ユトランド上空の飛行船
※注:この文章は、ソーシャルネットワークサービスmixiにおいて、私こと天翔の日記(2007年11月13日〜28日)で連載した文章を、編集して加筆訂正したものです。
この駄文では、日本語書籍やWebサイト上で紹介されるこの海戦において、ほとんど、まったく、一切と言っていいほど触れられることのない、ドイツ海軍飛行船部隊の活躍への言及を試みています。
ティルピッツは翌'13年1月、飛行船2個戦隊10隻の建造と飛行船基地の整備を指示します。L1はこの冬を乗員の訓練に費やしますが、夏の間は短距離ながらも比較的活発に飛行を行い、8月には高海艦隊の訓練にも参加して、飛行船が持つ潜在能力を知らしめます。二番船L2の建造も決まり、飛行船部隊の前途は順風満帆かに見えました。
この二つの事故で、海軍飛行船部隊の指揮官を含む40名を超える死者を出し、飛行船に対する否定的な見解が台頭します。ティルピッツは先の建造計画を忘れたかのように消極的になりますが、飛行船推進論者はそれを押し切って海軍飛行船部隊に新しい指揮官を据え、L3の建造を進めます。
そして1914年5月11日、L3が進空します。これまでで最大の船体容積と最大の機関出力を持つ一方、格納庫の大きさの関係で船体の直径を大きくすることが出来ず、円筒形の前後を整形しただけのような鉛筆状の船体形状や船体下部に突出したキールを含めて、技術的にはL1の改良の域を出ていません。
ところが1914年6月28日、サラエボで鳴り響いた銃声を切っ掛けとして、欧州各国は後に「世界大戦」と呼ばれる総力戦になだれ込んでいきます。ドイツは8月2日にロシアへ、3日にフランスへ宣戦布告を行います。翌4日にはイギリスがドイツに対して宣戦布告を行いました。 さあ、大変なことになりました。次のL4の就役は9月を待たねばなりません。ドイツ帝国海軍飛行船部隊は、たった1隻で大戦争に突入する羽目になってしまったのです。ちなみに、この時までに完成していたUボートはプロトタイプを含めて28隻です。この国は20年ちょっと後にも同じようなことを繰り返しているのですが、まったく学習能力が欠如しているとしか思えません。 けれどもまあ、世の中ってそんなものかもしれませんね。
青は開戦、赤1はドッガー・バンク海戦、赤2はユトランド海戦
戦いも2年目に入る頃、これまでの飛行船(m型,L4〜8)では能力不足とみたドイツ海軍は、より大型のp型(L10〜19)、q型(L20〜24)を投入して戦力の強化を図ります。最終的には2年目の終わりに"Super Zeppelin"r型が登場するに至って、ようやく準備が整ったと言えるでしょう。一方で、活動範囲が広がったこともあって損失も増えつつあり、指揮下にある飛行船の数は常に10隻前後を保ちながら推移しています。
この日、アイルランドでイースター蜂起が勃発します。アイルランド民族主義者によるこの武装蜂起にはドイツが関与しており、ロシアの捕獲小銃数千丁を送ったり、元英外交官にしてサーの称号も持つ指導者、ロジャー・ケースメントを潜水艦でアイルランド西岸のタリー湾に上陸させたりしています。しかし、この計画はすでにイギリスの知るところであり、小銃を運搬する船は途中で拿捕され、ケースメントも上陸直後に逮捕されます。
ドイツ海軍はこの武装蜂起を支援する為、巡洋戦艦(ドイツ公式分類では大型巡洋艦)からなる偵察艦隊を英本土西岸砲撃に派遣することを決定していました。24日の午前遅く、5隻の巡洋戦艦を主力とする偵察艦隊がヤーデ(Jade)湾を出発します。目標とされたのはロンドンの北東約160kmに位置するローストフト(Lowestoft)で、主力艦隊である高海艦隊―"Hoch-see Flotte",英名"High Seas Fleet"―も出撃してこれを援護します。 飛行船部隊もこれに呼応して全力で出撃します。L7は偵察艦隊に同行し、シュトラッサー中佐率いるL21以下8隻は同日午後、英本土西岸の爆撃に向かいました。命令は『イングランド南部、もし可能であればロンドンを攻撃』することです。
