[天翔艦隊へ]


ユトランド上空の飛行船

※注:この文章は、ソーシャルネットワークサービスmixiにおいて、私こと天翔の日記(2007年11月13日〜28日)で連載した文章を、編集して加筆訂正したものです。



 時は大正時代の始め、ヨーロッパでは欧州大戦―後の第一次世界大戦―もたけなわの頃。1916年5月31日から翌6月1日にかけて、デンマークのユトランド半島沖で行われたイギリスとドイツの主力艦隊による一大海戦は、ユトランド海戦(The Battle of Jutland,ドイツ語読み、英語読みでジュットランド)と呼ばれています。

 この駄文では、日本語書籍やWebサイト上で紹介されるこの海戦において、ほとんど、まったく、一切と言っていいほど触れられることのない、ドイツ海軍飛行船部隊の活躍への言及を試みています。



 革新的な新技術が認められるまでには、往々にして困難が伴うものです。海軍大臣ティルピッツが最終的に飛行船の採用を決定し、L1(L=Luftschiff, =Airship)の建造にゴーサインが出たのは1911年夏のことでした。翌年春には飛行船部隊が設立され、要員が集められます。そして1912年10月7日、栄えある一番船としてL1が進空し、陸軍に遅れること6年、ここに名実共にドイツ帝国海軍飛行船部隊が誕生しました。
 ちなみに陸軍が飛行船を採用した頃、海軍は潜水艦(Uボート)の建造に着手しています。この二つの新兵器は、時を同じくして揺籃期を迎えていたのです。

 ティルピッツは翌'13年1月、飛行船2個戦隊10隻の建造と飛行船基地の整備を指示します。L1はこの冬を乗員の訓練に費やしますが、夏の間は短距離ながらも比較的活発に飛行を行い、8月には高海艦隊の訓練にも参加して、飛行船が持つ潜在能力を知らしめます。二番船L2の建造も決まり、飛行船部隊の前途は順風満帆かに見えました。
 ところが1913年9月9日、偵察飛行の為離陸したL1は寒冷前線のもたらす暴風雨に遭遇し、海上に墜落してしまいます。その3日前に就役したやや大型のL2もわずか1ヶ月後、就役前の10回目のテスト飛行―高々度飛行試験―時に爆発墜落してしまいます。地上で気嚢が太陽光に暖められて過熱状態になり、離陸時に急上昇した為、自動弁が開いて排出された水素ガスに機関の火花が引火したものと推定されました。

 この二つの事故で、海軍飛行船部隊の指揮官を含む40名を超える死者を出し、飛行船に対する否定的な見解が台頭します。ティルピッツは先の建造計画を忘れたかのように消極的になりますが、飛行船推進論者はそれを押し切って海軍飛行船部隊に新しい指揮官を据え、L3の建造を進めます。
 この推進論者の一人がヒューゴー・エッケナー博士で、ツェッペリン伯爵の事業に初期からかかわり、戦後LZ127"Graf Zeppelin"による世界周航、また後に加わったLZ129"Hindenburg"と合わせて2隻による定期航路樹立の主役となる人物です。ちなみに、彼の持つ博士号は経済学で、工学博士ではありません。また、この時の新指揮官がペーター・シュトラッサー少佐で、彼は戦争末期に戦死するまで海軍飛行船部隊の中核となってこれを率います。

 そして1914年5月11日、L3が進空します。これまでで最大の船体容積と最大の機関出力を持つ一方、格納庫の大きさの関係で船体の直径を大きくすることが出来ず、円筒形の前後を整形しただけのような鉛筆状の船体形状や船体下部に突出したキールを含めて、技術的にはL1の改良の域を出ていません。
 L3は5月下旬に海軍に引き渡されると、まず6月に"Kiel Week"(キールで開かれる有名なヨットレース)の上空でイギリスに対するお披露目を行い、いくつかの訓練飛行を行った後、7月半ば過ぎには21時間の長距離偵察飛行試験を行ってこれに成功します。

 ところが1914年6月28日、サラエボで鳴り響いた銃声を切っ掛けとして、欧州各国は後に「世界大戦」と呼ばれる総力戦になだれ込んでいきます。ドイツは8月2日にロシアへ、3日にフランスへ宣戦布告を行います。翌4日にはイギリスがドイツに対して宣戦布告を行いました。

