資料編
一 運航
大正12年(1923)、航路開設当時の運航時刻は次の通りであった(表1)。壱岐丸1船の運航で、夏期は2日に1往復、冬期は1ヶ月に6往復である。
表1
稚内・大泊間運航時刻(大正12年5月改正)
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夏期(4〜10月)
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冬期(11〜3月)
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第1便
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第2便
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第3便
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第4便
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偶数日
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奇数日
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1,6の日
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3,8の日
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稚内 発
着
大泊 着
発
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23:30
↓
07:30
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05:00
↑
21:00
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09:00
↓
18:30
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19:00
↑
10:00
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しかし、大正12年は例年に比べて比較的天候に恵まれたため、11月は夏期運航時刻に、また12月は次の通り運航日を変更した。翌年1月からは通常どおり冬期運航時刻を用いた。
第1便 稚内発 4・8・12・16・20・24・28日
第2便 大泊発 2・6・10・14・18・22・26・30日
翌大正13年6月1日、列車運行時刻の改正に伴って夏期運航時刻が改正され、第1便は稚内発22:30−大泊着06:30、第2便は大泊発22:00−稚内着06:00となった。続いて8月からは対馬丸が加わり、運航日が次の通り変更された。
夏期 毎日運航
冬期 12月 偶数日運航
1〜3月 第1便 稚内発 2・4・7・10・12・15・17・20・22・25・27・30日
第2便 大泊発 2・4・7・9・12・14・17・19・22・24・27・29日
検査・修理のため1船運航を行う場合は運航回数を減らすこととされたが、大正14年5月の検査入渠期間中は伏木丸を傭船し、毎日運航を維持した。
昭和3年(1928)9月10日、列車時刻大改正に伴って便名と運航時刻が次の通り改正された(表2)。
表2
稚内・大泊間運航時刻(昭和3年9月改正)
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夏期(4〜10月)
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冬期(11〜3月)
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第3便
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第4便
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変第3便
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変第4便
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稚内 発
着
大泊 着
発
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08:30
↓
16:30
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19:00
↑
11:00
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08:30
↓
17:30
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15:00
↑
06:00
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昭和7年(1932)12月からは、新造砕氷船宗谷丸が就航し、亜庭丸と合わせて2隻の砕氷船が揃ったので、従来9時間であった冬期運航時間を、夏期同様8時間に短縮した。
その後、昭和9年(1934)12月1日の時刻改正で第1〜4便を設定、第3、4便は1船運航のときの折り返し運航時刻とし、次いで翌昭和10年6月1日の改正で再び夜行便となるなど、目まぐるしく改正されたが、昭和12年(1937)6月1日の改正で運航時刻は次の通りとされ、夜行便は廃止された(表3)。但し、1船運航時のみ上り便を夜行とした。
表3
稚内・大泊間運航時刻(昭和12年6月改正)
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第3便
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第4便
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稚内 発
着
大泊 着
発
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08:50
↓
16:50
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20:00
↑
12:00
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昭和15年(1940)10月10日の改正では、日中戦争の開始による輸送増加に対応して、次の通り運航時刻を改正すると共に2往復の増便を図った(表4)。しかし、同10月宗谷海峡付近に浮遊機雷が発見されたため、26日以後はすべて昼行便とされた。
表4
稚内・大泊間運航時刻(昭和15年10月改正)
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第3便
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第4便
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変第3便
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変第4便
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稚内 発
着
大泊 着
発
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08:00
↓
16:00
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16:30
↑
08:30
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11:30
↓
19:30
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07:30
↑
23:40
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昭和17年(1942)4月1日の改正では、次のように運航時刻が変更された(表5)。変第3便と変第4便は1船運航の際の折り返し運航時刻であり、この年は5月1日から7月3日までこの時刻で運航された。他の期間は変1便と変2便の時刻で運航され、11月15日の改正まではこの時刻で運航されている。
表5
稚内・大泊間運航時刻(昭和17年4月改正)
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変第1便
