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 思いつくままに言葉を綴って1年が経った。今、少しの達成感と、同じくらいの閉塞感が胸にある。

 これまで、自然と人の営みをこの目で追いたくて、ずっと旅を続けてきた。鉄道で、そして単車で。
 例えば、荒野を貫き、峠を越える鉄道。厳しい自然に耐え、土を削り、砂利を踏み固めて線路を敷いた人々。崩れる山や氾濫する河川と闘い、鉄路を維持した人々。名も知られぬ彼らは、何処へ行ったのだろうか。
 すでに顧みられなくなった峠道に、突如現れる廃村。かつては耕地だったと思われる急斜面につけられた小さな階段状の平地は、放棄されて久しいことを示すように、暗く繁った杉林となって自然に還ろうとしている。ここを拓き、ここに住んでいた人々は、何処へ行ったのだろうか。
 旅を続けながら、そんなことがいつも頭の片隅を離れなかった。

 歴史に名を残した人がいる。その向こう側に、無数の名も知られない人々がいる。知られざる歴史、などと言葉にするのも恥ずかしいが、できることなら彼らの遺したものを伝えていきたいと思った。

 いつからこんな生き方を始めたのかすでに判然としないが、思えば5年前の2000年2月、凍てつく寒気と雪に覆われた早朝の稚内で、とある小さな記念碑を見たのが一つの始まりだったようにも思う。

 自分がもはや中天に輝く太陽になれないことを嫌でも思い知らされる年齢を迎え、せめてその光を映して夜闇を照らす月であろうとしているだけの事かもしれないけれど。
 また次の一年、この閉塞感を取り払うような何かを探しながら暮らしていこうと思う。

 それがどのようなものかは、まだ私にも分からない。

('05.5.25)

 他人に拒絶されること。結局それが怖くて、深い関わりを持たずに独りでいる振りをしているだけかもしれない。
 何でも出来ること、何処へでも行けること即ち自由なことではないし、自慢できることでもない。いつの間に、こんな独り遊びが得意になったんだろう。

 でも、世の中で一番怖いことは何か、と聞かれたら、迷わずこう答える自信がある。

 「慣れること」

('05.5.25追記)

 北海道新幹線の起工式が行われたようだ。これでまた、時間的な距離が一歩近づく。

 そういえば、青函トンネルを走るのが特急列車だけになってから随分経つ。

('05 May.)

 白く乾いた田圃の上を、赤いトラクターがゆっくりと進む。その黒々とした筆跡は、長方形のキャンパスを規則正しく、余すところなく塗り上げていく。

 湿った土の香りがする。

 水が張られて代かきが終われば、田植えまであと少し。

('05 May.)

 人は時折、昔は良かった、という言葉を口にする。

 歴史を顧みるに、とてもそうだったとは思えないのだけれど。

('05 May.)

 自分探しなんてする必要はない。

 自分がここにいるという事実から目を背けない限り。

('05 May.)

 散った桜の花びらが、アスファルトの上で踊っている。
 見上げれば、青葉。今にも雫が滴りそうなその瑞々しさが、目に染みる。

 毎年春になると、日本各地で一斉に桜の花が咲く。そのほとんどが染井吉野(ソメイヨシノ)だ。
 人為的な交配によって誕生した染井吉野は不稔性で種を付けないため、挿木接木以外の方法で殖えることが出来ない。これは、遺伝子的にすべての染井吉野が同一のもの、すなわちクローン植物であるということを意味している。

 日本の桜のほとんどは、人の手によって植えられている。寿命60年説もあるけれど、これから先もずっと人と共に咲き続けて欲しい花である。これほどまで一つの花と国民が強固に結びついている例を、私は他に知らない。

('05 Apr.)

 信号待ちの停車中、どこからか漂ってきた甘い香りがふわりと辺りを包む。辺りを見回すと、木蓮の花が咲いていた。大ぶりな白い花は、ちょうど両の手の平を合わせてふくらませたような形と大きさ。

 どうしてこの木の名前を知っているのかについては、記憶に無い。

('05 Apr.)

 零下30度、エンジンの潤滑油さえ凍る冬。厳寒期、一日の運行を終えた車両は、一晩中エンジンをかけっ放しにして凍結を防ぐと聞いたことがある。


'01 2/15 北見駅にて

 旧国鉄池北線こと、北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線。九十余年の歴史に終止符を打つその日までに、私が乗る機会はもうなさそうだ。

 2006年4月、廃線予定。

('05 Apr.)

