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 第三章  航路消滅


六 最果ての地へ

1.稚内港
 稚泊航路開設時、稚内港は工事中で係留設備がなく、連絡船は錨泊か係船浮標に繋ぐ”沖がかり”であった。乗客や貨物は補助汽船に曳航された艀(はしけ)で運ばれ、海上で連絡船に移乗積み替えを行なっていた。また、当時の稚内駅(現 南稚内駅)は町の南端にあり、桟橋待合所までの約1.5kmは徒歩で連絡しなければならなかった。

 当時、接岸できる岸壁がないため、連絡船は時化の時には港内に停泊することができず、やむなく沖で踟ちゅうするか利尻島に避航するかしていた。流氷が襲来した時も入港することができず、野寒(野寒布,ノサップ)岬の南西、稚内の裏側に当たる坂の下に避難し、乗客を乗降させたこともあった。このため坂の下に仮桟橋を築造したほか、大正13年には1月から4月まで民家を有料で借り上げ、冬期間連絡待機所として使用した。
 また、底質が岩であるため錨の効きが悪く、特に悪天候下での停泊が困難であったため、大正12年(1923)6月30日には係船浮標が設けられた。

 稚内防波堤の工事が進む一方、吹雪や濃霧の際には防波堤の位置の確認が難しくなったため、昭和2年7月10日、日本初の吹鳴式打鐘挂燈浮標を防波堤の先端に設置し、「稚第1号挂燈浮標」と称した。これは、連絡船の入港時に鐘を鳴らして防波堤の位置を知らせるものであった。
 連絡船岸壁がほぼ完成すると、鉄道省は係船設備を設け、岸壁前面の浚渫を行なって、昭和6年1月23日から連絡船の係留を行なった。これにより強風時風圧で流される危険は解消されたが、岸壁側の陸上設備は未完成であったため、乗客はこれまで通り送迎船による輸送を行なった。

利礼ドーム
写真7  利礼ドーム
 ”風の街”とも言われる稚内は、四季を通じて強風と高波に見舞われる。波浪は時に高さ5.5mの北防波堤を乗り越え、事故さえ起こっていたという。
 こうした状況から昭和6年(1931)1月、北防波堤の波除け工事の施工が決定する。設計を命じられたのは、稚内築港事務所に赴任してきたばかりの若干26才の技師だった。この抜擢は、当時まだ一般的でなかったコンクリート工事の知識を、大学で学んでいたためであった。しかも、設計はわずか3ヵ月後の同年4月の着工に間に合うように、との無理な注文で、図面引きから強度計算、工事の指揮まで一人で行なったという。
 それから5年の歳月を費やして、昭和11年(1936)、現在の北防波堤ドームが完成した写真7。当時は「屋蓋(おくがい)防波堤」と呼ばれ、全長424m、高さ13.2m、楕円を4分の1に切りとったような半アーチ型の波除けに、70本の古代ローマ建築風の円柱とアーチの回廊を持つ、世界でも珍しい建築物が誕生したのである。

 昭和13年(1938)12月11日に稚内桟橋上家が、26日には桟橋までの引込線が完成し、乗客が桟橋から直接乗船できるようになった。前日の昼に函館を出発した急行1列車は、C55形蒸気機関車に牽引されて翌朝稚内桟橋駅に到着し、稚泊連絡船に接続するのである。
 桟橋駅が開業したのは翌14年2月1日で、それまでの稚内が現 南稚内に、稚内港が現 稚内に改められた時とされているが、正式の告示はなかったようである。当時の時刻表には営業キロを入れずに掲載されており、法規上は駅ではない可能性があるが、いずれにしても当時の急行列車などがこの駅に発着していたことは事実である。

