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独白調。
(この文章は事実を元に再構成したフィクション、ということにしておきます)
8/10 晴 (続き)
8度目にして3年振りの北の大地、5年振りの夏。初めて彼の地に単車で轍を刻む時がやってきた。
程なくフェリーはほぼ定刻通り、室蘭港の埠頭に舫いを取った。
船内放送に急かされるように車両甲板へ降りて、慌しく出発の準備をする。ヘルメットを被り終えたあたりでライダーの1人に話し掛けてみると、昨日一日で夜までかかって東京から八戸まで自走して来たという。今日は近くで宿をとって体を休めるのだそうだ。
そんな会話を交わしてなお、手持ち無沙汰になるに充分な時間が過ぎて、ようやく甲板二層分一杯に詰め込まれた乗用車とトラックがすべて吐き出された。
ごつごつとした滑り止めの感触が消え、タイヤが岸壁のコンクリートを捉えた。海を渡ってくる涼やかな潮風を胸一杯に吸い込み、一拍おいて吐きだす。
さあ、北海道だ。
白鳥大橋を左手後ろに見ながら、室蘭の駅前を通過する。以前ここを鉄道で訪れた時は、夜の帳と零下の気温に包まれた一面の雪景色だったことを思い出す。凍りついた雪を踏み砕き、震えながらホームを歩いたあの冬。
まもなく市街を抜ける高架に入った。室蘭からR36に乗り、苫小牧を経て目的地である夕張を目指す。
北海道のツーリングマップルは20万分の1の縮尺だが、他の地域のそれは14万分の1だ。つまり、北海道の地図はより縮尺が大きくて、1ページに表示される地域が広くなっている。点と線、広大な大地に散在する都市とそれを結ぶ道路。
信号のほとんど無い直線路。2車線の国道は、山と海の境目をなぞるように北東へと路面を伸ばしている。キャブトンマフラーの奏でる排気音が、後ろへと飛び去っていく。
ツーリング中のライダー達と幾度かすれ違う。スポーツ、アメリカン、オフロード、ネイキッド。マス、ペア、ソロ。
ただ一つ同じなのは、この北海道の空の下でバイクに乗っているということ。ただそれだけで、みんな左手を上げて挨拶してくれる。
そして、頬に緩んだ笑いを貼り付けて走る、怪しい単車乗りがここに一人。
国道沿いのラーメン屋に入って朝とも昼ともつかない食事を取り、休憩もそこそこに再び単車に跨ってスロットルを握る。隣家との境に塀や囲いを持たず、屋根がトタン葺き、庭には灯油タンクという北海道独特の家並みが、ぽつり、ぽつりと通り過ぎていく。交通量はかなり多く、前後を車に挟まれたまま、流れに乗って北上する。
少し混雑する駅前を通過し、工場地帯を抜けたのは16時を少し回った頃だった。
まだ夕張までは50km以上の道程がある。今日中に到着するのも不可能ではないだろうが、少なく見積もってあと1時間半はかかる。テントを張り終える頃には日没を迎えてしまうだろう。
予定を変更して、苫小牧からR234を20kmほど北上したところにある、鶴の湯温泉で野営することにした。もちろん、ツーリングマップルに記してある位置情報以上のことは、何も知らない。
国道から左折し、県道を走ること暫し。案内の看板から砂利道を200m程入った所に旅館が建っていた。
同じ受付に入浴料を払って浴場に向かう。男湯の暖簾をくぐると、脱衣場には誰もいなかった。
いかに本州より涼しいとはいえ、湯上りには汗が噴き出してくる。廊下の自販機で日頃飲まない炭酸飲料、コカコーラを買った。発泡する冷えた液体が喉を通っていく、爽快な感触。久しぶりに味わったような気がする。
汗が引くのを待ちながら、今夜小樽を出港するフェリーで北海道を離れるという隼のライダーとしばらく会話をする。
今日の夕食と明日の朝食の材料は、苫小牧のコンビニで仕入れておいた。油を引いた小さなチタン製のフライパンでシーチキンマヨネーズのおにぎりをほぐし、カニ缶を混ぜてチャーハンを作る。さらに家から持参した最後の卵を目玉焼きにして夕食とした。
太い排気音と共に、ヘッドライトが坂を登ってくる。姿を現わしたバイクはVMAXだった。
周囲の木々を包むように夜の帳が降りて、ちらりとも瞬かない満天の星空の下、時を過ごす。往路の疲れからか眠くて仕方なくなってくるまで、彼と話し込んでいた。特に記すようなこともない、他愛のない話ではあるけれど。
もっと話していたい気分だったけれど、睡魔には勝てず、先にテントに失礼してシュラフに潜り込む。少し寒いくらいだ。
次第に遠ざかっていく列車の轟音にしばらく耳を澄ませていたが、そこから後は記憶にない。
(The 3rd day Fin.)