各基地をばらばらに飛び立った飛行船はノーフォーク沿岸から接近しますが、いずれも強い南南西の風に阻まれてロンドンへの針路を放棄します。結局、彼らは「イーストアングリア(East Anglia)地方(含ローストフト)は霧と濃い雨雲に閉ざされている」ということを自らの目で確認し、それを報告することしか出来ませんでした。
イギリス側の発表によれば、ニューマーケット(Newmarket,ロンドンの北北東約80km,競馬場で有名)で家屋5軒が破壊されたというものと、ノーリッジ近郊のディルハム(Dilham)という小さな村に爆弾45発が投下されて、女性が1人心臓麻痺で亡くなったというもので、これが実際の被害です。
さて、11:40にハーグ(Hage,ウィルヘルムスハーフェン近郊)を離陸して偵察艦隊にくっついていったL7ですが、15:48、その眼下で巡洋戦艦ザイドリッツの舷側に水柱が上がります。当初潜水艦による雷撃が疑われましたが、低空を飛行していたL7の指揮官ヘンペル大尉は雷跡を見ておらず、機雷に触れたものと判明します。ザイドリッツは浸水に止まり、ウィルヘルムスハーフェンに引き返します。L7はこれに随伴しますが、19:48、燃料に不足を来たしたのでハーグの基地に針路を取りました。
また、00:15にはノルトホルツ(Nordholz,やはりウィルヘルムスハーフェン近郊)からL6が離陸します。こちらはドイツ艦隊の北側の偵察が目的でしたが、乗員の訓練中であったためか、南南西の風に流されて北に外れ、艦隊との触接を失ってしまいます。
英本土爆撃に向かった飛行船の最後の1隻が、ノーフォークの海岸線を離れた旨の通信を送ってきたのは03:30でした。この時、偵察艦隊はローストフトの東50海里の位置にありました。前方に軽巡洋艦と駆逐艦の哨戒線を展開し、その後方に主力の巡洋戦艦4隻―リュッツオゥ、デアフリンガー、モルトケ、フォン・デア・タン―が続きます。高海艦隊はさらにその後方60海里です。
これを追撃したのがハリッジ(Harwich,ロンドンの北東約100km)を出港したトライフット代将率いる3隻の軽巡洋艦、2隻の嚮導駆逐艦と16隻の駆逐艦です。05:19、L9はこれを発見して『8隻の船と駆逐艦が高速で北に向かっている』との無電を発します。 その数分後、L9は突如2機の飛行機に襲われました。これは海上のL9を目撃して1時間ほど前にグレート・ヤーマスから離陸したBE.2C偵察機で、上昇限度で上回るL9を上から押さえ込みます。上部銃座から反撃しつつ追い風を受けて逃走するL9に対して銃撃と爆撃を加えましたが、少なくとも爆弾の方は回避されて命中しなかったようで、撃墜には至りませんでした。このBE.2が焼夷弾を装備した機関銃を持っていなかったことが原因でしょう。L9の指揮官ステリング大尉はこれを水上機と報告しています。
偵察艦隊と高海艦隊、及び飛行船部隊は無事帰還し、一つの作戦が終了しました。この作戦は比較的『上手くいった』方だと言えるでしょう。
日本人には馴染みの薄い地名ですが、海底油田が存在するので地理の時間に耳にしたことくらいはあるかもしれません。東はノルウェーとデンマーク、南はドイツ、オランダ、ベルギー、西はイギリスに囲まれた閉鎖的な海域です。北部の方でやや深い地点もありますが平均水深は100m以浅にあり、北海中央やや下に位置するドッガー・バンクでは13mと非常に浅い海でもあります。
なお、北海油田が開発されたのは'60代以降ですので、遡ること半世紀、このお話の時代には影も形もありません。
さて、月が変わって5月になりました。2日午後、再び8隻の飛行船が英本土空襲に向けて各基地を離陸します。今回の命令は『イングランド北部、主目標ロサイス(Rosyth,フォース湾に面する海軍工廠のある都市。エディンバラ近郊)、フォース橋、イギリス艦隊』というものでした。ドイツからは北海中央部を横断する最短コースでも、片道800kmの長距離爆撃行となります。