2.補助汽船
表4  利尻丸の要目(新造時)
総トン数
長さ/幅/深さ
喫水
旅客定員
乗組定員
主缶
主機/軸数
出力
最高速力
:140.3t
:25.9/6.4/3.5(m)
:2.3(m)
:246人
:17人
:水管式1基
:三連成往復動汽機1基、1軸
:460.3hp
:9.85kt
 航路開設の年の大正12年(1923)4月、沖に停泊する連絡船に乗客や貨物を輸送するため、稚内港に補助汽船1隻、次いで客貨の増加に伴って9月にはもう1隻が配属された。
 しかし、冬になると稚内港には流氷が襲来して補助汽船や艀が運航不能となり、連絡船との交通手段がなくなることがあった。1、2等客は舷梯から、3等客は舷門から乗降していたが、海が荒れて波が高くなると、艀と舷門が互いに動揺するため、両者が等しい位置に来る瞬間を見計らって乗客を放り込む、という荷物のような扱いが行なわれていた。舷門の上には、頭をぶつけないように布団がくくりつけてあったという。また、連絡船に到着するまでに、艀は木の葉のように翻弄されて、乗客の多くは激しい船酔いに悩まされたという。激しい動揺のため連絡船に接舷できず、乗客の怒声を浴びながら引き返すこともあったようである。

 当初、冬期に連絡船との交通手段を確保するために、砕氷能力を持った補助汽船が求められ、大正13年(1924)4月設計者が稚内を訪れた。しかし、この現状を知って、まず危険を伴う客扱いを改善する必要があると考え、乗船橋を用いた送迎船(テンダーシップ)の役割を持たせることを計画した。

 砕氷補助汽船は利尻丸と名付けられ、浦賀造船所で大正13年(1924)10月進水、11月26日から稚内港に配属された。要目は表4の通りである。船首材は鋳鋼製で、水線下に傾斜をつけた砕氷船首とされ、船尾は巡洋艦型で、舵の後部には防御材を取り付けた。客室は両舷に小ベンチを設けたのみで、電車の吊り革を数列取り付けて立席が主とされ、煙突後部にスペースを設け、ここに連絡船からの乗船橋を架けられるようにした。なお、利尻丸は日本初の送迎船とされている。

 昭和13年(1938)に稚内岸壁が完成してからは、補助汽船での客貨の取り扱いは中止され、連絡船の岸壁繋留時に補助作業を行なうだけになった。

3.大泊港
大泊港全景(昭和初期)
写真8  大泊港全景(昭和初期)

 大泊の築港工事は樺太庁の手で大正9年(1920)に始まっていたが、航路開設時には艀桟橋があるのみで連絡船は接岸できず、稚内同様沖に停泊して小蒸気船で客貨の運搬を行なっていた。また、大泊駅から桟橋までは多少離れており、乗客は徒歩で連絡していた。
 冬は大泊港一面に厚さ1m程の氷盤が張り詰めるため、連絡船がこの氷盤に突入すると、あたかも岸壁に繋留したような状態となる。乗客は氷盤から舷梯を使って乗降し、貨物も氷上で積み下ろしを行なっていた。氷の状況によって異なるものの、連絡船はかなりの沖に氷泊するため、陸岸待合所との間は徒歩かそりを使った輸送が用いられたが、氷盤が堅く安定している間はともかく、春を迎えて氷の状態が悪くなると非常に危険であった。大正13年(1924)7月10日には繋船浮標が沈設されて利用されていたが、冬期は氷盤が移動するので陸揚げされていた。

連絡船桟橋(昭和初期)
写真9  連絡船桟橋(昭和初期)
 築港工事は第一次世界大戦の物価高騰と、その後の不況による緊縮財政の影響を受けながらも、総工費587万円を投じて昭和3年(1928)7月に竣工し、船舶の接岸が可能になった。岸壁も樺太庁の手によって工事が進められ、12月26日には大泊駅‐桟橋1.4kmの臨港線が完成して大泊港駅が開業し、同日から連絡船は新岸壁に接岸できるようになった。
 この連絡船用新桟橋は沖に向かって約1km突出し、岸壁と、陸岸と岸壁を結ぶ橋梁からなっていた。臨港駅である大泊港駅は、その岸壁部に設けられた写真8,9,10