 さあ、大変なことになりました。次のL4の就役は9月を待たねばなりません。ドイツ帝国海軍飛行船部隊は、たった1隻で大戦争に突入する羽目になってしまったのです。ちなみに、この時までに完成していたUボートはプロトタイプを含めて28隻です。この国は20年ちょっと後にも同じようなことを繰り返しているのですが、まったく学習能力が欠如しているとしか思えません。

 けれどもまあ、世の中ってそんなものかもしれませんね。 



 泥縄もいいところですが、第一次世界大戦に突入した後、ドイツ海軍飛行船部隊は徐々に陣容を整えていきます。'15年明けには英本土初空襲を行い、次いで行われたドッガー・バンク海戦にも若干ながら関与しています。開戦後1年を迎えるまでに、L3が荒天でデンマークに不時着大破、L8が対空砲火でやはり不時着大破と損失はあったものの、L型10隻、SL型2隻を就役させました。


海軍のツェッペリン・シュッテ・ランツ飛行船就役時期及び期間
青は開戦、赤1はドッガー・バンク海戦、赤2はユトランド海戦


 なお、ちょうど開戦1年目の頃に"Fokker Scourge"(フォッカーの懲罰)と呼ばれる機関銃同調装置が開発されます。いつも思うのですが、英米人はこういう異名つけるの大好きですね。

 戦いも2年目に入る頃、これまでの飛行船(m型,L4〜8)では能力不足とみたドイツ海軍は、より大型のp型(L10〜19)、q型(L20〜24)を投入して戦力の強化を図ります。最終的には2年目の終わりに"Super Zeppelin"r型が登場するに至って、ようやく準備が整ったと言えるでしょう。一方で、活動範囲が広がったこともあって損失も増えつつあり、指揮下にある飛行船の数は常に10隻前後を保ちながら推移しています。



 さて、世界大戦が勃発して2回目の春がやってきました。西部戦線ではウェルダン要塞でドイツ軍の進撃が停止し、膠着状態に陥っています。時は1915年4月24日、ユトランド海戦を1ヶ月後に控えた復活祭の日から話を始めようと思います。

 この日、アイルランドでイースター蜂起が勃発します。アイルランド民族主義者によるこの武装蜂起にはドイツが関与しており、ロシアの捕獲小銃数千丁を送ったり、元英外交官にしてサーの称号も持つ指導者、ロジャー・ケースメントを潜水艦でアイルランド西岸のタリー湾に上陸させたりしています。しかし、この計画はすでにイギリスの知るところであり、小銃を運搬する船は途中で拿捕され、ケースメントも上陸直後に逮捕されます。

◆開戦劈頭ドイツ海軍は失策を犯し、暗号表がイギリスの手に落ちています。興味のある方は「マグデブルク」「暗号」辺りで検索されるとよろしいかと思います。「ツィンマーマン」「電報」もお勧めですよ。

 ドイツ海軍はこの武装蜂起を支援する為、巡洋戦艦(ドイツ公式分類では大型巡洋艦)からなる偵察艦隊を英本土西岸砲撃に派遣することを決定していました。24日の午前遅く、5隻の巡洋戦艦を主力とする偵察艦隊がヤーデ(Jade)湾を出発します。目標とされたのはロンドンの北東約160kmに位置するローストフト(Lowestoft)で、主力艦隊である高海艦隊―"Hoch-see Flotte",英名"High Seas Fleet"―も出撃してこれを援護します。

 飛行船部隊もこれに呼応して全力で出撃します。L7は偵察艦隊に同行し、シュトラッサー中佐率いるL21以下8隻は同日午後、英本土西岸の爆撃に向かいました。命令は『イングランド南部、もし可能であればロンドンを攻撃』することです。

 各基地をばらばらに飛び立った飛行船はノーフォーク沿岸から接近しますが、いずれも強い南南西の風に阻まれてロンドンへの針路を放棄します。結局、彼らは「イーストアングリア(East Anglia)地方(含ローストフト)は霧と濃い雨雲に閉ざされている」ということを自らの目で確認し、それを報告することしか出来ませんでした。
 雲の隙間を縫ってなんとか都市に投弾を行うことができたのは4隻で、3隻がケンブリッジ(Cambridge,ロンドンの北約70km)を、1隻がノーリッジ(Norwich,ロンドンの北東約160km)を爆撃したと報告し、他は爆弾を抱えたまま帰還します。対空砲の迎撃も受けましたが、悪条件はこちらも同じでL13の前ゴンドラに弾片が命中しただけでした。