もうすぐ2年。

思い返せば、ちょうど桜の散る頃でした。
2度目の桜が、もうすぐ咲きますね。
今年、私は貴方と同い年になります。
私も、そろそろ戻らなければならないのでしょうか。私達がいた、あの場所に。

あれから2年。

以来、同好の士であり、師であった友人の時は止まったまま。
彼は、私が単車に乗り始めたことを知らない。その理由を伝える術も無い。

季節の巡る度ごとに、遺してきた思い出だけが遠くなっていく。

('05 Apr.)

 弥生も末に近いというのに、時折雪がちらつく。

 脱脂綿を引き伸ばしていくように、次第に空の青を浸食していく白い雪雲から、その薄片が千切れて舞い降りる。シールドに吸い付くように融け、じわりと水滴に変わる。乾いた灰色の路面に落ち、小さな欠片が転がるように消えていく。

 ふと気が付くと、シールドの水滴はいつしか埃の跡を残して何処かヘ去っていた。見上げれば、再びの青空。

('05 Mar.)

さらさらと、砂時計の砂が落ちていく。

ほんの少しずつの積み重ねなのに、
その流れは大河の如く、抗うことは叶わない。

輝きながら散る砂が、次第に量を減らしていくのを、
ただ見守ることしか出来なかったけれど。

遂に最後の一粒が落ちてしまった。

溜まった砂に涙することは止めて、砂時計を反転させることにしよう。
そうすれば、また新たな時が刻まれていく。

共に築いた思い出は、いつまでも心の中にある。
ここなら、色褪せることはあっても、汚れることはない。

また一つ居場所が無くなったような、この寂しさだけは如何ともし難いけれど。

それもまた、やがて新たに降り積もる砂の中に消えていくだろう。

('05 Mar.)

 遠くの景色は、天頂から地平線までを包んだ薄絹のベールの向こう側。

 風が温かみを帯びて南に変わり、日がほんの少し長くなって、春の気配が近づいてきた。梅の花が綻び、菜の花が咲き、土筆が顔を出す。

 でも、この清冽な渓流のように透き通った蒼い空とは、しばらくのお別れ。


岐阜県海津町にて

('05 Mar.)

 ヘルメットのシールドの下から忍び寄る、埃っぽい湿った匂いがツンと鼻腔を刺激する。

 雨の前兆だ。

 やがて、タンクに、メーターに、ハンドルに、ぽつりぽつりと水滴が舞い始める。
 輪郭をぼんやりと霞ませた雪雲が、家路を急ぐ夕暮れの空に覆い被さろうとしている。

('05 Mar.)

(4)
 今も数多の墓碑無き塚穴が、いつか訪れるであろう春を待っている。

 歳月は黙して何も語らない。ただ僅かな数の碑だけが、彼等の存在を後の世に語り継いでいる。

('05 Feb.)

(3)
 明治の半ばに至って、ようやく囚人労働は廃止された。替わって行われたのは、同胞の手による強制労働。

 多くは高収入という甘言にのせられて集められた、タコと呼ばれる労働者達は、外界と隔離されたタコ部屋に監禁され、過酷な労働環境の下で文字通り死ぬまで働かされた。監視役から日常的に振るわれた暴力の末に、同様の結果を迎えたことも珍しくはなかった。

 今は新線の開通によって廃止された旧石北本線常紋トンネル。大正半ばに開通したこの隧道で、内壁のレンガが崩落した跡から立ったまま埋められた人骨が発見されたのは、昭和の末のことだった。

('05 Feb.)

(2)
 文明開化と共に始まった北海道の開拓事業。農地開墾、鉄道敷設、道路普請、運河開削、築港、炭鉱山採掘など、数々の難工事を支えた底辺の労働力は、囚人だった。
 例えば、旭川と網走を結ぶ国道39号。この道路を敷く労働力の供給源として幾つかの刑務所が造られた。そのうちの一つが、後の網走刑務所である。そこから送り出された1,200人のうち、200名余が命を落としたという。

 未開の原野に斃れた囚人達がどこから来たのかは、明治初期の年表に記された事件を思い浮かべればよい。幾つかの反乱、戊辰戦争、西南戦争、自由民権運動。

('05 Feb.)