七 戦雲暗く

1.戦時輸送
大泊に接岸する宗谷丸
写真10  大泊に接岸する宗谷丸
 航路開設以来、樺太開発の進展に伴って順調に増加を続けていた旅客、貨物の輸送量は、昭和4年(1930)の金融恐慌に始まる不況の影響を受け、翌5年から減少に転じた。昭和6年(1931)には満州事変が起こり、日本は戦争へと続く暗黒の道をひた走っていく。
 昭和12年(1937)日中戦争が始まると、減少傾向にあった輸送量は急激な伸びを見せ始めた。この輸送量増加に対応して、昭和15年(1940)10月10日のダイヤ改正で2往復が増便されたが、同じ10月には宗谷海峡に浮遊機雷の流入が確認されたため、26日以降運航は昼航便のみとされた。

 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった。日本軍は緒戦で戦果を挙げたが、翌17年の秋以降になると米軍の反攻が本格化し、9月には宗谷海峡付近にも米潜水艦が出没し始めた。このため、9月17日から19日まで運航を休止し、運航開始後も公務旅行者以外の乗船をしばらく禁止した。この年の運航回数は前年度比で12%減少した。
 昭和18年(1943)4月1日には樺太が内地に編入され、それに伴って樺太庁鉄道が鉄道省に移管される。5月にはアッツ島の日本軍守備隊が玉砕し、キスカ島守備隊の撤退を図るべく海軍艦船の移動が活発したことに伴って、アメリカ潜水艦の出没はさらに頻繁となったため、連絡船の運航時刻は以後終戦によって運航が中止されるまで秘密とされ、乗船時刻のみが通知された。

昭和17年(1942)11月の時刻表
写真11  「時刻表」昭和17年(1942)11月発行
 なお、市販の全国版時刻表は、開戦と同時にすべての鉄道連絡航路において、連絡船の運航時刻が掲載されなくなっていた。当時、毎月全国版の時刻表を発行していた大手2社のうち、東亜旅行社*1発行の「時刻表」には『時刻ハ省略』と記され写真11、交益社発行の「汽車汽船旅行案内」には『其筋の命に依り省略す』という意味深な一文がある。
 しかし、やがて時刻表すらも発行できなくなるほど、戦局は日本に不利な状況へと推移していく。「汽車汽船旅行案内」は昭和19年(1944)3月限りで廃刊、「時刻表」も同19年の発行は5回のみで、12月の第5号を最後に、以後終戦まで発行されることはなかった。

 日露戦争の講和条約によって、軍備の許されなかった宗谷海峡と樺太南部も、日本が守勢にまわると共に防備体制が図られることになった。稚泊連絡船もこの輸送に動員され、昭和18年(1943)6月30日には学徒勤報隊650人を輸送、7月7日から14日までは軍用臨時列車との継続輸送が実施された。9月には函館で亜庭丸、宗谷丸の2隻に武装が施された。詳細は不明だが、亜庭丸は25mm単装機銃を両舷各1基ずつ装備していたらしい。しかし、『当初この武装は弾薬欠乏のため使用することができなかった』そうであるから、お寒い限りである。

 人員、資材の輸送は昭和19年(1944)に入ってからも続き、8月24日から9月17日までの間、恵須取(えすとる)炭鉱労働者の内地転換輸送が行なわれた。敵潜水艦の出没と船腹の不足から石炭が輸送不能になり、炭鉱が閉鎖されためである。この輸送には亜庭丸があたり、労働者とその家族7,333人、手荷物7171個、貨物212トンが恵須取−稚内間9回の臨時運航によって輸送された。また、12月17日には軍用ドラム缶306個、19日には158個が輸送され、翌20年1月には爆弾2,300個の輸送が亜庭丸の臨時便で行なわれた。