各船は当初追風を受けて順調に飛行を続けていたものの、高度を上げたところ強い南風に遭遇します。気象通報はイングランドに新たな低気圧が接近していることを告げていました。厚い雪雲と吹きつける風が航法と観測を妨げ、L14とL20以外の飛行船はイングランド北部への到達を諦めます。
L16の指揮官ペーターソン中尉によれば『炎の位置で建物に命中した場所がよく分かり、同様に鉄道線路と築堤が認められた』とのことですが、事実は上記の通りです。L17はスキンニングローブ(Skinningrove,やはりミドルスブラ近郊の村)に爆弾を投下した後、残りを『東海岸に面した都市、おそらくソルトバーン(Saltburn,以下略)』に投下した、と報告していますが、実際に彼がいたのはやはりダンビー上空でした。
引き続きイングランド北部を目指したL14は、雪混じりの強いスコールに突入して急速に着氷し、失速して高度3,000mから2,000mに降下します。指揮官のボッケル大尉は、雪の切れ目から『すぐ下の2隻の大きな軍艦』を狙って5発の爆弾を投下し、楽観的にそれが沈んだとさえ考えました。01:15、L14は推測航法のみでエディンバラ上空に到達しましたが、爆弾投下は雪雲によって果たせず、最終的に投弾を諦めます。
この成果のない長距離爆撃行の帰途、各飛行船は苦難の道程を歩むことになります。雹の混じった激しい雷雨が北海を横断しようとする彼らの針路を妨げました。あらゆる金属部分でセント・エルモの火が燃え、雪は外皮に積もります。
そして、船体への着氷が恐ろしい結果を招くことになります。L11では船尾が重くなったことに気づき、調査の結果、6番セルの気嚢が孔だらけになっていることを発見します。船体から剥げ落ちる氷片が舷側エンジンのプロペラに巻き込まれ、遠心力で外皮に叩きつけられたことが原因でした。6番セルは70%の浮揚ガスを失っており、爆弾と乗員を船首最先端の係留点に、後部エンジンを解体してパーツを前ゴンドラに移動させてどうにかトリムを回復します。
シュトラッサー中佐はこの経験によって着氷の恐ろしさを知り、「アイスシールド」なるものの装着を行います。枠に張った厚いキャンバスをプロペラの上の外皮に取り付けるものでしたが、時としてこれも貫通されることがあったようです。
さて、イングランド北部を目指したもう1隻の飛行船であるL20ですが、L14が到達したテイ川付近の都市ダンディー(Dundee)からフォース湾のフォース橋に到達すべく針路を取ります。19:00に照明弾を投下し、東からの風に流されていることを知ります。
日付が変わる頃、L20は濃い霧の中を盲目状態で手探りで進んでいました。方位測定を行う為に電波の発信を要求しようとしたのですが、着氷したアンテナから出る電波は余りに弱すぎて、ドイツまで届かないことが判明しました。01:00になってようやく雪雲が晴れましたが、今度は南東の風ではるかスコットランド高地のネス湖(怪物で有名なアレ)方面に運ばれていることを知ります。スタバート大尉は夜明けまでに陸地を離れるべく針路を反転しました。
04:00になってL20は海岸線に到達し、スタバート大尉はここがフォース湾であると考えましたが、実はピーターヘッド(Peterhead)で、フォース湾の北160kmというとんでもない位置でした。06:00になってようやくノルトホルツ基地と連絡が取れ、方位測定で現在位置がオークニー諸島(英本土北端)の緯度にあることを知りました。07:00、彼は航行中の汽船「ホランド」を発見し、高度18mまで降下してこう叫びます。 「現在位置知らせ!」 なんとも原始的な方法で得られた船位は北緯58度、東経3度でした。同時にそれは、搭載している残りの燃料をどうやり繰りしても基地へ帰還するには不足していることを意味しました。7:49、スタバート大尉は無線で基地に帰還不能である旨を報告すると、巡洋艦と駆逐艦がデンマーク沖で彼の帰還を支援すると告げられます。
ところがその1時間後、南南東の風が18m/sまで強くなり、デンマークの北端に到達するには10時間を要する一方、残燃料は5時間分しかありません。また、艦艇がデンマークのユトランド半島の先端付近に到着するのは19:00になると推定されました。やがて機関士が2基の舷側エンジンがまもなく稼動しなくなることを告げ、L20はノルウェーに針路を取ります。