8/11 晴
近くに張られたテントがごそごそと物音を立て、やがてファスナーが開いてVMAX君が顔を出した。今日の行き先はまだ決めてないそうだ。時間がふんだんに使える贅沢さは、大学生の特権でもある。
1時間程を費やして、朝食を胃に納め、荷物のパッキングを終える。彼に別れを告げて、まだ静けさの中にあるキャンプ場を後にした。
じゃあまた、いつか、どこかで。
地平線を離れたばかりの太陽に背中を照らされて、田園風景の中、R234を北上する。朝方ということもあってか、2車線の国道は車通りも少なく、快調に走行距離を稼いでいく。途中ぱらぱらと雨粒が舞ったが、空は青い。どうやら天の気まぐれだったようだ。
夏の北海道の朝は、立ち込める霧のイメージがある。
札幌に向かう夜行列車が夜明けを迎える頃、窓の外は一面の乳白色の霧に覆われて、何も見えない。線路の横を併走する道路は、朝の薄明かりの中でわずか50mほどの間が黒く湿った路面を見せているだけだ。
幸い、今年の夏は文字通りの五里夢中で走ることはまぬがれたようだ。少し雲が多いが、空は高い。途中、ホクレンで初給油。黄色の旗を貰う。
R234から道道462を経由してR274へ出る。急峻な山肌を覆ったエゾマツとトドマツの針葉樹林が、両側から屏風のように迫ってきた。開けた畑地を突き進んできた国道は、川伝いに山の中へと分け入っていく。
夕張はアイヌ語の地名「ユーパロ」が語源になっているそうだ。「鉱泉の湧き出るところ」といった意味らしい。これに「本当の」を意味する「シ」がついて「シューパロ」、夕張川の源を表すという。
現在、大夕張ダムのすぐ下流に、一回り大きいシューパロダムが建設中である。このダムが完成すると、現存する大夕張ダムをも飲み込んで、シューパロ湖はその版図をさらに拡大することになる。
しばらく走ると、軒を連ねた住む人のいない炭鉱住宅、閉鎖になった保育所が左右に現れる。石炭産業華やかなりし頃の名残だろう。この先には、かつていくつかの炭鉱があったのだから。
緑の谷間に突然現れた、黄土色の平たい斜面。ひな壇のようなダムの工事現場を右手に見ながら、真新しいトンネルに飛び込む。白いコンクリートをオレンジ色のナトリウム灯が晧々と照らしている。
白く輝く出口を抜けると、前方右手に鏡のような水面が広がった。空を映した青い湖面の中に、白い雲が浮かんでいる。その映像を二つに割るように走っているのは、独特の形状をした、赤茶けた鉄橋。
下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁、通称「三弦橋」である。
ダムの建設事務所横の空き地に単車を停め、シューパロダムの完成によって湖底に沈む運命にある三弦橋を眺める。
他にも何人かのライダーが、この場所に惹かれるように停車する。その内の1人としばらく話をした。首都圏出身の中年男性は、もちろんと言うべきか、この橋については何も知らなかった。
三弦橋に別れを告げ、さらに北を目指して走る。
街並は数年前にほとんどが取り壊されたようだが、今にも崩壊しそうな家が一軒だけ残り、その骸を夏草に埋没させていた。
再びエンジンに火を入れる。今回の旅の最終目的地まで、あと少し。タンクバックのマップケースに差し込んだ地形図のコピーとマップルを見比べながら、右手を流れる川を何度も見やる。
緑の木々の中に、一瞬赤茶色の何かが見えた。ハザードを焚いて減速する。少し進むと、林道の分岐と思しき小径が右手の草むらに口を開けていた。対向車線を横切って、歩道に乗り上げる。サイドスタンドを蹴り出して、後ろに積み上げた荷物を大きく跨ぐように単車から降りた。
静寂の中、膝丈まで繁った草をブーツで踏みしだく音が、鬱蒼とした森の中へ消えていく。閉鎖された灰色のゲートをくぐって先へと進む。
旧陸軍の工兵の一種である鉄道隊が、破壊された鉄道橋の応急修理に使用したトラス構造の桁である。長さ3m、高さ1.3m、幅0.5mの二等辺三角形の鉄骨を1単位とし、これを縦に継ぎ足して細長い1本の桁を作る。桁をいくつか横に並べ、場合によっては縦にも積み重ねて橋桁を形成する。その列と段の数は、橋を渡る列車の重量と橋脚の間隔によって決定される。
私の祖父は先の戦争において徴兵され、5年間鉄道連隊に従軍していた。中国大陸やフィリピンの戦場に、鉄路を架けて回ったという。
幼い頃、寝物語に聞いた体験談は、幅3kmの黄河に重構桁で橋を架けた時のことに及び、そこで最高潮を迎えるのが常だった。
大夕張周辺には計3橋4連の重構桁鉄道橋が現存するが、この林道橋以外の2橋3連は先程通過してきたシューパロ湖の対岸にあり、国道からでも運がよければ望見できるはずだ。三弦橋と同じく、下夕張森林鉄道に架かっていた橋である。残念ながら、容易に到達できる場所ではない上に、ダム工事が始まってさらに訪れることは難しくなった。
ごろごろした石の川原に腰を下ろして、忘れ去られた橋を眺める。川の流れが奏でる水音が辺りを圧し、森の中に吸い込まれていく。