(1)
 歴史は、即ち文字である。
 文字を持たなかった人々が、後世にその存在を記す術を持たなかったということは、今日すでに彼等自身が証明している。

 また、近年に至るまで、文字によって歴史を残すことが出来るのは、ごく限られた立場の人間だけであった。時の流れは万人に平等であるが、歴史は存在を著す術を持たない人々を、時として故意にその膨大な頁の中に埋没させていく。

 開拓の記録を紐解いても、100年余を遡るのがやっとという、歴史未だ浅い北海道。今なお過去が闇に沈む前の残照を捉えることが出来る、最後の場所。

('05 Feb.)

 深々と音をたてて、雪が降る。空を覆う闇から突然街灯の中に白い欠片が現れ、濡れた地面に触れては消えていく。
 太平洋側に位置するこの地方にも、久方振りに積もるような雪が降った。

 上野を出た東北本線の始発列車が、上り貨物列車とすれ違う。まだ暗い車窓の外を、電気機関車が牽引する何両ものコンテナ車が轟音を立てて通り過ぎていく。
 何かちらちらと目の奥を刺激するものがある。よく見れば、車台に白くこびりついたもの―雪。たったそれだけで嬉しくなったものだけれど。

 『雪国の難義暖地の人おもひはかるべし』 ―北越雪譜―

 鈴木牧之という人物はそう記している。江戸時代の人間に怒られていては世話はない。

('05 Feb.)

 日頃からそうであるが、止むを得ない事情がある場合を除いて、私は欠かさず風呂に入ることにしている。見た目はともかく、せめて身なりだけでも清潔にしておきたいからであるが、旅に出ている時もこの習慣は継続され、キャンプ場の近くに銭湯があることは絶対条件である。温泉であればなお良いが、温泉に入りに行くことだけを目的とはしない。

 以前に何度か鉄道で北海道を回った時も―道内の夜行列車に7夜を過ごし、往路復路含めて0泊10日という旅をしたことがあるが―乗り継ぎの時間を利用して銭湯に通った。渡道を重ねた結果、函館、札幌、岩見沢、旭川、稚内、網走、釧路、根室、東室蘭の駅近くにある銭湯の場所は覚えてしまった。多分、今でも案内できると思う。

('05 Feb.)

 祖父の妹の娘の息子って再従兄弟(はとこ)でいいんだっけか。
 またいとこだそうで。つーかこんなトコまで見てましたか(笑

 年末に実家に帰って、風の噂に10歳程年上の彼もバイクに乗っているらしいということを聞いた。この12年ほど会った記憶はない。

 900ccだって。

('05 Jan.)

 既に持っている本を、また買ってしまった。新刊とはいえ、文庫本だから\700程度の出費ではあるわけだけど。

 財布の痛みに比して、この精神的ダメージの大きさはどうしたことか。

('05 Jan.)

(4)
 私が大学を卒業した頃、東北新幹線が八戸まで延伸開業して、盛岡-八戸間の東北本線は地元自治体が出資・経営する第三セクター化されてしまった。やがて新幹線が青森まで開通すれば、盛岡-青森間が三セク化されてしまうという。
 同時に輸送体系が大きく見直され、特急列車の充実と引き換えに青函トンネルを渡る快速列車はなくなった。乗り継ぐべき札幌行の夜行快速も廃止された。

 青春18切符だけに頼って普通列車を乗り継ぎ、車中泊のみで北海道を目指すことは叶わなくなった。
 おそらく、私が上野駅から東北本線の始発列車に乗ることは、もう二度とない。

('04 Dec.)

(3)
 青春18切符片手に東北本線の始発から普通列車を乗り継いでいくと、おおよそ7時半宇都宮、10時福島、12時仙台、14時一ノ関、16時盛岡、18時八戸、そして20時に青森に着く。

 普通列車のみの行程だと、青函トンネルを通って函館に渡る最終の快速列車に惜しくも10数分間に合わない。そこで、盛岡-八戸の間で1時間弱だけ特急に乗って時間を稼ぐ。これで函館を0時前に発車する夜行快速に乗り継げる。明朝6時には札幌だ。

 ここまで名古屋から実に30時間。遣ったのは18切符2日分\4,460と、一部区間の特急料金及び運賃だけだ。しかも、18切符の2日目はまだ18時間も残っている。
 時刻表さえあれば、どこへだって行ける。そんな気がしていた。

 さあ、どこを目指そうか。


'01 2/15 石北本線 トマム-新得間

('04 Dec.)