 イギリス側の発表によれば、ニューマーケット(Newmarket,ロンドンの北北東約80km,競馬場で有名)で家屋5軒が破壊されたというものと、ノーリッジ近郊のディルハム(Dilham)という小さな村に爆弾45発が投下されて、女性が1人心臓麻痺で亡くなったというもので、これが実際の被害です。

◆現在位置の把握は常に飛行船指揮官の頭痛のタネでした。飛行船は天測航法も可能でしたが、空の見えない悪天候の場合は地文航法に頼るしかありません。もし幸運にも眼下になんらかの目標物―例えば河川、鉄道など―が見えれば、ですが。
 いきおい推測航法に頼らざるをえない夜間の悪天候条件下では特に報告と事実の乖離が著しく、『基地に帰って翌朝の新聞を読まないとどの街を爆撃したか分からない』とさえ言われました。

 正確にいつからかは不明ですが、少なくともこの頃の飛行船には、無線で方位測定ができる装備が搭載されてはいるようです。やがてこれを爆撃目標の標定に使用していることを察知したイギリスとの間で、熾烈な電子戦が展開されることになります。

 さて、11:40にハーグ(Hage,ウィルヘルムスハーフェン近郊)を離陸して偵察艦隊にくっついていったL7ですが、15:48、その眼下で巡洋戦艦ザイドリッツの舷側に水柱が上がります。当初潜水艦による雷撃が疑われましたが、低空を飛行していたL7の指揮官ヘンペル大尉は雷跡を見ておらず、機雷に触れたものと判明します。ザイドリッツは浸水に止まり、ウィルヘルムスハーフェンに引き返します。L7はこれに随伴しますが、19:48、燃料に不足を来たしたのでハーグの基地に針路を取りました。
 一方、入れ替わるようにL9がハーグを21:55離陸、日付が変わる頃には偵察艦隊と高海艦隊の中間付近まで追いついています。その頃になってようやくL7がハーグに到着し、00:10着陸、急いで燃料、水素ガス、バラストを補給して03:30、再び艦隊上空に向け離陸しました。乗員は前日昼前から12時間以上の連続乗務に加えての任務です。

◆L7がやけに帰還に時間を食っているのは、やはり「強い南南西の風」のせいでしょうか。

 また、00:15にはノルトホルツ(Nordholz,やはりウィルヘルムスハーフェン近郊)からL6が離陸します。こちらはドイツ艦隊の北側の偵察が目的でしたが、乗員の訓練中であったためか、南南西の風に流されて北に外れ、艦隊との触接を失ってしまいます。

 英本土爆撃に向かった飛行船の最後の1隻が、ノーフォークの海岸線を離れた旨の通信を送ってきたのは03:30でした。この時、偵察艦隊はローストフトの東50海里の位置にありました。前方に軽巡洋艦と駆逐艦の哨戒線を展開し、その後方に主力の巡洋戦艦4隻―リュッツオゥ、デアフリンガー、モルトケ、フォン・デア・タン―が続きます。高海艦隊はさらにその後方60海里です。
 05:00少し前、偵察艦隊はローストフトに到着し、6分間砲撃を加えました。さらにその北のグレート・ヤーマス(Great Yarmouth)にも数斉射を送り、そそくさと帰途に着きます。

 これを追撃したのがハリッジ(Harwich,ロンドンの北東約100km)を出港したトライフット代将率いる3隻の軽巡洋艦、2隻の嚮導駆逐艦と16隻の駆逐艦です。05:19、L9はこれを発見して『8隻の船と駆逐艦が高速で北に向かっている』との無電を発します。

 その数分後、L9は突如2機の飛行機に襲われました。これは海上のL9を目撃して1時間ほど前にグレート・ヤーマスから離陸したBE.2C偵察機で、上昇限度で上回るL9を上から押さえ込みます。上部銃座から反撃しつつ追い風を受けて逃走するL9に対して銃撃と爆撃を加えましたが、少なくとも爆弾の方は回避されて命中しなかったようで、撃墜には至りませんでした。このBE.2が焼夷弾を装備した機関銃を持っていなかったことが原因でしょう。L9の指揮官ステリング大尉はこれを水上機と報告しています。

