪商船の台湾航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手による。それまで主として外国からの購入船が就航していた神戸−基隆線に投入された、2隻目の国産新造船。
太平洋戦争中は海軍病院船として活躍し、戦後まで残存。終戦後は引揚船として使用された後、客船として再度就航が検討されたこともあったが、燃料に石炭を使用する点がネックとなり、係船の後昭和31年(1956)に解体された。
竣工:1937.4
総トン数:9,315t
垂線間長/幅/深さ:140/18.5/11.6m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:8,500SHP
速力:20.2kt
旅客定員:1等45/2等214/3等820
極洋丸
(1938)Kyokuyo Maru
捕鯨母船極洋丸(1938)
神戸の川崎造船所で建造された、極洋捕鯨の捕鯨母船。同じ造船所で建造された大洋捕鯨(林兼商店、後の大洋漁業の系列)の日新丸、第二日新丸の設計図を購入して使用しており、舵が平衡式に改められたことと工場設備の違いの他は実質同型船である。
船価は船体680万円、工場設備130万円の計810万円で契約した後、変更が加えられて最終的には850万円となった。捕鯨母船の建造に際してはその大きな搭載量に海軍が注目しており、極洋丸を含めた各社計5隻の母船には建造助成が行われている。
昭和13年(1938)10月、初の南氷洋出漁に合わせて完成した極洋丸は神戸港を出港した。随伴する捕鯨船(キャッチャーボート)9隻も、それぞれこの出漁に合わせて各地の造船所で建造されたものであった。
この年を含めて、極洋丸の南氷洋捕鯨への出漁は世界情勢の悪化に伴い3回で終りを告げるが、後発の為もあってか、1船団あたりの鯨油の生産量は日本水産や大洋捕鯨に比べて若干劣っていたようだ。なお、この間漁閑期には北米原油の輸送に従事している。
開戦間近の昭和16年(1941)11月に海軍徴用船となり、往航は主としてパラオ、トラック、ラバウル間への軍需物資輸送、復航は南方原油の内地還送に従事していた。
昭和18年9月19日から21日にかけて、日本列島は台風26号の直撃を受けた。昭和9年の室戸台風に匹敵すると思われるこの超大型台風を避けて、南下の途上にあった門司発基隆行192船団に所属する9隻は、船団指揮官の命令で奄美大島の名瀬に避港していた。その中の1隻に、極洋丸の姿もあった。
極洋丸は激しい波浪と風により同19日23時48分浅瀬に座礁。9隻の船団のうち5隻が座礁する被害を受けた。
海軍救難隊による引き下ろし作業は戦時中ということもあって困難を極め、戦局の悪化した翌昭和19年9月に放棄が決定された。潜水艦の雷撃や航空機の銃爆撃によって破壊された船体は、戦後極洋が浮揚修理して再び南氷洋捕鯨へ出漁する計画があったものの、GHQの許可が下りず実現しなかった。
竣工:1938/10
総トン数:17,549t
油槽容積22,373m^3
垂線間長/幅/深さ:163/22.6/14.9m
機関・軸数:2サイクル複動ディーゼル1基1軸
出力:6,000BHP
速力:15kt
工場設備:ハートマンボイラー4基、クワナーボイラー8基、製油能力400t/日
あるぜんちな丸級
(1939) Argentina Maru class
貨客船あるぜんちな丸(後の空母海鷹)
大阪商船の南米航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手により、舷弧と梁矢を大部分廃止したことで有名。優秀船舶建造助成施設により建造された、特設航空母艦予定船。
総トン数:12,755t
垂線間長/幅/深さ:155/21/12.6m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:16,500BHP
速力:21kt
旅客定員:1等101/特3等130/3等670
同型船:ぶら志゛る丸
あるぜんちな丸