そして、L20はフィヨルドに激しく着水します。前部ゴンドラの支柱が粉砕され、数本のワイヤーだけでぶら下がっている状態になりました。シーアンカーが投下されましたが船首を風に立てることは出来ず、船体は近くの高さ45mもの断崖に向かって流されていきます。指揮官と副官を含む8人が海中に飛び込みました。
副官を含む6人は漁船に救助され、上手く言いくるめることが出来たのか「遭難船員」としてすぐさまドイツに送還されました。残りの10人はノルウェーに抑留されましたが、7ヶ月後、指揮官のスタバート大尉は何度かの試みの後に脱走に成功し、ドイツに帰国します。L20の残骸の写真は後にイギリスの新聞に掲載されました。 以上、L20がたどった苦難の道程とその最期の物語でした。 この爆撃作戦の後、 シュトラッサーは高海艦隊司令官のシェーア中将にこう進言しています。「工場などに大規模な損害を与えました。L20を失なったものの、この攻撃は完全に成功したものと考えます」 残念ながら、L20―72,916ポンド相当―の喪失と引き換えにイギリス側に与えた損害は、9人の死者と30人の負傷者、被害額12,030ポンド相当でした。
5月3日朝、前日から英本土爆撃に向かった飛行船はまだ基地に向けて帰投中です。L20に至っては遥か北のスコットランド地方を彷徨っています。
この機動部隊は翌4日の夜明け、シルト島(ユトランド半島西岸)沖合から搭載機のソッピース・ベビー複葉単座水上戦闘機を発進させようとします。ところが、なんとその内8機までが離水に失敗します。9機目は離水直後に駆逐艦の無線アンテナに引っかかって墜落し、操縦士と共に失われます。10機目は離水直後にエンジントラブルを起こして引き返してきました。
それもそのはず、水上機の操縦士はトンデルンに到達できず、目標が発見できなかった彼は1発の爆弾を”デンマークのどこか”に投下して母艦に帰投します。
一方、ドイツ艦隊にはこれを知らせる警報が出ていました。まず08:35、L9がハーグを離陸します。同船はテルスヘリング島(Terschelling,オランダ北部の西フリージア諸島)からホーンズ・リーフ(Horns Reef,ユトランド半島西岸沖の岩礁帯)にかけて哨戒しますが、何も発見できず午前のうちに帰投します。
昨日の出撃により損傷を受けていたL14は大急ぎで修理され、16:20、ノルトホルツを離陸します。19:23、ホーンズ・リーフの灯船から「何も発見できず,濃霧、視界5km,東風、風力4,針路北北西」との無電を送り、20:00には基地への帰投針路を取ります。その1時間程後、L14は危うく海中に墜落する羽目になります。
結局、高海艦隊が出撃したのはこの日の夕方遅くになってからでした。もちろん、とうの昔に英艦隊は帰途に就いており、何も得るものはなく帰港します。 そして数週間後、未帰還となったL7に何が起こったかが判明します。
11:30、水上機の揚収を終えて帰路に就いていた水上機母艦を援護する軽巡洋艦が、視界内にL7を捕らえます。2隻は30分に渡って砲撃を加えますが、L7は低い高度ながらも十分な距離を保って触接を続けます。この間、どういう訳かL7は無電で報告を送っていません。
付近には潜水艦が潜伏している危険があった為、艦隊は墜落現場に接近せず帰投しますが、付近にいた英潜水艦E31が浮上して7名の生存者を拾い上げました。E31は浮上航行中にツェッペリンを発見し、攻撃を避ける為潜航して潜望鏡深度にあったのですが、潜望鏡からの観測でしょうか、L7撃墜の瞬間を写真に収めています。この写真がイギリスの新聞の紙面を飾ってようやく、ドイツ側はL7未帰還の原因を知りました。
文字ばかりでどうでも良いことばかり書き連ね、ご覧の方々はいい加減うんざりしてきたでしょうが、執筆者は『いよいよ佳境に入ってきた』つもりでおります。今しばらくお付き合い下さい。