(2)
 上野駅、午前5時10分。5番ホームから、東北本線の始発列車が発車する。
 名古屋から夜行快速で、あるいは東京の大学に通っていた同級生の下宿から、この列車に乗るために何度もこのホームに足を運んだ。季節や目的地は様々だったけれど、ここから幾度旅立ったことだろう。

 右手の9番ホームには、太平洋寄りを通って北を目指し、東北本線と仙台で合流する常磐線始発、5:10いわき行が時を同じくして発車する。
 隣の6番ホームには新潟へ向かう上越線始発、5:13前橋行が少し遅れての発車を待っている。

 どの列車にも乗った事があるけれど、最も気分が高揚するのは東北本線の列車だ。何しろ、目的地までの距離が一番長いのだから。
 夏なら、辺りはすでに薄明るい。冬なら、まだ夜明けまでかなりの時間を残している。いずれにせよ、人気の無い早朝のホームに鳴り響く発車ベルの協奏曲に送られての出発は、長途への旅立ちに相応しい。

('04 Dec.)

(1)
 新幹線の路線が、再び延長されることになったと聞く。来年度の予算に、その為の費用の幾ばくかが計上されているようだ。

 私は何かしら意見を述べられるような立場にないけれど、一つだけ忘れることの出来ない光景がある。

('04 Dec.)

 日が沈むのが随分早くなった。時計は17時半を少し回ったところだが、もう道路は数珠繋ぎのテールランプが埋め尽くしている。

 上弦の月が、街の夜景を見下ろしている。

('04 Nov.)

 街灯の明かりに照らされて、車通りの絶えた道路にぼんやりとした霞がかかっている。
 昼間に暖められた大気の温度は下がり、夜の街はしっとりと湿り気を帯びた冷気に覆われている。グローブを外してうっすらと曇ったタンクに触れると、指先の跡が残った。

 Vツインのエンジンが、チンチンと鋭く小さな金属音を立てながら冷えていく。

('04 Nov.)

 チョークを引いて、セルスターターを回す。

 単気筒のエンジンは、咳き込みながら渋々と回転を始める。機嫌を伺いつつチョークを戻し、スロットルを少しずつ開けてやる。
 もう、そんな季節か。

('04 Nov.)

 白いセンターラインと灰色のアスファルト以外にも、見るべきものがあると思わない?

 他の人が何を考えながら走っているのか、とても気になる今日この頃。

('04 Nov.)

(4)
 こうしてImolaがウチにやってきた。もっとも、我が家はアパートで、バイク2台はカバーこそかかっているものの外置きになっている。

 なお、駐輪場の実に1/4を彼らだけで占領しており、他の住人にとっては大迷惑この上ないことと思う。2台の所有者が同一人物であることがばれませんように。

('04 Oct.)

(3)
 定期的にGooBike.comを覗いて、面白そうなバイクを探していた。
 わりとイタ車が中排気量モデルを出していて、モノもいろいろあるようだ。というか、最近(※注:個人的に'70以降)の外車で中免対応ってイタ車しかないよな、と思いつつ眺めていたら、群馬の方でMOTO GUZZIのImola V35が16万強で出ていた。
 独特なスタイルが記憶の中に留まっていた程度の知識だったが、350cc空冷縦置Vツイン、シャフトドライブのバイクだ。個人的には面白メカ満載である。

 輸送費を考えても、手の届かない値段ではない。ユーザー車検で通すには仮ナンバー取って車検場まで自走しなければ、とか色々考えていたら、すぐに売れたのか検索で引っかからなくなってしまった。

 その後すぐに、名古屋で同じバイクが出た。自宅から30kmくらいのところだから、行ってみた。親切そうなご主人は、かつてGUZZIに乗っていたことがあるという。
 メンテとパーツの心配もあまりしなくてよさそうだ。翌週、再び足を運んで購入契約をした。

('04 Oct.)