2.敵潜跳梁
 昭和18年(1943)7月と8月、それぞれ3隻と2隻の米潜水艦が夜間宗谷海峡を浮上突破して、日本海に入った。太平洋戦争中、米潜水艦が4回にわたって行なった、”天皇の浴槽(Hirohito's bathtub)”*2侵入の最初の2回である。しかし、いずれも大きな戦果を挙げることができず、この狩猟場はすぐに放棄されてしまう。

 3回目は9月下旬に行なわれ、2隻がやはり同じ手口で宗谷海峡から侵入した。このうちの1隻ワフー(SS-238,Wahoo)は獲物を求めて南下し、10月5日未明に対馬海峡で関釜連絡船崑崙丸(7,908総トン)*3を撃沈する。深夜2時という時間帯や天候が悪かったこと、被雷から5分程度で沈没したこともあって、乗員乗客655人のうち犠牲者は583人に上り、新聞でも大きく取り上げられた。崑崙丸は半年前に建造されたばかりの最新鋭の連絡船で、戦争による国鉄連絡船の最初の犠牲となった。ワフー艦長は出撃前に関釜連絡船の情報を収集しているところから、あらかじめ計画された攻撃と思われる。
 しかし、10月11日、帰路宗谷海峡を浮上突破しようとしたワフーは、日本海へ敵潜侵入の報に警戒を強めていた陸軍砲台に発見され、航空機と駆潜艇の追跡を受けた末に撃沈されている。この影響か、以後しばらくの間米潜水艦の日本海侵入は行なわれなかった。

 昭和20年(1945)に入って、内地と大陸を結ぶ日本海航路が唯一の補給航路となると、日本海への米潜水艦の侵入を阻止するため、日本海を抱く3海峡に機雷堰が設置された。4月から6月にかけて、対馬海峡には4列線5,864個、宗谷海峡には以前のものと合わせて2,228個が新たに敷設された。津軽海峡はすでに昭和18年末から翌19年末にかけて、1,250個が敷設されていた。
 ところで、宗谷、津軽、対馬の3海峡は、すべての船舶の無害通航権が認められる国際海峡に該当する。ここを機雷で塞いでしまえば、当時日本に対しては中立であった、ソ連船舶の通行を妨げることになる。津軽、対馬の各海峡は航路帯を作ってそこを通らせたが、日露戦争時の講和条約のとの絡みがある宗谷海峡は、苦肉の策として機雷の敷設深度を水深30m以深に限定し、潜航中の潜水艦のみを対象とした機雷堰としていた。

 4回目は昭和20年(1945)6月9日、今度は対馬海峡を通って3群9隻の潜水艦が日本海に侵入した。この9隻は機雷堰を突破するため、直径1mに満たない機雷の探知も可能な新開発のFMソナーを装備し、以後17日の間に1隻を失いつつも27隻5万4千トンの戦果を挙げて、6月24日に宗谷海峡を浮上して二列縦陣を組み、闇と濃霧に紛れて脱出していった。

 やや遡って昭和20年(1945)5月上旬、オホーツク海を閉ざしていた海氷が姿を消す頃から、樺太東岸の町や港がたびたび潜水艦の砲撃を受けるようになっていた。海軍の航空機が捜索にあたったが捕捉できず、5月29日には千島から北海道へ陸軍部隊を輸送中の輸送船が、樺太東岸の愛郎岬沖35海里で雷撃によって撃沈されてしまった。

 そうこうするうちに6月12日、宗谷丸が潜水艦の攻撃を受けた。しかし、偶然かあるいは狙い通りか、魚雷は宗谷丸を外れて、たまたま行き会った貨物船第十二札幌丸(2,865t)に命中、同船は沈没してしまった。死者1名、残りの生存者はボートで脱出した。
 米潜水艦はまた、7月2日から3日にかけて海軍の電探施設が建設されていた樺太東岸の海豹(かいひょう)島に対して砲撃を加えており、7日には軍が連絡船の運航を一時停止させた。このころ亜庭湾の海岸には潜水艦から捨てられたと思われる、USAの文字がある袋に缶詰や食べ物の屑が詰められたものが漂着していたという。