大正9年生まれの祖父は、終戦の年に25歳になった。今の私と同い年である。
それが、この旅に出ることを決めた理由だった。
ずっと同じ場所に立ち止まっているわけにはいかない。歩みを進めるとしよう。
そのままR452を独り北上する。行き交う車は無きに等しく、2車線の国道はまるまる自分のものになってしまったかのようだ。緩急のついた上り坂がかれこれ20km程続くが、付近に人の気配はうかがえない。「クマ注意」の立て札は何枚も見たが。
思い出したように、対向車線をライダーが駆け下りてくる。単車と一体になって踊るツイストの合間を縫って、ピースサインを交わす。
トンネルを過ぎて下り坂。どうやら分水嶺だったようだ。南から北へ、逆になった川の流れと共に山を下る。桂沢ダムで右折。ちょっと三笠に寄り道してから、岩見沢へ。
岩見沢の駅前のロータリーに滑り込む。3年前に訪れた時に行われていた改装工事は終わり、私の記憶にない、新しい駅舎が落成していた。
その同じ年、洞爺駅でコインランドリーを探してタウンページをめくったことがあった。コイ〜のページにコインランドリーという項目はなかった。表紙の掲載範囲を見返す。
その時はさほど切羽詰っていなかったけれど、今回は旅に出て4日目、かなり洗濯物が溜まってきている。毎日着替えているので、もう明日の分はない。まあ、国道沿いに走っていけば見つかるだろう。
ロータリーを発つ前に、もう一度新しくなった駅舎を振り返ってみた。古い建物がどんな形をしていたのか、もうほとんど思い出せなかった。
予想通り、コインランドリーは国道沿いにあった。洗濯物を両手で抱えて洗濯機にねじ込み、持参した洗剤を投入口に入れる。
乾燥まで含めると、2時間近い時間を要することになる。この間に、一つ調べておきたいことがあった。
前輪がかなり磨耗してきているのは確かだ。購入以来1年、14,000kmを走っている。スリップサインまで残り2mmくらいだろうか、交換して出てくるべきだったかもしれない。
あれこれひねくりまわしていると、2時間はあっという間に過ぎた。予約もなしにタイヤ交換も難しそうだし、騙しだまし持って帰るしかあるまい。最悪、陸送も視野に入れておこう。
R234を南に下る。道路を挟んで、大きなうねりのような、穏やかな丘陵地帯が360°に渡って視界に広がる。見渡す限りの耕作地だ。他の場所では見られない、独特の景色の中をエストレヤが行く。
本州における主要作物は言うまでもなく稲であり、普段目にする農地のほとんどがタイルを敷き詰めたような水田である。当たり前のことだが、田圃は水を湛えるために水平でなくてはならない。
ゆるやかな曲線を基調としたこの景色こそ、ちょっと日本離れした、いわゆる北海道らしさを感じさせるものなのだろう。
道道3号へと左折し、しばらく走ったところでスーパーマーケットに立ち寄った。大ぶりの帆立貝が安かったので、思わず手が伸びる。
けれど、今日は夕張でキャンプを張ることにした。峠を越えて、炭鉱の町へ。
夕暮れ時を迎えた静かな市街地をゆっくりと流す。古びた街並みに突如として現われる駅前のホテルに違和感を感じながら、石炭の歴史村へ向かう。今日のねぐらはここのキャンプ場だ。
隣、よろしいですか、と入り口近くにテントを設営していた中年の男性に声をかける。どうぞ、との返事に軽く頭を下げて、テント一つ分離れた場所にグランドシートを広げた。手早くペグを四隅に打ち、インナーテントにパイプを通して立ち上げ、フライシートを被せる。
と、もう一台バイクが坂を登ってきた。BMWのF650だ。
私は単車から下ろした荷物を二回に分けてテントの中に運び込み、着替えと入浴道具だけを後部シートにくくりつけて再びシートにまたがった。
駅前のホテルに併設された温泉で、一日の汗を流す。半袖ノーグローブの格好で、湯上りの火照った体を風に当てながらキャンプ場に戻った。途中のコンビニで缶チューハイを買っていくことは忘れない。
もはや恒例となったおにぎりチャーハンを食べながら、バーナーの上でホタテが口を開くのを待つ。
きっかけはやはり「どちらから来られたんですか」という言葉だった。私が話しかけると、X4氏は快く会話に応じてくれた。しばらくして、どこかに出かけていたF650氏が戻ってきた。夕食を食べに行っていたようだ。
バーナーを切り、小さなランタンのローソクに火を点す。寒さを感じて長袖のTシャツを着込み、ウィスキーを詰めたスキットルボトルを引っ張り出して口に含む。北海道最後の夜が更けていく。
X4氏は首都圏近郊、F650氏は愛知から来たという。それぞれの旅の目的や、乗っているバイク、これまでのバイク歴などに話が弾む。
さてそろそろ、と私が切り上げの言葉を口にするまで、結局何時間喋っていただろうか。
洗い物と洗面道具を持って坂道を降りていくと、下の方のキャンプサイトはまだざわめいていた。歯磨きを済ませ、洗い場でホタテを焼いた金網を洗うが、染み付いた磯の匂いが取れない。少し後悔する。
(The 4th day Fin.)