(2)
 エストレヤはメインバイクだから、いついかなる時でも絶対に動いて欲しい。行きたい時に行きたい場所に行けないというのは困る。だから、これまであまり弄ってこなかった。

 大きなバイクは好きではないから、何か色々遊べて、しかも普通二輪免許で乗れる程度のもの。そんな面白そうなバイクを探していた。
 国内の現行モデルで目ぼしいものはなく、国外モデルは高価な大排気量車ばかりだ。

 国産旧車は似たような直列2〜4気筒ばかりだし、パーツ類の入手に不安を感じる。トライアンフに代表される英旧車は、価格的にとてもじゃないけど手が出ない。それに比べればよっぽど安いロイヤルエンフィールドには惹かれたが、機構的にはエストと同じシングルだ。BMWにも250ccはあるけど、ちょっと古い上にやっぱり高い。アメリカンにはあまり興味がないし、そもそも大排気量車ばかり。
 そんなこんなで最初はあまり真剣ではなかったけれど。

('04 Oct.)

(1)
 これからしばらくは何度か聞かれると思うので、ここに記しておこう。

 MOTO GUZZIのImola V35というバイクを買った。車両本体価格は23万弱、車検取得その他と納車整備費用込みで乗り出しは32万強となった(任意保険別)。'84製造で走行距離は8,575km。
 私で3オーナー目で、前オーナーが東京で買って愛知まで持ってきたらしい。米屋さんだとかで、ずっと米倉庫の中で眠っていたようだ。状態には気を使ってエンジンを時折掛けたりしていたらしく、ひどい錆び等もなく程度は非常に良いと言っていいと思う。右のマフラーが削れていたりするので、最低1回の転倒歴があるようだ。

('04 Oct.)


愛知県安城市にて

いつの間にか稲刈りが終わり、
いつの間にか空が高くなり、
いつの間にか風が冷たさを帯び始め、
いつの間にか木々が色づき始めた。

いつの間にか日が暮れようとしている、週末の終わり。

('04 Oct.)

 会社のすぐ近くをのJR線は、昼間は2両編成のディーゼルカーが30分間隔で、朝夕の通勤時間帯には4両編成となってより頻繁に運行されている。

 ピョオォーッ、という甲高い汽笛が、ようやく涼しさの戻り始めた朝の大気を切り裂いて、稲刈りの終わった田圃の上を響き渡る。

 旅に出かけたくてしようがない、そんな金曜日。

('04 Oct.)

 青い半紙に白い墨を毛筆で掃いたような絹雲。薄く白いベールで空を覆う絹層雲。水玉模様を反転させたような巻積雲。

 信号待ちでふと空を見上げると、夏を経て表情に深みを帯びた秋の空がある。

('04 Sep.)

 夏の盛りは過ぎたとは言え、蒸し暑い日が続く。例えば、今日のような雨の日でも。

 合羽を着てから随分な距離と時間を走ってきたが、秋雨前線の降らせるしとしととした雨は、激しくはないものの容易に止む気配を見せない。
 突然、周囲の大気がふわりと変わったのを感じた。空気が冷たさを帯び、息苦しいまでの湿気が幾分和らいだ。どうやら前線を通過したらしい。

 もうすぐ雨は止むだろう。単気筒の鼓動も軽やかに、稲刈りの終わった田園風景の中を行く。稲の切株から再び緑が芽吹き、遠目には田植えが終わったばかりの水田のようだ。

('04 Sep.)

本日の戦果
 シャコ:バケツ(10L)2杯
 エビ:ドンブリ1杯
 ワタリ蟹:バケツ(同)1杯

 先の週末に会社の先輩や同僚、外注の業者の人など10人程で底引き網漁船に乗り、三河湾を朝から半日走り回った。

 とりあえず、ワタリ蟹は鍋かみそ汁の出汁取り用だからそのまま冷凍。エビは2回に分けてボイルし、冷ましてからこれも冷凍。
 問題は大量のシャコだが、これは茹でて身を取ってから保存するしかない。しかし、一人暮らしの身でこの量をどうしろというのだ。

 沸騰した鍋にシャコを入れ、茹で上がったら調理バサミで頭と尻尾を落とし、身の両脇を切って剥く。 大きな奴は身が剥がれるが、小さいのはこそぎ取るしかない。捨てるのももったいないので、殻に残った身にしゃぶりつきながら殻剥きを続ける。

 いつのまにか、缶ビール片手の作業になったのは致し方あるまい。最終的に中タッパー一杯分の身が取れた。所要時間、4時間。


自宅キッチンにて

('04 Sep.)