 7月17日午前2時、オホーツク海に面した海岸線に沿って走る樺太東線白浜−白浦間で線路が爆破され、軍用列車が脱線転覆するという事件が発生した。現場付近には多数の足跡と舟艇を引きずり上げたような跡、被服銅線や小銃弾などが発見された。南北へそれぞれ200mほど離れた場所からは、爆破援護のためと思われる機銃座の跡、弾倉やUSAのマークのついた手袋も発見され、潜水艦からボートで上陸し、破壊工作を行ったものと推定された。

 さらに翌18日、再び宗谷丸が攻撃を受けた。下り3便として8時に稚内を出港した宗谷丸には、護衛として前衛に駆潜艇、後衛に海防艦第112号の2隻が随伴していた。出港から3時間、西能登呂岬を通過した直後の11時10分頃、宗谷丸は右後方より敵潜水艦の雷撃を受けた。1本は外れて孫杖川口付近で炸裂したが、もう1本は宗谷丸の横に全速で進出した112号に命中した。艦は大音響と共に黒煙に包まれ、煙が消えた時には艦首をわずかに海面に突き出しているのみで、10分ほどで沈没した。場所は亜庭湾孫杖(まごつえ)付近の沖合約3海里(6km)で、宗谷丸が最初に攻撃を受けた場所もこの付近であった。
 海防艦爆沈直後、再び宗谷丸に魚雷が発射されたが危うく難を逃れた。宗谷丸はそのまま全速で大泊に向かい、危急を聞いて大泊から駆けつけた海防艦占守(しむしゅ)他2隻が救助、掃蕩を行なったが戦果はなく、救助されたのは4名のみで、艦長以下199名が戦死した。この攻撃はバーブ(SS-220,Barb)によるもので、前日に鉄道の破壊工作を行ったのも同艦であった。

3.戦火の中に
 昭和20年(1945)7月1日、日本本土上陸作戦に先立って、日本の戦力の弱体化を図るため、米機動部隊はレイテ湾を出撃した。この機動部隊は第38・1、3、4の3個任務群で構成され、1個任務群はエセックス級正規空母3隻、インディペンデンス級軽空母2隻を基幹とし、戦艦を含む直衛部隊が配属され、3個群計105隻の艦艇で構成されていた。指揮官はハルゼー大将、俗に言うハルゼー艦隊である。

 7月10日、房総沖に到着した第38任務群は、関東地区を空襲し、東京やその周辺都市の軍事施設、航空基地を攻撃した。続いて米機動部隊は北上し、14日未明から15日にかけて北海道南部、東北地方を空襲した。この両日の空襲では港湾施設や鉄道が狙われ、北海道の石炭を本州に輸送する大動脈である青函連絡船のうち、8隻が沈没、2隻が擱坐炎上し、2隻が損傷した。航行可能な連絡船は1隻もなく、青函連絡船は壊滅した。

 この時、亜庭丸は6月20日からの中間検査工事のため、函館の函館船渠株式会社に回航されていたが、この空襲で数機編隊の数回に渡る銃爆撃を受け、海軍警戒隊員1名が戦死、隊員及び船員に負傷者数名を出した。小型爆弾十数発の直撃弾、至近弾を受けたものの、船体の被害は軽微であった。
 稚泊航路の亜庭丸と宗谷丸の法定検査や修繕工事は、ほとんど函館船渠で行なわれていた。函館は大泊から369海里(683km)の距離があったが、それでも両船が入渠できる最も近い造船所であった。
 7月23日、工事を繰り上げ被害個所の修理完了と共に、亜庭丸は7月14、15両日の空襲で途絶状態となった青函航路に就航した。

 続いて第38任務部隊は南下し、7月17、18日に東北、関東地方の航空基地と軍事施設を空襲した。同24、25日と27日には東海以西に空襲を加え、特に呉軍港が集中的に狙われて、日本海軍の水上部隊は壊滅した。30日には関東、東海、近畿地方への空襲が行なわれた。これら空からの攻撃と並行して、釜石、室蘭、日立、浜松などは、戦艦を中心とした水上艦艇による艦砲射撃を受けている。