8/12 晴時々曇
テントの内側は水を撒いたように濡れていた。目覚まし時計の気温は18℃を指している。ファスナーを上げて天を見上げると、夜明け前の白い空がうっすらと青みを帯び始めていた。今日もどうやら晴れてくれるらしい。谷間のキャンプ場に日が差してくるのは、もう少し後のことになるだろう。太陽は、まだ山の向こう側にある。
残りのお湯で最後の一袋となったチキンラーメンを作り、野菜サラダを放り込んで朝食とした。他の2人は何も食べずにに出発するようだ。一緒に黙々とテントを解体し、軽く水滴を払って芝生の上で畳んでいく。
F650氏が軽く会釈して出発していった。早朝の澄んだ大気の中を、山肌に響く排気音が遠ざかっていく。
結局、夜が明けてからは2人と一言も言葉を交わすことなく別れた。けれども、いつか、どこかで再びあの人達と会ったら、また夜更けまで語り合うことだろう。
今日は何も予定がない。17:00までに、室蘭のフェリー乗り場に到着していればいいだけだ。けれども、最初に向かう場所は決まっていた。
もう一度、三弦橋を見に行こう。
閑散とした雰囲気を漂わせる夕張市内を抜け、昨日と同じ道を辿ってシューパロ湖に向かう。所々で道幅が狭くなり、まだ眠りから覚めない集落の中を抜けていく。なんとなく気分的に余裕が出たのか、昨日とは違うものも見えてくる。
大夕張炭鉱から出炭する石炭を輸送する為に敷設された私鉄であるが、片手間に旅客の輸送も行っていたらしい。かつて石炭が黒いダイヤと呼ばれていた時代には、石炭を満載した貨車の長い列を牽引する蒸気機関車が、日に何便もここを往復していたようだ。
昭和62年、炭鉱の閉山と時を同じくして廃止された鉄道の記憶を今に留めているのは、国道脇の所々に垣間見える道床の跡と、有志の手によって保存されている僅かな車両だけとなっている。
来年も、この光景はここにあるのだろうか。
もう少し先に行ってみよう。4kmほど北に進んで、昨日は横目にちらりと見ただけで通り過ぎた、国道の脇に姿を見せている鉄橋の袂に再び単車を停める。
エンジンを切ると、風はなく、あたりはせせらぎの音しか聞こえない。何を見るでもなく、しばらく明灰色のペンキに浮き出た赤錆と、緑の谷のはるか下に流れる小さな川を眺めていた。
さあ、帰ろう。
踵を返して単車に向かう。私の中で、この時、この場所から非日常から日常への帰り道が始まった。
新夕張に出て、苫小牧までR234を引き返す。結構な距離だが、2時間とはかからなかった。南下するにつれて空は薄い雲に覆われ始め、やがて一面の曇り空になる。
途中、苫小牧のレッドバロンに寄って、ハンドルの振れの原因を見てもらう。ステムベアリングかタイヤの磨耗だと言われた。今更ながら、前輪のスリップサインまで2mmという状態で出てきたことが悔やまれる。どちらにせよ、今すぐ打つ手はなさそうだ。
時計を見ると、まだ12時前だった。室蘭に直行するには早すぎる。コンビニの前でハンバーガーをかじりつつ、ツーリングマップルのページを繰って、適当な寄り道を探す。
支笏湖と洞爺湖の脇をかすめて伊達紋別へ出るルートが良さそうだ。後方羊蹄山まで足を伸ばそうか、とも考えたが、50kmは距離が伸びる。明日から3日間の帰路1,000km余に鑑みて、体力は温存するべきだろう。
苫小牧市内で給油し、道央自動車道の高架下をくぐって、エゾマツとトドマツが格子織り成す森へと続く1本道に入る。薄曇の空からは日差しが消え、少し肌寒いくらいだ。
濃い緑色の樹冠とくすんだ茶色の幹の列が暗い壁となって道端に迫り、一面べったりと雲に覆われた明灰色の空の両側を切り取っている。その中央を、黒いアスファルトと鮮やかな橙色のセンターラインが、はるか消失点まで続くゆるやかな上り坂となって、山裾に突き刺さるように消えていく。
そんな道が20kmばかり続く、樽前国道R276。左手に見える頂は、樽前山か、風不死岳か。
支笏湖畔で休憩しようと思っていたが、停められそうな場所はどこにもない。苔の洞門のところに駐車場はあったようだが、車とバイクで一杯だった。幾つもの山の峰々に抱かれた支笏湖は、木々の合間から暗い蒼色の湖面が時々ちらりと見える程度。