1939/5:竣工
以後南米航路に就航。後、世界情勢の悪化により大連航路に就航。
1942/5:海軍に徴用。
1942/12:海軍省に売却。1年の工期を費やして空母海鷹に改装。
1945/7:触雷及び米艦上機の攻撃により着底。戦後解体。
ぶら志゛る丸
1939/12:竣工
以後南米航路に就航。後、世界情勢の悪化により大連航路に就航。
1941/9:海軍に徴用。
1942/8:トラック島沖で米潜水艦の雷撃により沈没。
新田丸級
(1940) Nitta Maru class
貨客船新田丸級
日本郵船の欧州航路貨客船。独NDLが同航路に投入したシャルンホルスト級三姉妹の対抗として建造されたが、欧州はすでに戦雲暗く、処女航海から北米航路に配転となった。暗雲はやがて彼女達を照らす光をも遮り、日米開戦を控えて末妹の春日丸は客船として竣工することなく特設航空母艦に改装されている。
なお、三姉妹の頭文字を取るとNYKとなり、日本郵船株式会社の綴りとなっている。
竣工:1940.3
総トン数:17,150t
垂線間長/幅/深さ:168/22.5/12.4m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:25,200SHP
速力:22.5kt
旅客定員:1等115/2等100/3等70
同型船:八幡丸,春日丸
報國丸級
(1940) Hokoku Maru class
貨客船報國丸級
大阪商船のアフリカ航路貨客船。もっとも、本級のうち実際にアフリカ航路に就航したのはネームシップの報國丸のみであり、それも1航海の後大連航路に転配されることになる。姉妹船の愛國丸、護國丸はついに就航することなく終わった。海軍に徴用された後の報國丸、愛國丸の仮装巡洋艦としての活躍は有名である。なお、末妹の予定船名は興國丸であったが、建造中に改められている。
報國丸は昭和17年(1942)11月に仮装巡洋艦として英輸送船団を攻撃中、護衛艦艇の反撃を受けて沈没。愛國丸は昭和19年(1944)2月のトラック大空襲で、護國丸は同年11月に五島列島沖で米潜の雷撃を受け、それぞれ沈没している。
竣工:1940.6
総トン数:10,439t
垂線間長/幅/深さ:150/20.2/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:13,000BHP
速力:21.1kt
旅客定員:1等48/特3等48/3等304
同型船:愛國丸、護國丸
三池丸級
(1941) Miike Maru class
貨客船三池丸(1941)
日本郵船のシアトル航路用貨客船。
昭和5年(1930)、日本郵船はシアトル航路に新造船氷川丸級3隻を投入し、主として北米への旅客と生糸の輸送を担っていた本航路の船質は飛躍的に改善された。しかし、直前に発生した世界恐慌に加え、同年大阪商船がニューヨーク航路に投入した高速貨物船畿内丸級に生糸の輸送が移転し、さらに自社のサンフランシスコ航路に投入した浅間丸級3隻と、バンクーバー航路のカナディアン・パシフィック(CPL)のエンプレス級シリーズに押されて旅客輸送でも苦境に立たされることとなった。
そこで、氷川丸級のうち2隻を使用船舶の老朽化が目立つ南米航路に転用し、シアトル航路には新たに新造船を投入することが決定された。
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昭和11年(1936)、大阪商船はオーストラリア航路に新造高速貨物船かんべら丸級(6,500t/17kt)2隻を投入し、門司−ブリスベーン間の所要日数を半減させて11日とした。日本郵船の同航路の就航船舶は、欧州航路への照国丸級就航によって配転された8,000t級の老朽貨客船3隻であり、その代替が急務となっていた。