 8月に入ると米機動部隊は再び北上し、9日には再度東北を、翌10日は東北と関東を空襲した。
 亜庭丸は8月9日、12時過ぎに函館を出港し青森に向かったが、4時間後、青森港付近で空襲警報が入ったため島影に避退した。青森に着いて乗客を降ろしたのは、その日の晩になってからであった。その後、避難のため大湊の軍港に向かったが、途中で機関故障を起こし、茂浦沖に投錨しているところを翌10日捕捉された。午前6時30分、第1波16機による銃撃を始めとし、毎回20〜30機、計5波に及ぶ執拗な銃爆撃を受けた。投下弾数は300発に及んだという。亜庭丸は投錨位置で被弾炎上、日没後の19時30分に沈没した。
 この攻撃で船員104名中操舵手1名が負傷、警戒隊員22名中1名戦死、4名が重傷を負った。死傷者が少ないのは、攻撃を受けた後に船長が高級船員と各部の責任者を残し、普通船員には退船命令を出したからである。後に浮揚が試みられたが失敗に終わり、船体は放棄された。


*1…後の日本交通公社(JTB)。
*2…日本海に通じる宗谷、津軽、対馬の各海峡は対戦警戒が厳重で、かつ水深も浅く、潮流が激しいため潜水艦の突破が困難であり、その内側では日本商船が自由に航行していたことから名付けられた。
*3…崑崙丸:昭和18年(1943)竣工,総トン数7,908t,最高速力23.45kt,旅客定員2,048人。


八 終戦

1.避難民輸送
 昭和20年(1945)8月9日、突如ソ連軍が北緯50度の国境線を突破して雪崩れ込んできた。樺太庁は10日緊急疎開の方針を決定、戦災地や僻地を優先し、老人と女性、子供や病人を輸送するなどの要綱を定めて、輸送開始を13日として樺太全島に通達した。大泊、真岡(まおか)、本斗(ほんと)の各港では、この輸送に対して海軍艦艇、貨物船、機帆船などありとあらゆる船舶が動員され、邦人の輸送にあたった。稚泊航路にただ1隻残っていた宗谷丸も、同13日から緊急避難民輸送を開始し、初便では680人余りを輸送した。
 8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は終結した。宗谷丸は稚内から大泊に向けて航行中、終戦の詔勅を聞いた。しかし、彼女の戦いはまだ終わらなかった。

 同15日、緊急疎開列車の運転が決まり、非常ダイヤが編成された。奥地から貨物列車まで動員して送り込まれる避難民は続々と大泊に集結し、20日には町に収容しきれないまでに膨れ上がっていた。当初輸送司令部は定員外乗船を禁止していたが、18日からは各船とも定員を無視して乗せられるだけの避難民を乗せ、大泊を出港していった。

 この疎開船にソ連軍は潜水艦と潜水艦による攻撃を加えた。犠牲となったのは、海軍の特設砲艦兼敷設艦第二新興丸(2,500総トン)、逓信省の海底電線敷設船小笠原丸(1,403総トン)、東亜海運の貨物船泰東丸(改E型戦標船、887総トン)である。いずれも22日の早朝から朝にかけて、北海道留萌(るもい)沖で「国籍不明」の潜水艦によって攻撃された。第二新興丸は雷撃の後砲撃を受けて大破、小笠原丸は雷撃、泰東丸は砲撃を受けて沈没した。泰東丸は白旗を掲げているにもかかわらず、浮上した潜水艦の砲撃によって撃沈されたという。今日に至るまで攻撃した潜水艦の特定は行われず、未だに「国籍不明」と記録されている。
 同日、西能登呂岬南方の宗谷海峡では、大阪商船の貨物船能登呂丸(1,100総トン)がソ連の航空機によって雷撃され、沈没した。不幸中の幸いであったのは、同船が避難民輸送のため樺太西岸の本斗から大泊に向けて回航中で、乗船者がいなかったことである。
 攻撃を受けた疎開船の犠牲者の数は、終戦直後の混乱の中にあって正確な乗船者数が不明なため、その実数は掴みきれていない。乗員乗客あわせて第二新興丸は3,524人、小笠原丸は702人、泰東丸は780人を乗せていたと推定され、犠牲者の数は1,708人と記録されている。終戦から7日後のことであった。