◆「爆撃」って飛行船相手にどんな爆弾を落としたんでしょうね? 対飛行船用として機関銃用の焼夷弾が開発されるのはもう少し後のことになります。

 BE.2は通算3,500機が製造された連合軍のベストセラー複葉複座偵察機です。通例に反して操縦士が後席、偵察員/銃手が前席という配置になっており、上翼がやや高い位置にあるとは言え、その下にある前席からの射界はさぞかし限られていたことでしょう。発動機の出力はわずか90馬力、最高速度は120km/hを下回りますが、L9のそれは85km/hです。

 偵察艦隊と高海艦隊、及び飛行船部隊は無事帰還し、一つの作戦が終了しました。この作戦は比較的『上手くいった』方だと言えるでしょう。
 なお、艦隊作戦に共同したL6/7/9は、この時点でいずれもやや旧式の部類に属し、部隊主力は英本土爆撃に向けられていることが分かります。確かに、L4〜8の属するm型は北海上空の偵察作戦にさえ能力不足(主に速力)との判定が下されているのですが。



 北海(ほっかい;英:North Sea,独:Nordsee)。

 日本人には馴染みの薄い地名ですが、海底油田が存在するので地理の時間に耳にしたことくらいはあるかもしれません。東はノルウェーとデンマーク、南はドイツ、オランダ、ベルギー、西はイギリスに囲まれた閉鎖的な海域です。北部の方でやや深い地点もありますが平均水深は100m以浅にあり、北海中央やや下に位置するドッガー・バンクでは13mと非常に浅い海でもあります。
 北緯50度から60度の間に位置し、ほぼロンドンからオスロの間にあります。これを日本近海に持ってくると、南端でサハリン中央、北端はカムチャッカ半島の付根付近に達します。にもかかわらず冬季に結氷しないのは、アメリカ東海岸を北上する暖流のメキシコ湾流から分かれて大西洋を横断してくる北大西洋海流が、スカンジナヴィア半島に当たって反流となって流れ込み、またイギリス海峡(ドーバー海峡)を通って直接流れ込んでくるからでもあります。

 なお、北海油田が開発されたのは'60代以降ですので、遡ること半世紀、このお話の時代には影も形もありません。
参考:http://en.wikipedia.org/wiki/North_Sea(英Wiki)



 この北海における厳しい気象条件の下、ドイツ帝国海軍飛行船部隊はどのように戦っていたのでしょうか。ユトランド海戦までもうしばらく飛行船部隊の作戦にお付き合い下さい。

 さて、月が変わって5月になりました。2日午後、再び8隻の飛行船が英本土空襲に向けて各基地を離陸します。今回の命令は『イングランド北部、主目標ロサイス(Rosyth,フォース湾に面する海軍工廠のある都市。エディンバラ近郊)、フォース橋、イギリス艦隊』というものでした。ドイツからは北海中央部を横断する最短コースでも、片道800kmの長距離爆撃行となります。
参考;フォース鉄道橋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E9%89%84%E9%81%93%E6%A9%8B(日Wiki)

 各船は当初追風を受けて順調に飛行を続けていたものの、高度を上げたところ強い南風に遭遇します。気象通報はイングランドに新たな低気圧が接近していることを告げていました。厚い雪雲と吹きつける風が航法と観測を妨げ、L14とL20以外の飛行船はイングランド北部への到達を諦めます。
 最初に陸地に到達したのはL23で、何と間違えたのか北ヨークシャーのダンビー(Danby,ミドルスブラ近郊の村)にある湿原地帯に爆弾を投下し、枯れ草に火をつけます。次いでその30分程後にL16が同じ場所に到着し、やはり爆弾を景気よく燃える湿原に投下してしまいます。続くL17とL13までもが、ここに無駄弾を追加した模様です。

 L16の指揮官ペーターソン中尉によれば『炎の位置で建物に命中した場所がよく分かり、同様に鉄道線路と築堤が認められた』とのことですが、事実は上記の通りです。L17はスキンニングローブ(Skinningrove,やはりミドルスブラ近郊の村)に爆弾を投下した後、残りを『東海岸に面した都市、おそらくソルトバーン(Saltburn,以下略)』に投下した、と報告していますが、実際に彼がいたのはやはりダンビー上空でした。