日本郵船はこの2つの航路に投入する新造船を可能な限り共通の設計として、設計/建造費の低減を図った。シアトル航路向け三池丸級2隻(三池丸,三島丸)とオーストラリア航路向け安芸丸級2隻(安芸丸,阿波丸)の建造はすべて三菱長崎造船所が担当することとなり、それぞれ順に760,761,770,771という建造番号が割り振られた。契約船価はそれぞれ第1船が803万円、834万円である。1番船の起工は昭和15年(1940)2月となった。
氷川丸級の建造から10年を経て、旅客設備の上部/中央部への集中化、船室1室辺り船客数の低減などの居住性向上が図られている。1等が廃止されているのは、来るべき東京オリンピック(昭和16年予定)の開催に向けて建造が進められていたサンフランシスコ航路の橿原丸級との差別化を図るためであろうと思われる。
三池丸級と安芸丸級の差異は、各等級の定員、冷房設備の能力、開放デッキの有無など就航予定航路の違いによる船客設備の差程度で、船体及び機関の主要部はまったく同一である。唯一数値の相違するのは型幅であるが、図面を見ると舷弧(シーア)や船尾のカットアップ(水線下形状)が違うことからみて、両級の船型が大幅に異なる(特に船体後半部)ことが分かる。
しかし、戦雲は次第にその色を濃くしていく。三池丸級のネームシップ、760番船三池丸は翌昭和16年9月にどうにか竣工させたものの、同年11月、770番船(予定船名:安芸丸)を建造中の第三船台が軍用指定となって、建造準備中であった同船は解体されてしまう。ところがこの安芸丸という名前は生き残り、建造中だった761番船(予定船名:三島丸)に与えられることになる。 ここで建造番号が振り替えられており、同じく建造中だった771番船(予定船名:阿波丸)は770番船に変更され、771番が欠番とされてしまった。輪をかけてややこしいことになっているが、なぜこのような措置が取られたのかは分からない。
そして12月8日の開戦を迎え、建造中の安芸丸(旧三島丸)と阿波丸は、貨物搭載量の増加と旅客設備の減少を目的とした改設計が行われた。よって本来の安芸丸級は遂に1隻も竣工することなく、その姿は幻となって歴史の闇へと消えていった。
竣工した3隻も予定の航路に就航することは一度たりとてなく、三池丸が昭和19年(1944)4月潜水艦の雷撃を受けて沈没、安芸丸も同年7月同じく雷撃により失われた。 最後の―日本最後の優秀船―阿波丸も、翌昭和20年4月潜水艦の雷撃により沈没している。この件に関する詳細な記述は関連書籍に譲ることとする。
(※この項の記述は戦前船舶第15号と船の科学1992年6月号の記事を参考にしています)
竣工:1941.9
総トン数:11,738t/三池丸,114,00t/安芸丸,11,250t/阿波丸
垂線間長/幅/深さ:153/20.0(20.2)/12.6m ※括弧内阿波丸
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:14,000BHP
速力:20.6kt
旅客定員:ツーリスト(2等)100/3等136(三池丸)
ツーリスト37(安芸丸/阿波丸)
同型船:下記
・三池丸級/シアトル航路
760番船(予定船名:三池丸)→竣工(三池丸級「三池丸」)
761番船(予定船名:三島丸)→船名変更→竣工(戦時改設計三池丸級「安芸丸」)
・安芸丸級/オーストラリア航路
770番船(予定船名:安芸丸)→771番船に変更・建造中止
771番船(予定船名:阿波丸)→770番船に変更→竣工(戦時改設計安芸丸級「阿波丸」)
・貨客船安芸丸級(未成)
建造中止/戦時改設計により幻となった、オーストラリア航路用安芸丸級の完成予想図。
シアトル航路用の三池丸に比して輸送人員が大幅に増え、大型化された上部構造物と救命艇の増加、開放された舷側通路、緩やかな舷弧、船体後半部が肥えた船型など、より客船としての性格が強くなっている。
すなわち、三池丸級が他に就航船舶の多い北米航路において、主に貨物と平民旅行者・移民を廉価な運賃で輸送することに主眼をおいた性格付けがなされているのに対し、安芸丸級はオーストラリア航路を担う主要船舶として、富裕旅行者・政府高官から移民まで幅広い層の旅客輸送を目的としていることが伺える。
竣工:---
総トン数:12,000t