 指の間から砂がこぼれ落ちるように、日々が過ぎていく。

 この砂を、金に変える錬金術はないものだろうか。

('04 Sep.)

(2)
 「彼岸花には毒があるから、触ったらあかんよ」 そう言って幼稚園に入る前の私を諭したのは、祖母か祖父か、あるいは曾祖母だったか。

 彼岸花は球根で増えるためその繁殖力は非常に低く、100年で半径1mほどであるという。にもかかわらず、草むらを一面覆い尽くすほどに咲き誇る彼岸花の群落を見かけることがある。
 人が植えたからである。

 毒性を持つ茎や球根は、田畑の畔を荒らす野ネズミやモグラに忌避される。川の堤防や墓地にも、その害を防ぐ為に植えられた。
 また、その球根は飢饉の際の救荒食料としても用いられた。球根をすりつぶして水にさらすとアルカリ性の毒性物質は溶け出し、でん粉だけが沈殿するのである。

 長い年月を人と共に歩んできた植物が、今年もその忘れられた記憶を呼び覚ますかのように、一斉に花開いている。
 近年になって拓かれた新しい水田の畔には、稲刈りの季節になっても赤い彼岸花が咲くことはない。

('04 Sep.)

(1)
 黄色く色づき始めた川の堤防に、赤い曼珠沙華が咲いている。

 秋の彼岸の頃に鮮紅色の花をつけるこの植物の名は、確か”天上に咲く赤い花”を意味するサンスクリット語「マンジュシカ」の音訳だったように記憶している。またの名を”彼岸花”。

 家の周囲は一面の田園風景という環境で育ったので、小学校からの帰り道の記憶には、稲刈りの終わった田圃で籾殻を焼く煙の臭いと、畔や土手などで競うようにして咲く鮮やかな赤い花束が、今も鮮やかに残っている。

('04 Sep.)


愛知県蒲郡沖にて

 中部学生ヨット選手権大会における後輩の勇姿。

 彼らの姿を見ているのは楽しく、嬉しくもあるけれど、少し寂しい。私が最後に選手として出場したのは3年前になる。

 頑張れ、時間はまだ君達の味方だ。

('04 Sep.)

 時の流れ。

 その他諸々のことはともかく、これだけは万人に対し平等に訪れる。

 その価値を決めるのは自分であって、それ以外の何者でもない。

('04 Aug.)

(3)
 中学3年の修学旅行は岡山から山陰に出て、下関から広島に回るという中国地方を一周するコースだった。
 父親の好物と言い含められたこともあって、広島名物の柿羊羹を買うことにした。半分に割った竹に詰められたものが一般的だっだが、陳列棚の隅の方に小さなゴム風船に詰められたものがあった。「切腹〜」とは書いてなかったが、迷わずそれを手にとった。その時、もう祖母はいなかったけれど。

 家に帰って「これ、切腹羊羹やで」と袋を開けたら、妹に「そんな縁起の悪いこと言うな」と怒られた。母親は、昔私が何度か買って来ていたことを覚えていなかった。

 あの頃がふと蘇る。こんな些細な出来事を積み重ねて、日常がある。まだどこかに売ってるかな、切腹羊羹。

('04 Aug.)

(2)
 小学校高学年。父親に連れられて、百貨店に行った時のこと。1階のエスカレーターの裏側辺りに、駄菓子の量り売りをしていた場所があった。

 飴玉とかラムネとかいろいろなものがあったけれど、私の目に止まったのは「ピンポン玉くらいの小さなゴム風船に詰まった何か」だった。ゼリーにしては弾力があって、羊羹とかそんなものだろうと思ったが、父親も知らなかった。いくつか買ってもらって家に帰った。

 母親に包丁で切ってもらおうとしたが、風船は刃を入れた瞬間に弾けてつるりと剥けた。中身は羊羹だった。
 祖母に「これ切腹羊羹やんか」「楊枝で刺してみ」と言われ、その通りにしてみると、風船は楊枝を刺したところから綺麗に真っ二つに裂け目が入り、徐々に広がって中の光沢のある羊羹が露わになっていく。やがてその全貌が明らかになると、しぼんだ風船はぽとりと床に落ちた。その何とも言えない割れ具合は、確かに「切腹」だった。

 それから何度か買ってもらった記憶があるけれど、そのうち改装工事で駄菓子の量り売りはなくなってしまった。

('04 Aug.)