ほとんど人家を見かけないまま、支笏湖を通過して霧の美笛峠を越える。曲がりくねった坂道はどんどん高度をとり、やがて雲の中に包まれていく。電光掲示板が示す気温は24℃。寒い。
結局、道の駅「フォーレスト276大滝」まで走り切ってしまった。きのこ汁とコロッケを胃袋に納めて冷えた体を温め、一息つく。もっとも、軽い気持ちで荷物の上に置いたきのこ汁は風にあおられて転覆し、1/3ほど残っていた中身はサイドバックにその痕跡を留めて母なる大地へと還っていったけれど。
国道は鬱蒼とした針葉樹林の森を抜け、少し開けた場所に出た。牧場か耕作地と思われるなだらかな斜面を横目にしばらく走ると、程なく小さな集落に行き当たった。支笏湖からこちら、20km余を走ってようやく人の気配を感じる場所に出てきたことになる。空には雲の切れ間も出て、ちらちらと太陽が顔を覗かせている。
洞爺湖に向けて右折し、国道を逸れる。坂を登りきると、すぐ目前に青い湖面が広がった。つられるように、そのまま道なりに時計回りの方向へと単車を進めてしまう。しまった、逆だ。
1/8周ほどしたところで駐車場を見つけ、ウィンカーを弾いて滑り込んだ。エンジンを切り、ヘルメットを脱いで、アスファルトの駐車場から湖岸に広がる芝生の広場に出た。そこからさらに20歩ほど歩けば、透き通った湖水がひたひたと打ち寄せる波打ち際。
しばらく前から、洞爺湖は少し眺めるだけで、すぐ海岸沿いまで下ることに決めていた。連日長距離走行を重ね、さすがにもう疲れてきた。被り慣れたはずのヘルメットでさえ、鬱陶しく感じる。
さて、室蘭に向かうとしよう。
洞爺湖の南から、昭和新山が見下ろしている。
洞爺湖に別れを告げ、大きく砕かれた白い岩が散らばった川原の右側を国道は下っていく。途中、案内の看板にふと引かれるものがあって、ブレーキを握った。
山肌に刻まれた土の階段を何十段と上っていくと、林の中にコンクリートの塊がひっそりと鎮座していた。
道路に戻って再び単車を走らせつつ、注意深く辺りに視線を送ると、かつての路線の跡と思しき道床の盛り土が国道の側を走っていた。かつての橋脚の側に建てられた案内板には、日に日に隆起する地面に波打つ線路を保守し、何度も線路を付け替えたという苦労談が記してあった。
昭和新山の造山運動にも耐えた胆振線を地図から消したのは、それを維持したのと同じく人の手によるものだった。昭和62年、膨大な負債を抱える国鉄が経営再建を図るべく廃止を決定した不採算路線の一つとして、赤字ローカル線であった胆振線は分割民営化を待たずに廃線となった。
以来十余年、それと知るものでなければ、繁る青草に埋もれて鉄路の痕跡は分からない。
山の頂を結ぶように空を渡る、道央自動車道の高架をくぐってR37へ出る。伊達市内のホクレンで最後の給油。2つ目の道南を表す黄色い旗を貰った。
けれども、旅立ちの時に存在した無限の選択肢は、今すでに最後の一本へと収束しつつある。
あとは室蘭に向けて一直線。黄金を過ぎて峠を一つ越えると、行く手に再びの白鳥大橋が見えてきた。
とりあえずカウンターで乗船手続きは済ませたが、まだ出港まで3時間余りを残している。
このまま高速を走っていたらと思うと、ぞっとするものがある。
北海道最後の食事も、先ほどフェリーの待合室でコンビニ弁当を広げて済ませてしまった。いつものことながら、旅の空の食生活は殺伐としたものである。結局、名物と言われるものはほとんど口にしなかった。
気力が湧かない。相当疲れが溜まってきているようだ。
何をするでもなく、フェリー乗り場のベンチに寝そべって体を休め、空を眺める。メッシュジャケットを脱いでTシャツ一枚という姿に、夕暮れ時の海風は少し肌寒ささえ感じた。
また、ここに来よう。次がいつになるかは分からないけれど、そう遠い日のことでもあるまい。
いつの間にか、バイクは全部で20台余の集団になっていた。エンジンをかけてスタンドを払い、中程の位置で列に並ぶ。岸壁の街灯にぽつりと明かりが点って、やわらかい光を投げかける。
段差を越える小さな衝撃と共に、足元で二つの車輪がランプウェイを渡っていく。
藍色の夕闇迫る北の大地に、暫しの別れを告げて。
(Range of Hokkaido Fin.)