垂線間長/幅/深さ:153/20.2/12.6m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:14,000BHP
速力:20kt
旅客定員:1等97/特3等30/3等110/臨時旅客100
同型船(予定):安芸丸,阿波丸
・貨物船安芸丸(1942)
三池丸級を改設計し、貨物搭載量の増加と旅客設備の減少を図ったもの。
本来の三池丸の設計に対して、資材節約と建造期間短縮の為上部構造物が1層(遊歩甲板)減らされ、旅客定員はツーリスト37名と大幅に減少している。なお、載貨重量は約16%増加して10,550tとなっている。
竣工:1942.9
・貨物船阿波丸(1943)
安芸丸級(未成)を改設計し、貨物搭載量の増加と旅客設備の減少を図ったもの。
安芸丸級2番船という本来の設計に対して、資材節約と建造期間短縮の為上部構造物が三池丸と同等のものとされ、同じく1層減らされてツーリスト37名となっている。これによって客船としての性格が強かった為三池丸に比して小さかった当初の載貨重量は、改設計された三池丸級と同等までに引き上げられた。
しかし、設計変更が決定した時期の関係からか船型は三池丸とは異なり、安芸丸(未成)のものとなっているようだ。また、上部構造物も甲板の開放部分が大きいなど、オーストラリア航路用の安芸丸(未成)の面影が随所に見られる。あるいは、戦勝後(!)に復活するであろう同航路へ就航させる予定であったのかもしれない。
竣工:1943.3
橿原丸級
(---)Kashihara Maru class
客船橿原丸級(未成)
北米サンフランシスコ航路用として日本郵船が建造に着手した大型客船。後に海軍が買収、航空母艦隼鷹/飛鷹となる。
当時、北米航路において覇を競い合っていたのが、サンフランシスコ航路の日本郵船とバンクーバー航路のカナディアン・パシフィック(CPL)である。CPLの擁するエンプレス級シリーズに、昭和4年(1929)竣工の浅間丸級3隻では対抗が困難になりつつあったことに加え、昭和16年の東京オリンピック開催が決定し、日本郵船では新たな豪華客船建造の気運が高まりつつあった。
日本郵船の北米航路用客船建造計画を知った海軍は、昭和11年、有事の徴用・特設空母改装と引き換えに、建造費全額政府負担という条件で日本郵船に建造計画支援を申し出た。ところが大蔵省が政府負担5割を譲らず、これを海軍が説得してようやく翌12年、政府負担6割での建造が決定した。
総トン数26,000t以上、速力24kt以上の旅客船2隻の建造を助成するもので、1隻あたり建造費2,400万円の6割を政府において補助する―――これが「大型優秀船建造助成施設」で、適用されたのは橿原丸級2隻だけであり、同級を建造する為だけに整備されたものと言っても過言ではない。
支援される方の日本郵船も計画最高速力25.5ノットは過剰であり、採算の取れる運航は不可能として難色を示したものの、結局速力は原案通りとされた。建造にあたっては空母改装を見越して、速力確保の為、球状船首や高温高圧の主缶などの新機軸が採用されており、また機関室の前後にガソリンタンク用の区画があらかじめ設けられるなどの配慮が行われている。
しかし、両船とも客船としての竣工を待たずに航空母艦へ改装され、その姿は太平洋を覆う戦雲の中に幻となって消えていった。
橿原丸
起工:1939.3(40.10工事中断/41.2海軍により買収)
総トン数:27,700t
垂線間長/幅/深さ:206/26.7/13.9m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:56,250SHP
速力:25.5kt
旅客定員:1等220/2等120/3等550
出雲丸
起工:1939.11(40.10工事中断/41.2海軍により買収)
天洋丸(1946) Tenyo Maru
第一日新丸(1946) No.1 Nissin Maru
永仁丸(1954) Einin Maru
錦城丸(1954) Kinjyo Maru