 引き続きイングランド北部を目指したL14は、雪混じりの強いスコールに突入して急速に着氷し、失速して高度3,000mから2,000mに降下します。指揮官のボッケル大尉は、雪の切れ目から『すぐ下の2隻の大きな軍艦』を狙って5発の爆弾を投下し、楽観的にそれが沈んだとさえ考えました。01:15、L14は推測航法のみでエディンバラ上空に到達しましたが、爆弾投下は雪雲によって果たせず、最終的に投弾を諦めます。
 なお、どうやら彼はフォース湾とその50kmほど北のテイ川河口を間違えたらしく、爆弾は付近の村の原野に落ちています。

◆L11とL21に関しては記載がありません。投弾自体を諦めたのでしょうか、それとも記録に残っていないのでしょうか。

◆ちなみに、この頃英本土南部では灯火管制が実施されています。

 この成果のない長距離爆撃行の帰途、各飛行船は苦難の道程を歩むことになります。雹の混じった激しい雷雨が北海を横断しようとする彼らの針路を妨げました。あらゆる金属部分でセント・エルモの火が燃え、雪は外皮に積もります。
 L7はウィンチの故障で無線アンテナを巻き上げることができず、アンテナとゴンドラから上部銃座に至る船体の広範囲の部分で放電の長い火花が踊り狂い、見張り員のジャケットの毛皮の襟では静電気の火花がちらちらしています。
 L23は両舷エンジンの出力が2/3以上発揮できず、雨に濡れた船体の重量の為海面に向かって降下が始まります。装備機銃と弾薬を投棄し、燃料を捨て、水バラストの最後2つを空にしたところでようやく降下を止めることができました。

 そして、船体への着氷が恐ろしい結果を招くことになります。L11では船尾が重くなったことに気づき、調査の結果、6番セルの気嚢が孔だらけになっていることを発見します。船体から剥げ落ちる氷片が舷側エンジンのプロペラに巻き込まれ、遠心力で外皮に叩きつけられたことが原因でした。6番セルは70%の浮揚ガスを失っており、爆弾と乗員を船首最先端の係留点に、後部エンジンを解体してパーツを前ゴンドラに移動させてどうにかトリムを回復します。
 L14は同様にして6番セルの90%と4番セルの40%の浮揚ガスを失いましたが、こちらは孔にパッチを当てることでなんとかなった模様です。
 L21に至っては、7番セルの漏洩と積雪の重量の為、無線で救助を求める羽目になります。朝を迎えて雪が止み、日差しで雪が溶けたことでどうにか基地に帰着できましたが、着陸時には2tの過重状態になっていました。

◆飛行船の浮力に関する要素として、静的浮力と動的浮力の2つがあります。前者は気嚢に充填された浮揚ガス(水素)の浮力によるもの、後者は船体に何度かのトリムを与えて動力飛行を行うことによって、船体に働く揚力から得るものです。

 姿勢制御によって正(もしくは負)の揚力を発生させ、飛行船をコントロールするのは常套手段ではあるのですが、静的浮力だけでは2tの浮力が不足していたL21のエンジンが一つでも止まれば、墜落は逃れ得なかったことでしょう。L21はこの修理に10日を要しています。

 シュトラッサー中佐はこの経験によって着氷の恐ろしさを知り、「アイスシールド」なるものの装着を行います。枠に張った厚いキャンバスをプロペラの上の外皮に取り付けるものでしたが、時としてこれも貫通されることがあったようです。

 さて、イングランド北部を目指したもう1隻の飛行船であるL20ですが、L14が到達したテイ川付近の都市ダンディー(Dundee)からフォース湾のフォース橋に到達すべく針路を取ります。19:00に照明弾を投下し、東からの風に流されていることを知ります。
 22:21に無線方位測定を行って2時間前のものと比較したところ、今度は強い北西の風が吹き始めたことが判明します。その直後22:45からL20は厚い雲の層の上を飛行することになり、船位を失します。23:20には雪交じりの強いスコールに突入し、外皮への着氷が始まりました。指揮官のスタバート大尉はバラストを投下し、最後には燃料タンクの投棄に踏み切ります。彼は西に向かおうとしましたが、北西の風に妨げられていると感じていました。