(1)
 中学校に入ったばかりの頃だと思う。

 NHKの総合だったか教育だったか忘れたけれど、深夜にぼうっとテレビ画面を眺めていたら、朗読が始まった。ナレーションと共に水彩風の画が一枚ずつ表示されていくそれは、あるいはテレビ紙芝居とか、テレビ絵本とかいうのかもしれない。

 その時は、題名も、ましてや作者も記憶に残らなかった。「切腹羊羹」という単語に思い当たることがあって、そんな番組があったことだけ覚えていた。

 先日、以前から読みたいと思っていた本を、新古取り混ぜてまとめ買いした。何日か経って、寝る前にベッドの上である随筆集を読み進めていた時、思いもかけずこの小さな物語に再び出会うことになった。
 文庫本にして8ページの僅かな分量だったが、内田百閧フ著になるこの「蜻蛉玉」という短編小説から、小さい頃の思い出が蘇ってきた。

('04 Aug.)

 大都会、渋滞、信号待ち。脂ぎった蝉の声。陽炎が立ち上る、ある晴れた夏の日の午後。アスファルトのフライパンで炙られながら、車の列に混じってじりじりと進む。

 後ろの車のボンネットから、クォーンと唸り声を上げて、エアコンのコンプレッサーが動く音がする。

('04 Aug.)


三重県南島町にて

 アブラゼミの鳴き声のシャワーの中、峠越えの県道を駆け上がる。道の両側は絶壁、ガードレールは無い。落石が散らばった路面はアスファルトの凹凸が激しい。

 オドメーターは国道の分岐から6kmの道程を走ったことを示しているが、地図上では3km程しか進んでいない。

('04 Jul.)

 久しぶりに平日の朝、名古屋に電車で出かける機会があった。東京のそれよりは迫力に欠けるが、30分程のラッシュアワーを電車と人に揉まれて過ごす。

 結果、どうも私は都会暮らしに向かないらしい、と再認識した。

('04 Jul.)

 以前から行ってみたいと思っていた場所があった。場所というのは正確でないかもしれないが、「林道」という名の情景に、以前から憧れていたのである。

 けれども、大学で林学を専攻し、林道設計の概要まで習った人間としては、どうも踏み込むのがためらわれる場所でもある。道路は走るためにあるが、林道は森を維持管理するための存在である。
 しかし、先日思いがけずその目的を達することになった。図らずも山越えの県道と間違えて乗り入れてしまったのである。

 それと気付いたのは暫く経ってからだったが、村営と思われる綺麗に整備された舗装林道は、同じく手入れの行き届いた杉林の間をくぐるように登って山頂を目指す。先の予定は狂ったが、もうどうでもよくなった。
 峠近くの見晴らしの良い所で停車してエンジンを切ると、あたりは自然のざわめきに満ちていた。
 地図が裏付けるように、数km四方に渡って人の気配がない。空気はひんやりとして、谷を吹き上げてくる風が気持ちいい。はるか遠くまで連なる山の頂が、青みがかってかすんで見える。
 しばし、森林浴の気分に浸る。

 帰途、市街地を走る片側3車線の国道で渋滞に捕まる。排気ガスと騒音が充満した大気の中、コンクリートの森を縫い、道路という川の流れに乗ってのろのろと走る。日は暮れたが、家までの道程はまだ遠い。

('04 Jul.)

 街路樹で蝉が鳴いていた。なんと気の早い、と思ったが、よく考えてみればカレンダーはもう7月だ。

 数珠繋ぎの車の屋根の向こうに、赤信号が陽炎の中でゆらめいている。

('04 Jul.)

 例えば、私がツーリングを計画していた日に雨が降ったことが多かった、という事実があったとしても、今後私がツーリングに行く時に雨が降ることが多い、とは必ずしも言えない。「ツーリングに行くこと」と「雨」に因果関係があるとは必ずしも言えないからだ。

 よって「雨男」なるものに根拠は存在しない。

('04 Jun.)