シェーア中将は2つの作戦案を持っていました。1つは北海北西部、つまりサンダーランド地方への出撃で、これはドイツ側の意図しない優勢な敵艦隊との遭遇を避ける為、飛行船の偵察が必要不可欠でした。もう1つは北海北部、ユトランド半島東岸を行動するもので、半島自体が敵艦隊の東からの接近を防いでくれること、また、敵艦隊の根拠地からの距離が遠くなることで不時遭遇の危険をより低くしてくれるとの考えから、飛行船の偵察は必要ではあったもの不可欠ではないと判断していました。
高海艦隊は飛行船による北海北西部の偵察結果を得る為、23日から待機します。しかし、30日になっても天候は好転せず、まもなくUボートは補給の為配置を離れなければならなくなりました。シェーア中将は決断します。すなわち、飛行船による偵察なしでやらなければならない、と。
シェーアは麾下の巡洋戦艦部隊に『作戦はノルウェー沿岸からスカゲラック海峡(ノルウェー−デンマーク間の海峡)の間で行う』ように指令を下します。しかし、イギリス側は「何かが起こりつつある」ことを察知し、5月30日夜半前に英艦隊は根拠地から出撃していました。一方、独艦隊の出港は31日早朝となりました。 参考;ユトランド海戦:http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Jutland(英Wiki),http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6(日Wiki)
しかし、当日早朝になっても天候は飛行船の飛行に適せず、ノルトホルツ基地にあった海軍飛行船部隊が担当する哨戒区域に向けて離陸することができたのは午後になってからのことでした。しかも、L11とL17は風向が格納庫に対して横風であった為、すぐには出庫することが出来ません。まず、回転式格納庫にあったL21とL23が離陸していきます。
けれども、依然北海上空は濃い霧と300mの低い雲底の為に視界は遮られており、15:30になっても未だドイツ沿岸付近にありました。この頃、英独巡洋戦艦部隊はすでに互いを発見して艦隊機動を行っており、今まさに砲火を交えんとしている時刻です。
L23のシューベルト大尉は、依然ドイツ海岸上空にあった15:00の時点で航海日誌にこう記しています。『視程2.5km,風力3から4,曇,雲頂750m』 17:00になって戦闘の無電を受信、北と東から巡洋戦艦部隊を援護するべく針路を取ります。しかし、L23は部隊を発見することが出来ませんでした。
そして、この2隻が海戦の行われた海域に最も近い飛行船でした。 つまりこの日、海軍飛行船部隊は、L9,11,13,14,16,17,21,22,23,24の10隻、麾下のほぼ全力を投入したにもかかわらず、なんら戦局に寄与することが出来なかったのです。21時を過ぎて日没を迎える頃、海戦は一通りの決着を見て、終幕の局面に向かいつつありました。
夜に入り、ノルトホルツとハーグの基地に戻ってきたL11,13,17,22,24の各飛行船は、補給が済み次第前日と同じ哨戒区域に向けて再び離陸していきます。視界はやや改善し、北に進出した2隻の飛行船からは、遠く海上で繰り広げられるいくつかの夜間戦闘を目撃します。
そのうちの1隻、L24は敵艦との遭遇時には上昇して雲の中に逃げられるように、雲底の下を飛行することにしました。01:06、ホーンズ・リーフの灯台船に達した時、北東に砲火を見ます。その方向に針路を取りましたが、砲火はまもなく止んでしまいました。
