第一章
最北の鉄道連絡船
平成12年2月23日、午前6時。下り311D列車急行「利尻」は、終点稚内に定刻通り到着した。窓の外では、藍色に染まった夜明け前の街が、雪の中でしんと静まり返っている。暖房の効いた列車からホームに降りると、乾いた冷気が鼻の奥から肺を刺激した。足元から寒さが這い上がってくる。気温は零下5度である。
天ぷらそばで腹ごしらえを済ませると、荷物をコインロッカーに預けて駅を出た。次の上り4326D普通列車は、6時41分の発車である。あと30分ほどしかない。その次の7時52分発302D急行「宗谷」でも、旭川到着の時刻にほとんど違いはないのだが、せっかくなら沿線地域の生活により密着した、鈍行列車の方に乗りたいと思う。
地図によれば、駅舎を出てすぐ右手に続く細い道を、まっすぐに行くと稚内港である。なるほど、突き当たりに白い雪に埋もれた灰色の壁が見える。稚内港の防波堤であろう。除雪された雪に埋まった歩道をあきらめ、まだ車通りが絶えたままの車道を歩く。300mほど進むと、さきほどの防波堤に到着した。横にはしおさいプロムナードという看板が立ち、堤の上に遊歩道が整備されている。ふとこの上に登ってみようという気になった。コンクリートの上に20cmほど積もった新雪を踏み固めながら、階段を登り、歩道に立つと一瞬にして視界が開けた。 あたりはまだ薄暗く、空は一面灰色の雲に覆われている。鉛色の海面に、白く砕ける波頭がはるか水平線まで見渡せる。強い北風に乗って、防波堤に打ち寄せる波が舞い上がり、飛沫を散らす。想像したとおりの冬の宗谷海峡が眼下に広がっていた。
階段を下りると、右手には楕円を4分の1に切りとったような半アーチ型の波除けに、古代ローマ建築風の円柱とアーチの回廊を持つ、かつての北防波堤、通称”利礼ドーム”がそびえていた。円柱が数百メートルにわたってずらりと並んでいる光景は、なかなか壮観である。保存工事中なのだろうか、回廊には立ち入り禁止の看板が立っていた。港には、白い船体のカーフェリーが2隻と、ロシア文字の船名が書かれた貨物船が接岸し、その向こうに係留された多くの漁船がうねりに揺られていた。
今を遡ること四分の三世紀の前、ここ稚内と樺太(現 サハリン)の大泊(現 コルサコフ)を結ぶ鉄道連絡航路が開設された。濃霧、暴風、潮流、海氷、降雪などの厳しい自然条件と戦いつつ、最新鋭の砕氷船を投入して、鉄道輸送の使命である定時確保に努め、終戦によって消滅した、この航路のことを知る人は少ない。
ふと見た時計は、上り普通列車の発車まであと7分を差している。まだ間に合う。記念碑を後に、踵を返して駅へと向かう。私は、ようやく明るくなり始めた道を小走りに駆け出した。
1.樺太航路の誕生
樺太が日本の領土となった明治38年(1905)8月、日本郵船が民政省の許可を得て、函館−小樽−コルサコフ(大泊)間に北海道と樺太を結ぶ初めての定期航路を開いた。当時、鉄道は旭川から延びる天塩(てんしお)線(現 宗谷本線)が明治36年(1903)にようやく名寄(なよろ)まで開通したばかりであり、海上距離で420kmに達する小樽からの発着となったのである。
この航路開設を始めとして、北海道−樺太間の自由航路には以後も新たな運航会社の参入が続いた。翌39年には函館・コルサコフ(大泊)線が廃航、代わって逓信省命令航路小樽・九春古丹線が設けられ、やはり日本郵船が運航を担当した。樺太沿岸にも民政省による命令航路が誕生する。明治40年(1907)に樺太庁が設置されると、小樽を起点として大泊を経、樺太東西両沿岸に至るという、宗谷海峡を横断する樺太庁初の命令航路が2線開設された。翌41年には同区間に冬季航路が創設され、明治45年(1912)になるとこれら命令航路は計10線に増える。これより後も航路は着実に増えつづけ、改廃、統合などはあったものの、大正14年(1923)までに以上に加えて航路新設8線、延伸1線を数えるに至った。 