 8月23日22時、宗谷丸は定員の6倍近い約4,500人の避難民を乗せ、客室はもちろん、すべての甲板上も船倉内も足の踏み場もない状態で、春日丸ほか1隻と共に大泊を出港した。この日ソ連軍からは海上航行禁止令が出ており、危険を承知での航海であったが、翌24日の早朝4時に3隻とも無事稚内へ入港した。そして、同24日、大泊に陸海からソ連軍が進駐し海上を封鎖、これが緊急疎開の最終船となった。戦後の調べでは、この緊急疎開に述べ220隻の船舶が動員され、輸送人員は77,018人にのぼった。それでもなお、乗船を待つ人々は港を埋め尽くしていたという。
 連合軍からは同24日18時をもって、日本国船舶の運航を全面的に停止する旨の命令が発せられており、さらに27日には、樺太鉄道局長から札幌鉄道局長に対して、大泊にソ連軍艦が進駐してきたため運航を見合わせられたし、との電話連絡が入った。
 その後、ソ連側との交渉が進められたが、話し合いはつかず、23日の宗谷丸の航海を最後として、稚泊航路の運航は休止されることとなった。

2.閉幕、そして
 宗谷丸は昭和20年(1945)10月30日、連合軍から青函航路に転属の許可が下り、函館に回航した上で11月29日から就航した。戦災で連絡船が壊滅的な打撃を受け、各地から寄せ集めた老朽船で運航していた同航路の中にあっては、それなりに異彩を放っていたという。

 この時、青函航路にはかつて稚泊航路に就航していた壱岐丸の後身樺太丸が、青函連絡船壊滅直後の昭和20年(1945)7月25日から国鉄に傭船されて就航していた。壱岐丸は昭和7年(1932)大阪商船に売却され、一時期琉球航路で使用されていたが、姉妹会社の北日本汽船会社が譲り受け、樺太丸と改名して昭和12年(1937)から稚内−本斗(ほんと、現 ネベリスク)間の樺太航路に就航していた。昭和14年(1939)12月には、稚内沖で遭難したソ連船の救助にあたるなどの活躍も見せている。
 樺太丸はその後、昭和22年(1947)9月に傭船を解かれ、4年後の昭和26年、政府の低性能船買上法により、室蘭で解体されて47年の生涯を閉じた。現在、交通博物館(東京・神田)に「壱岐丸の号鐘」が鉄道記念物として保存されている。

 青函航路に新造船が次々と就航し、連絡船の復興なった昭和25年(1950)10月、宗谷丸は函館第五岸壁(有川)に係船されてしまった。その後、昭和27年(1952)9月、広島局に転属、貨物船として北海道・室蘭あるいは北九州・戸畑から、神奈川県の川崎にあった国鉄火力発電所用の石炭運搬に従事した。昭和32年(1957)11月からは洞爺丸、紫雲丸らの連絡船沈没事故の教訓から、連絡船船員再教育のため訓練船を兼ねるようになったが、昭和40年(1965)8月10日の運航を最後として、翌11日下関鉄道桟橋に係船された。

 この間、昭和29年(1954)10月14日より洞爺丸台風で大被害を被った青函航路へ応援として派遣され、以後12月24日まで旅客輸送に従事した。また、昭和30年(1955)には初代南極観測船の候補にあげられたが、改造の費用、定員などの事情により実現しなかった。
 宗谷丸は昭和40年(1965)に売却、解体され、33年の生涯を閉じた。