L24の指揮官コッホ大尉は、02:38、ボーバーグ(Bovbjerg,デンマーク西岸中部の灯台)の西43海里の地点から触接報告を送りました。その時の状況は以下の通りです。 ”夜明けに多数の駆逐艦と潜水艦に攻撃を受けた。高度1,500m、艦艇は見分けにくかったが砲口炎で発見することができ、駆逐艦戦隊と6隻の潜水艦を含むと思われる。上空をジグザグコースで飛行し、投下した爆弾は3発から5発が駆逐艦への至近弾になった” 夜明けを迎える04:00には、 ”ハンストホルム(Hanstholm,デンマーク北端の港湾都市)の沖17海里、高度2,200mからヤマー湾(Jammer Bay,デンマーク西岸北部)に12隻の大型艦と多数の巡洋艦からなる分艦隊を発見。南への針路で艦型特定を試みるも、艦隊は高速で南へ移動しており、最初の接近では前方に巡洋艦を伴い一列になって航行していた。2隻の巡洋艦が飛行船を追跡してきたので、北西の雲の中に進路を取り、西と北東からの接近を試みた。雲ともやが晴れたので、敵の小艦艇からの追跡と砲火なしに敵本隊に近づくことが不可能になった” シェーアはこの艦隊は敵の主力艦隊から分遣されたものと結論を下しましたが、実は、この時L24が報告した場所に英艦隊は存在しませんでした。
一方、L11の指揮官シュッツェ大尉は夜明け直前の04:00、テルスヘリング島の北35海里の地点で煤煙を発見します。10分後、それはイギリス連合艦隊の大部隊と判明し、艦型識別と位置報告を行っています。この触接が、ユトランド海戦を通じて海軍飛行船部隊が行った偵察飛行の事実上唯一の成功と言えるものでした。
”12隻の戦艦と多数の軽艦艇からなる強力な敵艦隊が、高速で北北東に向かっていた。L11は触接を保ち、無電報告を送り、円を描きながら東へ向かった。04:40、地点043βで軽艦艇を伴った6隻の戦艦からなる第2の敵艦隊と遭遇した。これを発見した時には西に方向転換しており、明らかに最初の艦隊と合流しようとしていた。この一団が最初のものより我々の艦隊に近かったので、L11はこれに触接を継続した。しかし、04:50、L11と敵本隊との間、地点029βに巡洋戦艦3隻と軽艦艇4隻からなる第3の艦隊が北東から南下しつつあるのを発見した。視界が悪く、触接を続けられなかったので、より敵艦隊を見やすくなるよう高度を1,100mから1,900mに上げ、昇りつつある太陽に正対した。
L11が最後に発見した3隻の巡洋戦艦―04:50―は4隻のド級戦艦からなる第6戦艦隊で、その旗艦戦艦マールバラは魚雷攻撃による損傷を受けており、戦列から分離されていました。マールバラの13.5インチ(34.3cm)砲は『装填済みの弾丸を砲口から抜き取る』為にL11に向けて発射され、同時に2基の3インチ(7.5cm)対空砲から数射を送ります。他の戦艦、中でも戦艦ネプチューンは、東の空にある目標に向かって『乱射』を行っています。
すでにヤマー湾にあったシェーア中将は、L11の報告にあった多数の敵艦隊を『英仏海峡からの援軍』であると考えています。これは、シュッツェ大尉が戦闘による損傷の兆候を注意深く観察し、『しかし、檣楼、煙突、ブルワークは完全であるように見え、高速で艦隊機動を行っていた。5月31日の戦闘に従事していないのは明らか』と見ていたからです。
この海戦後、シェーアは飛行船による哨戒は信頼を継続するに値すると述べています。『この戦術は優勢な敵勢力の予期しない出現に対して、最大限の保障を与えられる。したがって、さらなる広域作戦には飛行船による偵察飛行が基本となる』
それでも、シェーア中将は海軍水上部隊の活動にはなお飛行船による偵察が不可欠であると考えていました。これは、ユトランド海戦自体が『飛行船による北海の偵察が出来なかったが為に』その海域で戦闘が行われたこと、そしてこの海戦を通じて行われた各戦闘が霧と靄に包まれた北海での不意遭遇による突発的なもの終始したことが原因であるようです。
この海戦以後、ドイツ海軍水上部隊の活動は極度に低調なものとなり、海軍の作戦は潜水艦による通商破壊にその主軸を移していきます。1918年11月11日の休戦までの間に再びイギリス艦隊との大規模な海上戦闘が行われることはなく、従って再び飛行船が水上艦艇の目となって活躍する場面が訪れることもありませんでした――以来一世紀を経て今日に至るまで、そしておそらくは今後も。 以後、海軍飛行船部隊は英本土爆撃に全力を注ぐことになり、それに特化した装備を持つ戦略爆撃部隊へと変化を遂げていきますが、それはまた別の物語となるでしょう。 (以上) 公開:08/03/30 |