順調に増加する航路に対して、その内容はどうであっただろうか。明治45年当時、これらの命令航路にはそれぞれ1〜2隻の船が配船されて、毎月1〜3回程度の航海を行なっていた。ところが、そのほとんどが気象条件の比較的穏やかな夏期に限定された航海であり、北西の季節風が吹き荒れ、氷に閉ざされる冬期に航海を行なうのはわずかに2線のみであった。また、この航路に配船されたのは千トン未満の小型船が多く、船齢15年を超える老朽船の割合も高かった。このため旅客設備や堪航性は劣悪なもので、濃霧や時化による欠航が頻発し、特に冬期間はほとんど途絶状態であったという。 一方、鉄道は明治44年(1911)に天塩線名寄−音威子府(おといねっぷ)間53.1kmが完成し、旭川−音威子府を結ぶ天塩線全線が開通する。さらに大正3年(1914)音威子府−小頓別間15.6kmの開通を手始めとして、音威子府−稚内間を結ぶべく建設の進む路線は宗谷線と命名され、中頓別、浜頓別、浅茅野と最北の地を目指してレールを延ばしていく。途中大正8年(1919)に、天塩線及び宗谷線を統一して宗谷本線と改称され、翌大正9年には鬼志別までが部分開通し、稚内までおよそ50kmを残すのみとなった。
2.開設に向けて
これら住民の声を背景に、まず大正11年(1922)5月17日付で、稚泊間連絡航路が北海道と樺太の開発上重要である、とする旨の上申書が、北海道長官から鉄道大臣に提出される。続いて、30日付で樺太庁長官から鉄道大臣に宛てて、「樺太北海道間船車連絡ニ関スル件」として、上申書が提出された。当時、北海道と樺太を結ぶ航路が小樽経由のみであり、北部北海道からは迂回せざるを得ないという交通の不便さを説いたもので、省営航路開設の動きに一層の拍車をかけることになった。
『(略)樺太北海道間船車連絡ニ関スル件了承右ニ関シ当省ニテ左記ノ如キ計画ヲ持ッテ運航開始スルトキハ開始当初ニ於テ年間約十八万八千円ノ欠損ト可相成見込ニ付収支ノ均衡ヲ得ルニ到ル迄年々之ガ保証ヲ貴庁ニテ負担可相成哉(略)』つまり、航路の開設には同意するが、運航開始当初に生じるであろう年間18万8千円(当時)の赤字を樺太庁で負担してくれないか、というわけである。この要求の背景には、当時樺太における鉄道の管轄が、鉄道省ではなく樺太庁にあったことが影響していると思われるが、若干虫が良すぎる感は否めない。 なお、この時の「左記ノ如キ計画」とは、後述する壱岐丸型2隻を用いて毎日上下各1運航を行なう、ただし冬期は隔日上下各1運航に減便するというものであった。 しかし、当時の樺太庁の財政にはこの提案を受け入れる余裕がなく、7月20日鉄道大臣に打電して、この負担額を樺太庁と鉄道省、及び北海道庁の三者で分担するよう配慮を要請した。これを受けて12月22日、次の具体的実行案が示された。 『(略)当初ニ於テ左記ノ通運行計画ヲ樹テ船車連絡ヲ開始スルモ現在ノ運輸数量ニヨリセバ当省ニ於テ多額ノ損失ト可相成ニ付若シ貴庁ニ於テ大泊港内ニ於ケル接続作業ヲ負担セラルルニ於テハ収支ニ大差ナキ見込ミナルヲ以テ左ノ方法ニ依リ本連絡航路ヲ開始スルコトニ致度(略)』「接続作業」とは、切符の販売、旅客・貨物の積み下ろし、冬期の港内砕氷などのことで、これらを樺太庁に負担してもらいたい、ということである。当初の見込みによれば、これらの経費は当時の金額で年間7万8千円を要するとされていた。先の提案より幾分安上がりであるが、計画も縮小されており、壱岐丸型1隻を用いて4〜11月の間、隔日上下各1運航を行なうというものであった。 その1ヶ月半ほど前の11月4日、最後まで残った鬼志別−稚内(現南稚内)間が完成し、旭川−稚内を結ぶ宗谷本線*3が全線開通した。 これにより航路開設の動きはますます加速し、翌12年1月8日に鉄道省の省議で稚内・大泊間航路の開設を決定し、24、25両日に運輸省内で航路開始に必要な施設に関する協議会を開催、成案を得た。これを受けて、2月から鉄道省と樺太庁の間で折衝が重ねられ、連絡設備や連帯運輸、業務取扱などの事項を定めた上で、3月27日に協定書が交わされた。航路開設は5月1日とされた。 そして、大正12年(1923)5月1日午後9時、大泊発上り2便として、かつて関釜航路で第一船として就航した壱岐丸が、再度の栄誉を担い稚内に向けて大泊を出航した。「稚泊航路」の開幕である。