◆ツェッペリン飛行船の燃料タンクは、アルミ製のものが複数船体下部のキール両側に分散配置されており、非常時には切り離して投棄することも可能でした。

 また、水バラストはキャンバス製の袋に入れられており、同様に分散配置されていました。この袋は傾斜時にバラスト水が自由水面となって暴れるのを防ぐ為に三角錐をひっくり返したような形状になっており、下端の頂点と底面の外周だけが船体に固定さてれいました。その形状に由来して"Breeches(半ズボン)"と呼ばれています。

 日付が変わる頃、L20は濃い霧の中を盲目状態で手探りで進んでいました。方位測定を行う為に電波の発信を要求しようとしたのですが、着氷したアンテナから出る電波は余りに弱すぎて、ドイツまで届かないことが判明しました。01:00になってようやく雪雲が晴れましたが、今度は南東の風ではるかスコットランド高地のネス湖(怪物で有名なアレ)方面に運ばれていることを知ります。スタバート大尉は夜明けまでに陸地を離れるべく針路を反転しました。
 その途上、彼は鉱山の坑口とおぼしき光を見てこれに17発の爆弾を投下します。どうやら灯火管制が行われている北限を越えていたらしく、この不毛の高地一帯はツェッペリンの空襲を予想していなかったようです。爆弾の爆風で高さ12mの建造物の窓と屋根が破損しました。

 04:00になってL20は海岸線に到達し、スタバート大尉はここがフォース湾であると考えましたが、実はピーターヘッド(Peterhead)で、フォース湾の北160kmというとんでもない位置でした。06:00になってようやくノルトホルツ基地と連絡が取れ、方位測定で現在位置がオークニー諸島(英本土北端)の緯度にあることを知りました。07:00、彼は航行中の汽船「ホランド」を発見し、高度18mまで降下してこう叫びます。

「現在位置知らせ!」

 なんとも原始的な方法で得られた船位は北緯58度、東経3度でした。同時にそれは、搭載している残りの燃料をどうやり繰りしても基地へ帰還するには不足していることを意味しました。7:49、スタバート大尉は無線で基地に帰還不能である旨を報告すると、巡洋艦と駆逐艦がデンマーク沖で彼の帰還を支援すると告げられます。

 ところがその1時間後、南南東の風が18m/sまで強くなり、デンマークの北端に到達するには10時間を要する一方、残燃料は5時間分しかありません。また、艦艇がデンマークのユトランド半島の先端付近に到着するのは19:00になると推定されました。やがて機関士が2基の舷側エンジンがまもなく稼動しなくなることを告げ、L20はノルウェーに針路を取ります。
 11:00、L20はノルウェーの南西端スタヴァンゲル(Stavanger)上空にあり、船内には2時間分の燃料を残すのみとなっていました。機密文書は投棄され、無線機は破壊されました。山脈からの吹き降ろしの下降気流でほとんど操縦不能の状態になったまま、スタバート大尉は2t以上過重となったL20で着水を試みます。16名のうち泳げない2名を前ゴンドラに載せ、その他の乗員はガス放出弁を開く準備と窓から脱出する用意をします。

 そして、L20はフィヨルドに激しく着水します。前部ゴンドラの支柱が粉砕され、数本のワイヤーだけでぶら下がっている状態になりました。シーアンカーが投下されましたが船首を風に立てることは出来ず、船体は近くの高さ45mもの断崖に向かって流されていきます。指揮官と副官を含む8人が海中に飛び込みました。
 前部ゴンドラに昇降舵手1人を残したまま、船体は浮揚して海岸の突出部の上を漂流していきます。途中で後部ゴンドラが落下し、乗っていた4人は自ら陸地に飛び降りるか、振り落とされました。キールに3人を乗せたまま、やがて船体をへし折られたL20はガスが抜けるにしたがって落下し、最終的には海に墜落します。幸運にも死者はありませんでした。

 副官を含む6人は漁船に救助され、上手く言いくるめることが出来たのか「遭難船員」としてすぐさまドイツに送還されました。残りの10人はノルウェーに抑留されましたが、7ヶ月後、指揮官のスタバート大尉は何度かの試みの後に脱走に成功し、ドイツに帰国します。L20の残骸の写真は後にイギリスの新聞に掲載されました。