稚泊航路記念碑
写真12  稚泊航路記念碑
 昭和47年(1972)5月、老朽化のため稚内桟橋の建物(上家)は、稚内市の埠頭公園化計画に合わせて取り壊され、かつての稚泊航路桟橋付近は、北防波堤ドームだけが当時の面影を残すのみとなった。
 11月には稚泊航路記念碑写真12が建立され、近くにはC55形49号機が静態保存された。碑は高さ3.75m、奥行3.3m、中央に北海道北部を、左右には桟橋に打ち寄せる荒波を、上部には樺太をそれぞれ異なる石材で表している。その荒波の中に宗谷丸の号鐘(模造)を吊るし、碑文には次の文章が刻まれている(原文は縦書き)。

『この地稚内から、いまは異国の地樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正十二年五月一日である。  この航路は、一六七キロの海上を約九時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘により守られてきた。昭和二年砕氷貨客船亜庭丸(三三五五トン)、昭和七年最新鋭船宗谷丸(三五九三トン)が就航するに及びその往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた。しかし終戦直後の昭和二十年八月二十四日十八時、二十二年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである。  いまここに星霜二十有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、有志相図り、稚泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の労苦を明記してこの碑を建立し、永久に記念するものである。

昭和四十五年十一月吉日』

 国鉄が桟橋上家を稚内市に譲渡する契約書には、国鉄がこの航路を再開する時は、市は港湾設備用地の確保、岸壁の使用について協議に応ずる旨の一文がある。しかし、その国鉄も今やなく、かつて北海道を網の目のように覆い、産出する石炭と水揚げされる水産物の輸送で賑わった幾多の路線は、すでに廃止されている。

 現在、稚内−コルサコフ間には5年程前から夏期の5〜9月のみフェリーが就航し、最大月9往復程度の航海を行なっている。所要時間は下り便が5時間30分、上り便が3時間30分である。なお、記念碑の傍に保存されていたC55は、潮風で腐食が進み、平成9年(1997)に解体されて、今は動輪のみが保存されている。


北から −終章−

 朝鮮半島が南北に分断されて以来、半世紀の間不通になっていた鉄道の再建に向けて、工事が始まったと聞く。関釜連絡船は日本の敗戦と共に消滅したが、海を越えて大陸へと続く鉄路が復活の兆しを見せているのは嬉しいことである。

 関釜航路と時を同じくして消えた稚泊航路から、北の地へと続いていた鉄路は今、どうなっているのだろうか。
 戦後、ソ連領となったサハリンには、”サハリンD51”をはじめ多数のディーゼルカーや客貨車が、日本から輸出されていた。鉄のカーテンに阻まれて、長年の間うかがい知ることができなかったが、わずか数年前まで日本領時代の車両が現役で活躍していたと聞く。ロシア領になってからも、平成5年(1993)にJR東日本からキハ58形ディーゼルカー27両が無償で譲渡されている。

宝台ループ線(豊真線)
豊真線宝台ループ線を行く混合列車
 しかし、平成7年(1995)5月にここを襲った地震は、サハリン北部に大打撃を与え、街は復旧されることなく放置されてゴーストタウンとなっている。また、この数年はロシアの経済低迷と、進行するモータリゼーション化により、路線縮小や旅客列車削減が相次いでいるという。
 ループ線で有名な南部横断線(旧 豊真線*)も、トンネル改修のための運休から廃止への道をたどりつつあり、ユジノサハリンスク(旧 豊原)駅では、日本領時代の車両が雑草に埋もれて赤茶けた無残な姿をさらしている。かつて北へと続いていた鉄路の凋落は、目を覆わんばかりである。

 あの日、宗谷海峡に吹いていた北風は、最果ての地で滅び行く鉄道を弔う挽歌であったのかもしれない。


*…豊岡(現 ユジノサハリンスク)−真岡(現 ホルムスク)を結ぶ路線。


(了)

公開:00/11/20
一訂:00/12/15



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