1.日本初の航洋連絡船
しかし、明治37年(1904)といえば、日露戦争開戦の年である。しかも、その主交戦海域である対馬海峡に連絡航路を開設する計画を立て、渡峡船として客船の発注まで行なうとは無神経なまでの大胆さである。
その後日露戦争が日本側の辛勝に終わり、9月5日にロシアとの講和条約が成立したことを受けて、山陽鉄道はわずか6日後の9月11日から「下関−釜山間航路」を開設した。すでに同年1月京釜鉄道の京城−釜山間は全通しており、待ちかねたような運航開始である。運航は山陽鉄道の子会社である山陽汽船が担当した。
ブリッジの真下にあたる上甲板の前部室を一等客社交室(サロン)兼出入り口広間(エントランス・ホール)とし、その下のメインデッキには一等食堂がある。両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており、天井には色ガラスの天窓(スカイライト)が設けられた。天窓の模様には山陽鉄道の社章が模されおり、これは晩年に至るまでそのまま残されていた。談話室の左右及び前方には、壁に沿って長いソファーが取り付けられ、その後方には一等船室が2室、また食堂の左右両舷にも一等船室が2室ずつ設けられている。二等室は上甲板後部に、三等室は第二甲板後部に設けられ、二等室は二段寝台、三等室は二重雑居棚で、いわゆる"お蚕棚(かいこだな)"と称するものであった。旅客定員は一等18人、二等64人、三等235人で計317人、新造時の要目は表1の通りである。 特色があるのは機関の配置で、背の高い蒸気レシプロ機関を普通に据え付けると、頂部が中甲板付近で幅を取るため、両舷の主機関を中心に向かって傾斜させ、船室や通路のスペースを確保している。
2.関釜航路の発展
朝鮮半島の鉄道はその後も路線を延長し、釜山からの直通列車は、明治41年(1908)4月には半島西海岸の中国との国境付近にある新義州(シニジュ)まで、11月に鴨緑江(おうりょくこう)の鉄橋が完成すると奉天(ほうてん、現 瀋陽(シェンヤン))まで、そして翌45年6月には長春(チャンチュン)まで運行されるようになる。これによって日本と朝鮮、満州の間に関釜航路を介して鉄道による輸送体系が確立し、関釜航路を通過する客貨も日を追って増加していったのである。
大正11年(1922)5月、関釜航路に新造客船景福丸(3,620総トン)*2が就航する。日本初のギヤードタービンを装備した高速船で、この時同型船2隻が建造中であった。これらがすべて就航した暁には、それまでの主力であった高麗丸型2隻を定期貨物便に転用、壱岐丸型2隻は余剰となる見込みであった。これを受けて、前述の通り大正11年7月に、稚泊航路に壱岐丸型2隻を用いるという最初の計画が、鉄道省から樺太庁へ通達されていた。
3.砕氷船に転身
この改造によって、船体は3.8m長くなり86.3mに、喫水は0.5m深くなって4.3mとなった。総トン数は壱岐丸が1,772t、対馬丸が1,841tに増え、旅客定員も計512人と増加している。 対馬丸は回航翌々日の6月8日から隔日運航を開始し、対馬丸の検査や入渠工事の時には、代船として壱岐丸が運航することになった。稚内−大泊間90海里の所要時間は片道8時間であった。 こうして順調な滑り出しを見せたかにみえる稚泊航路であるが、北の自然が猛威を振るう宗谷海峡で、彼女達は想像以上に厳しい戦いを強いられるのである。
公開:00/06/28
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