 夜は1日の始まりでもある。すくなくとも二千年近く前の時代はそうであったようだ。

 旧約聖書に登場する人類最初の女性の名、"eve"は始まりを示す単語である。今日でこそ聖誕祭前夜を意味するが、本来"Christmas Eve" とは「クリスマスの始まり」を指す。夕暮れ、宵といった意味の"even""evening"という単語も、これと何らかの関係があるとするのが自然であろう。
 日本の神道にも、日没と共に1日が始まっていたことを示す行事があるという。

 明日への無限の可能性を秘めて、闇の帳が降り、休息の時間が訪れる。

 ……まあ、高校時代には英語で何回か赤点を取っているのだけれども。

('04 Jun.)

 朝。澄んだ大気の中で、地上が未だ静寂に包まれている。

 さあ、どこへ出かけようか。地図を開けば、そこには無限の可能性が示されている。けれども、地図は黙して語らない。行き先は自分で決めなくてはならない。これこそがまさに「自由」というものだと思う。

 太陽が中天を過ぎ、やがて西に傾き始めると、大木の枝のように存在したはずの選択肢が次第に枯れ細っていくのを感じ始める。最後にはたった1つに収束し、そこがこの日の宿泊地となる。

 日常という道を歩く身にとって、行き先も定めずに出かける旅の目的のすくなくとも半分は、あの朝のわくわくする気分を味わう為にある。

('04 Jun.)

 梅雨入り前のこの時期は、単車が楽しい季節である。ちょっとした出会いもある。

 遠出して、とある道の駅で小休止。先着していた中年男性のライダーと少し会話を交わした。HONDAのSHADOW乗りだった。

 お決まりの「何処から来たの?」から始まった会話は、すぐに出身地についての話題になった。
 「生まれは三重県津市です」
 「そこには知り合いがいるよ。△△町に住んでる」
 「私も△△町ですが」
 「○○っていう苗字なんだけど」
 「。。。私の苗字も○○ですが」
 さすがに共通の知り合いではなかったようだが。縁は異なものである。

 ちなみに私の苗字はかなり珍しく、出身地以外では同じ苗字を見かけたことがない。

('04 Jun.)


三重県飯南町にて

 緑の谷間に鮮やかな赤いアーチ橋を架けて、国道が川を渡る。

 下にあるのはコンクリート製の沈下橋。増水した時は濁流の中に沈んでやり過ごす。同じものを四国の四万十川流域でよく見かけた。

 橋の上を疾走する何台かのバイクが、甲高い爆音を奏でながら景色を切り裂いていく。ヘルメットのシールド越しに、彼らは何を見て走っているのだろうか。

('04 Jun.)

 鶴舞。名大医学部、名工大、名古屋市立中央図書館などが立ち並ぶこの街は、古書店の街でもある。もちろん、東京の神保町には及ぶべくもないけれど。

 JRで名古屋の手前の金山まで出て中央本線に乗り換え、次の鶴舞で降りる。ここから地下鉄で西に一駅の位置には、日本三大電脳街に名を連ねる大須がある。
 単車で行くこともあるけれど、ここに足が向くのは大抵雨の日だ。

 先日の晴れた週末、珍しくこの街に行こうという気になった。鶴舞駅で降り、リュックを背負って駅の西側一帯を歩き回る。大通りだけでなく路地の中まで入り込んで、古書店と看板の出ている店を手当たり次第に梯子する。

 大抵の古書店は個人経営で、しなびたお爺さんかお婆さんか、あるいはその両方かで店番をしていることが多い。ついでといってはなんだが猫もいることが多くて、通りに面した日当たりの良い場所で昼寝を決め込んでいたりもする。

 当然そこは絶好の商品陳列場所であるからして、適当な区分けで雑多に並べられた本の上に猫が寝そべっていることになる。

 しばらく待ってみたけどもそこから退きそうな気配はなく、結局、ニャンコの下にあった本は諦めた。また今度、行けばいい。

('04 May.)

 今日、25歳の誕生日を迎えた。四半世紀を生きてきたんだなあ、と思う。

 痴呆が始まると、自分が最も楽しかった時の年齢に退行するという。
 もしそんな時がやってきたとしたら、私は何歳の自分を名乗るのだろうか。

('04.5.25)



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