Mileage is a little less than 550km.
目が覚めたのは12時過ぎだった。船室の窓から外を眺めると、もう北海道は手の届く所にあった。
甲板に出ると、海を渡ってくる風は、昨日までのそれより少し冷たくて、乾いていた。最後にここを訪れた時、再びこの風に吹かれるのは、もっとずっと先のことだと思っていたのだが。
エンジンを掛け、係員が振る指示棒の指示に従ってスロープを下り、ランプウェイを渡る。排気ガスの充満した薄暗い船内から飛び出すと、さらりとした涼しい大気が黒のメッシュジャケットを透して肌に触れた。照りつける日差しは、紛れもなく夏のそれであるのだが。
それから5年。少なくとも一箇所、変わらない部分を持った自分がここにいる。
けれども特に違和感を感じないのは、時間当りの地図上での移動距離が、他の地域のそれとほとんど同じだからだろう。
地平線付近から天頂に向かって、次第に深みを増していく空の蒼。点在する白い雲は、左手に聳える連峰の山腹に影を落として、その緑に濃淡を彩る。右手に目をやれば、群青色の水彩絵の具を溶いたような海。けれどその量は岸辺まで及ぶべくもないのか、波打ち際は海底まで透き通ったエメラルドグリーンになっている。
紅白に彩られた製紙工場の煙突が地平線に姿を現わせば、もうすぐ苫小牧だ。
如何に北の大地と言えども、この時間帯になると太陽の光が次第に黄色味を帯びてくる。対向車線のアスファルトに長く引き伸ばされて、山のような荷物を積んだ単車の影が映る。道路の両側は林に遮られて視界は開けていないが、地図によればこの辺りは軽く10kmを越えて四方に広がる湿地帯のようだ。
家を出て3日目、さすがに疲れが溜まってきたようだ。当然かもしれない。走行距離はすでに1,200kmに達しようとしているのだから。
小高い丘の上にある木の脇にテントを張り、荷物を整理し終わっても、どうにかまだ太陽は地平線の上にあった。
食事の前に、温泉に入りに行くことにしよう。ブーツから履き替えたビーチサンダルをぺたぺた鳴らしながら、坂を下る。宿泊客だろうか、2階の窓から笑い声が聞こえてくる。
果たしてどこがキャンプ場か、と中に入って受付に訪ねると、「好きな場所でどうぞ」という返答。確かに建物の周囲に空き地がある。念の為に聞いてみたが、料金は不要とのことだった。
中の洗い場には年配の男性が2人いるだけだった。さして広くはない湯船で、ゆっくり手足を伸ばす。体中の筋肉が弛緩し、疲れが湯煙に溶けていくような心地がする。
釧路の方で一般道を120km/h走行していて、ふと気付くと隣に白バイがいたそうだ。20km/h超過で勘弁してもらったとか。その地域で白バイは1台しかいないらしく、貴重な体験だったわけだ。本人はとても残念そうだったけれど。
チューハイを1缶空にする頃、辺りは夕暮れ時を迎えていた。藍色がかった夜の闇が、東の空からゆっくりと歩み寄ってくる。
ヘルメットを脱いだ青年と挨拶を交わす。言葉の端々に東北の訛りがある。秋田から来た大学生で、しばらく北海道を旅するのだという。
目を閉じてしばらくすると、林の奥の方からゴォーという貨物列車の走行音が聞こえてきた。室蘭本線がすぐ近くを通っているようだ。車輪がレールの継ぎ目を渡るタタンタタンという音、連結器がガチャガチャと鳴る音がする。
フライシートのファスナーを開けると、朝の光と共に冷気がするりと流れ込んできた。このテントで夜を過ごすのは3度目だが、今朝はこれまでで最も快適な目覚めである。汗びっしょりになった過去2晩を振り返ると、夏に本州でキャンプを張るものじゃない、という言葉にも頷ける。
少々雲が多いが、どうやら今日も晴れてくれるらしい。バーナーでお湯を沸かしながら、日の当たる場所にフライシートを広げて乾かし、シュラフとインナーを手近な木に吊るす。気休め程度だが、気分の問題でもある。
そういえば昨夜、何日か後に彼女と函館で会うとか言っていたな。うらやましい限りだ。
車は時折行き交う程度。白いカーテンの奥がぼんやりと照らされたかと思うと、やがてヘッドランプの黄色い光が弾けて一瞬だけその全貌が明らかになり、再びカーテンの向こう側へと、赤いテールランプが溶け込むように消えていく。
新夕張駅近くの交差点で左に折れ、R452に入った。市街地を抜けて、シューパロ湖まであと10km。2車線だった道路は、所々で気まぐれに1.5車線へ幅を狭める。
これから訪れようとしているシューパロ湖は、天然の湖ではなく、昭和34年に建設された大夕張ダムによって出来た人造湖である。
シューパロダムの完成予定は、2004年度。