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変第2便
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変第3便
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変第4便
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稚内 発
着
大泊 着
発
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09:00
↓
17:00
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18:30
↑
10:30
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11:30
↓
19:30
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07:30
↑
23:30
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これら定期運航以外にも、大正15年(1921)7月26、27日には、旭川市内各小学生団体を利尻富士登山のため、稚内−鴛泊及び鬼脇間に田村丸を臨時運航、翌昭和2年8月14、15日も利尻島まで往航は田村丸、復航は壱岐丸で輸送を行った。また、昭和6年(1931)7月3日には亜庭丸が函館港での入渠修理を終えて稚内へ回航途中、北海道内有志69人を小樽から乗船させ、船内設備の紹介を兼ねて利尻・礼文島を回遊するなどの臨時運航を行っている。その後も利尻島へ数回団体輸送を実施している。
二 運賃料金
大正12年(1923)5月1日から営業を開始したこの航路は、営業マイル程130マイルと決定され、旅客運賃は1等7円50銭、2等5円、3等2円50銭であった。また、寝台料金は2等のみに設定され、75銭であった。
その後、長い間旅客運賃料金は改正されなかったが、昭和11年(1936)11月16日に1等運賃を8円50銭にして寝台を無料とすると共に、2等寝台を上段70銭、下段1円に改正した。なお、昭和17年(1942)10月の時刻表には1等15円50銭、2等7円、3等3円50銭と記されており、終戦直前には3等5円まで上昇している。
貨物運賃も営業開始と共に航路賃率が設定された。1級品から5級品まで等級ごとにそれぞれ賃率が定められ、小口扱(100斤(きん)単位)と貸切扱(1t単位)があった。危険品、家畜などについても別途賃率が定められた。昭和2年(1927)2月1日からは特別小口扱が新設され、50斤からの取り扱いも可能になった。
昭和5年(1930)4月1日には、メートル法の実施により賃率・等級表の単位が改められ、航路営業キロ程は210kmとされた。なお、実キロ程は159kmである。昭和10年(1935)10月1日には航路賃率を廃止し、航路の営業キロ程による鉄道と共通の賃率として、貨物運賃が引き下げられた。
昭和8年度の稚泊連絡航路の運営状況は次の通りである。
表6
運営収支状況(昭和8年度)
収入
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内訳 旅客 262,640
郵便 4,808
貨物 127,990
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計 395,438
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運営費
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内訳 人件費 201,700
燃料費 15,224
その他 224,376
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計 441,300
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差引 -45,862
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運営費の大部分を人件費が占めていることがわかる。なお、前年の昭和7年(1932)には宗谷丸が就航している。このような稚泊連絡航路の赤字は時々見られたが、運航状況の安定と樺太開発が進むにつれ黒字となった。
三 輸送
稚泊航路の運航回数を見ると、航路開設以来順調に増加し、昭和5年度に年間600回近くなるとその後は安定して推移しており、運航技術が確立してきたことを示している。昭和17年度以降減少しているのは浮遊機雷や潜水艦の出現により、たびたび夜間航行が禁止されたり、運航が停止されたためである。
輸送量についてみると、旅客は昭和4年度には14万5000人まで達すると、翌5年度からは不況の影響を受けて年々減少し、昭和8年度には7万9000人まで減少した。翌9年度からは景気の回復につれ漸増傾向を示していたが、昭和14年度から急激な上昇を見せ、同14年度には貨物輸送量も急増しており、日中戦争から太平洋戦争に向けて北方の防備が図られつつあったものと思われる。昭和19、20年度については、混乱のためか記録が残っていない。
表7
稚内・大泊間航路輸送量(大正12年〜昭和20年)
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運航回数(回)
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旅客(人)
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貨物(t)
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手小荷物(個)
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大正12年(1923)
13年(1924)
14年(1925)
昭和元年(1926)
2年(1927)
3年(1928)
4年(1929)
5年(1930)
6年(1931)
7年(1932)
8年(1933)
9年(1934)
10年(1935)
11年(1936)
12年(1937)
13年(1938)
14年(1939)
15年(1940)
16年(1941)
17年(1942)
18年(1943)
19年(1944)
20年(1945)
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254
374
367
440
502
508
511
574
581
597
600
600
594
590
606
615
642
626
628
552
561
(不明)
(不明)
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69,619
91,637
106,396
106,573
112,914
135,790
144,877
126,349
98,648
82,259
78,866
94,564
105,048
104,344
100,336
119,983
173,648
214,970
267,398
247,515
257,829
(不明)
(不明)
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6,428
12,667
16,980
16,280
23,816
35,439
35,766
36,232
27,679
19,284
23,871
28,299
29547
36156
52,827
73,411
96,323
85,316
91,821
86,175
116,421
(不明)
(不明)
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45,226
76,616
102,555
113,900
127,967
186,815
214,298
200,882
183,117
176,078
194,930
219,516
231,674
231,674
238,576
304,029
351,514
438,289
520,702
365,389
490,980
(不明)
(不明)
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四 地図
樺太から北海道にかけての地図をあげておく(図5)。本文中に登場する主要都市を赤丸、地名を赤点で示してある。なお、地形等正確な地図ではないので参考程度とされたい。
図5
樺太〜北海道地図
公開:00/12/15
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