およそ40年前に廃止となった森林鉄道の廃線跡に残されたこの橋は、今は何に使われることもなく、高く突き出た橋脚の上からシューパロ湖の湖面にその赤錆びた姿を映している。その名の由来である四角錘の頂点を結んだ形状のトラス橋は、現存する世界唯一のものという。
事前に集めた情報に拠ると、ダムの完成は今年度中とのことだった。しかし、先程通り過ぎてきた工事現場は、冬までに工事が終了するとは思えない雰囲気で、工事の進捗は予定よりも遅れているように見受けられた。
途中、左手に道路で碁盤目状に区切られた一画を見つけて停車する。ダムの完成で水没する為、住民の移転が行われた鹿島地区だ。
エンジンを切ると、降り注ぐ日の光の音が聞こえてきそうなほどの静寂。雲の陰が、ゆっくりと主の去った街跡を横切っていく。
200mほど進むと、水の流れる音が聞こえてきた。と、行く手の木立の間に空へと続く空間が出来て、橋が見えた。基礎の脇から、身長の2倍程の高さの崖を下って川原へと降りる。緑の両岸を渡して、赤錆びたトラスが架かっている。小巻沢林道橋である。
重構桁鉄道橋。
シューパロダム完成の暁には、やはりそのいずれもが湖底に沈むことになる。
斜面の尾根と谷に沿って不規則にターンを繰り返す道を、軽く左右のステップを踏み替える様にこなしていく。タコメーターの針は最大トルク発生回転数付近で躍り、油温計は70℃辺りをピタリと指したまま。快調に回るエンジンは、乗り手の心をも高揚させていく。
-***-
目的の公衆電話はすぐに見つかった。タウンページでコインランドリーを探す。すぐに見つかったのは幸いだった。住所を覚え、駅前の案内地図でだいたい見当をつける。
ざっと見積もって、30km四方にコインランドリーは一軒もないということか。
そういえば、函館駅も新しくなったと聞く。また、鉄道で北海道を周ってみたいと思う。できれば、バイクの走れない冬に。
一昨日あたりから感じていたことだが、どうもハンドルがブレるのだ。最初は高速道路のSAに入る時、減速し始めると振れ出すのに気付いた。その時は路面のせいだろうと、特に気にしなかった。
今日R452を走っていて、その症状が段々低速でも現れてきているのが分かった。これはどうも気のせいではないらしい、という結論に至る。何かがおかしい。
よく見ると、左に比べて右の溝の残りが少ない。少し偏磨耗しているようだ。まあ、北海道に渡るまで、高速道路の左車線を延々1,000km連続走行している訳ではあるが。
今更悔やんだところで手遅れである。とりあえず、今できることをやってみる。荷物を全部下ろしてセンタースタンドをかけ、空気圧のチェック。スポークの増し締め。ハンドル周りの増し締め。
全部やってから少し辺りを走ってみたけれども、やっぱり振れは止まらない。
そんなことを考えながら、再び単車に荷物を括りつける。
例えば棚田のように、どんなに奥深い山地の農村であっても人が暮らす風景の中には必ず平面が刻まれていて、その上に日本の農村風景が形作られている。
買おうと思ったバーナーに使うカセットガスが置いていなかったので、道を挟んだ向かい側にあるコンビニに向かった。レジのおばさんは、親切にも町内にキャンプ場があることを教えてくれた。
すでにキャンプサイトはキャンパーとライダーが張るテントで、かなりの部分が埋まっていた。受付で台帳に住所と氏名を記し、エンジン音を気遣いながらそろそろと坂を登って、少し奥まった場所にある芝生広場で単車のスタンドをかけた。車止めでキャンパーが入ってこられないこともあって、先客はたった一人。ホンダのX4が停まっている。
ライダーは20代後半くらいの青年だった。会釈を交わしてテントを張り始める。ちょうど3つのテントが等間隔に並んだ格好だ。
このキャンプ場はかつての炭鉱の跡地につくられている。キャンプ場を囲む周囲の山肌には、かつて人家があったと思われる痕跡や道路のガードレールが見える。おそらく、石炭産業華やかなりし頃は、あの斜面一杯に炭鉱住宅が並んでいたのだろう。
山の稜線が、次第に夜空に溶け込んでいく。
すぐに自分のテントから戻ってきて、「あの250ccに乗っておられるのはどちらの方ですか?」と会話に参加する。もちろん、私のエストレヤであるが。
F650氏はかなり旅をされているらしく、バイクには色々な場所を訪れた印のシールが貼られていて、その中の一枚は佐多岬のものだった。オフロードと山登りがメインのようで、テントもかなり本格的だ。途中、X4氏に電話がかかってきた。レブルに乗っているという娘さんからだという。
話の流れで、銭湯やコインランドリーの見つけ方を話す。駅前には必ずある電話ボックスのタウンページを使うだけのことだが、「旅慣れてるなぁ」とお褒めの言葉を貰う。悪い気はしない。
テントに戻って寝袋に入ると、X4氏のテントからいびきが聞こえてきた。疲れているところをお邪魔してしまったかのもしれない。そう思いながら目を閉じていると、私もすぐにそちらの世界へと引き込まれていった。
朝方の冷え込みに眠りを妨げられて、寝袋とインナーをかき寄せてはもぐり込み、何度かうつらうつらとしたような記憶がある。最後に目が覚めた時、テントの中はすでに明るかった。意を決して体を起こす。
あたりには夜露がびっしりと降りている。バーナーでお湯を沸かしてコーヒーを淹れつつ、干すのを諦めた寝袋とインナーを、収納袋に押し込んだ。両隣のテントでも人の動き出した気配がする。
続いて私がまとめ終わった荷物を単車に縛りつけ、X4氏に会釈してキャンプ場を後にした。
道路の左側に、堤防のような盛り土が延々と続いている。道路がアップダウンを繰り返しているような場所も、その堤防は一定の高さを保って直線と緩いカーブを描いていた。かつてここを走っていた、三菱大夕張鉄道の痕跡である。
程なく、昨日の三弦橋を望む場所に到着した。湖を囲む森の木々の梢から、白い朝霧がこぼれ落ちるように湖面へと流れていく。
ふと気付くと、バイクの排気音が近づいてくる。振り向けば、1台のオフロード車が大きく左手を上げながら反対車線を走り去っていくところだった。
その後姿に手を振って、カーブの向うに消えるまでしばらく見送った。ミラー越しにでも気付いてくれただろうか。
しかしまあ、「シリベ(後方)シ(羊蹄)山」なんて、どうひねくりまわしたって読めたもんじゃないぞ。
山間に刻まれた川筋をなぞるように、単車を走らせていく。時折車とすれ違う程度で、シールド越しにもミラーにも自分一人だけの旅路がしばらく続く。道連れは体に伝わってくるエンジンの鼓動と、谷間に木霊する排気音だけ。
左側通行だから、反時計回りの方が反対車線を挟まない分、湖がより身近に感じられるから、というのがその理由な訳だけども。でも、よく考えてみると、ぐるっと1周せずにUターンしてしまえば、帰りは反時計回りだ。
芝生に腰を下ろして中島をぼうっと眺めていると、ベンチに寝転んでいたおじさんから声が掛かった。北海道でバイクに乗っていれば、よくあることではある。
バイクは少し離れたところに停めてあるが、ハーレー乗りだという。どっち回りで洞爺湖を回っているのか、と聞かれる。支笏湖の方から時計回りで来たことを告げ、「ここでUターンしようと思ってます」と続けた。
愛知から自走してきて、今日の室蘭発のフェリーで同じルートを使って帰ることを伝える。驚き、呆れ、感心、そんな感情が混ざった反応が返ってくる。この数日で、もう何度も経験したことではあるけれど。
昭和18年、突如麦畑が隆起し始め、2年ほどの間に標高400m余の山が出現したという。山頂の溶岩ドームからは、今も白い墳気が立ち上っている。
小学校の図書館に、この山の誕生を観測しつづけた人の伝記があった。何度も借りて読んだ記憶がある。
昭和新山の形成に伴う地面の隆起によって、この位置まで持ち上げられてしまった旧国鉄胆振線の橋脚だという。かつてこの橋が架かっていた河床は今、ここよりはるか下にある。辺りを覆った木々の幹の太さが、過ぎた年月を偲ばせる。
岩見沢以北では道北の青い旗になるらしい、と地図を見ていて気付く。昨日給油しておけばよかった。特に集めていたわけではないが、なんとなく残念な気分だ。
フェリーターミナルの階段を下りて、外に停めてあった単車の側に戻り、何の気なしにセンタースタンドをかけてタイヤのチェックをした。前輪の溝の残りも気になったが、フェリーを降りた先には1,000km余の帰路が続いている。
後輪に小指の爪の半分ほどのアルミ片とおぼしきものが刺さっていた。慌てて前輪もチェックすると、こちらにはそれよりやや小さめのガラス片が埋まっている。
フェリー乗り場の手前でチキウ岬まであと4km、という看板を見たことを思い出し、行ってみようかどうか考える。今の私にとって、その行動を取ることは充分に一考を要するものだった。
ライダーが三々五々集まりだした。そのうちの大阪から来たと言うライダーと少し話をしたりして、時が過ぎるのを待つ。
やがて太陽が西の山際に差し掛かり、ふもとの影が次第にこちらへと伸びてくる。辺りがその暗がりにすっぽりと包まれ、さらにしばらくの時間が経った頃、ようやく乗船の案内が始まった。
やがて赤い旗が振られ、先頭のバイクが、街灯に照らし出されたフェリーのランプウェイを駆け上がっていく。私も前のバイクに続いてクラッチを繋いだ。