 以上、L20がたどった苦難の道程とその最期の物語でした。

 この爆撃作戦の後、 シュトラッサーは高海艦隊司令官のシェーア中将にこう進言しています。「工場などに大規模な損害を与えました。L20を失なったものの、この攻撃は完全に成功したものと考えます」

 残念ながら、L20―72,916ポンド相当―の喪失と引き換えにイギリス側に与えた損害は、9人の死者と30人の負傷者、被害額12,030ポンド相当でした。



 さて、イギリス側の作戦も記しておかねばなりません。

 5月3日朝、前日から英本土爆撃に向かった飛行船はまだ基地に向けて帰投中です。L20に至っては遥か北のスコットランド地方を彷徨っています。
 この頃、北海をドイツに向けて航行するイギリス艦隊がありました。水上機母艦エンガーディンとヴィンデックス、及びこれを護衛する軽巡洋艦ガラテアとフェントン率いる水雷戦隊です。目的地はトンデルン(Tondern,当時のドイツ領、現デンマーク)、ユトランド半島西岸の付根付近に位置する飛行船基地の空襲作戦です。もっともこの作戦の目的は、ウィルヘルムスハーフェンに潜む高海艦隊を誘い出す囮になり、出撃してきたところにイギリスの連合艦隊が鉄の洗礼を浴びせる、というものでした。

◆エンガーディンとヴィンデックスは共に元は渡峡連絡客船で、前者は英仏海峡、後者はマン島と本土を結ぶ航路に就航していました。20kt+と比較的高速力が発揮できた為、徴用されて後甲板に格納庫を設億、水上機母艦となっています。

参考;エンガーディン:http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Engadine_%281911%29(英Wiki)

 この機動部隊は翌4日の夜明け、シルト島(ユトランド半島西岸)沖合から搭載機のソッピース・ベビー複葉単座水上戦闘機を発進させようとします。ところが、なんとその内8機までが離水に失敗します。9機目は離水直後に駆逐艦の無線アンテナに引っかかって墜落し、操縦士と共に失われます。10機目は離水直後にエンジントラブルを起こして引き返してきました。
 最後の11機目がようやく無に事海面を離れます。この機はやがてTostlund(地名?詳細不詳)上空を高々度で飛行しているところを発見され、トンデルンでは対空砲要員が配置に就き、防空戦闘機が離陸します。しかし、彼らはいずれも敵を発見することが出来ませんでした。

 それもそのはず、水上機の操縦士はトンデルンに到達できず、目標が発見できなかった彼は1発の爆弾を”デンマークのどこか”に投下して母艦に帰投します。

◆海が荒れていたのか、エンジンが不調だったのか、燃料を積みすぎたのか、爆弾が重かったのか。。。基地が発見できなかったのは1人乗りで航法能力が不足していたからのでしょう。しかし、よく母艦に帰れたな。

参考;ソッピース・ベビー水上戦闘機:http://en.wikipedia.org/wiki/Sopwith_Baby(英Wiki)

 一方、ドイツ艦隊にはこれを知らせる警報が出ていました。まず08:35、L9がハーグを離陸します。同船はテルスヘリング島(Terschelling,オランダ北部の西フリージア諸島)からホーンズ・リーフ(Horns Reef,ユトランド半島西岸沖の岩礁帯)にかけて哨戒しますが、何も発見できず午前のうちに帰投します。
 少し遅れて08:50、L7がトンデルンからホーンズ・リーフに向けて離陸します。ところが、09:58に『シルト島から14海里の距離にあり、ホーンズリーフに向かって飛行中』との無電を発した後、10:39にホーンズ・リーフの灯台船から南南西17海里を飛行しているのを目撃されたのを最後に、L7は行方不明になってしまいました。
 シュトラッサー中佐は無線の故障と判断しましたが、時間が過ぎてもL7は姿を見せず、捜索に飛び立った水上機は何の痕跡も発見できずに帰還しました。

 昨日の出撃により損傷を受けていたL14は大急ぎで修理され、16:20、ノルトホルツを離陸します。19:23、ホーンズ・リーフの灯船から「何も発見できず,濃霧、視界5km,東風、風力4,針路北北西」との無電を送り、20:00には基地への帰投針路を取ります。その1時間程後、L14は危うく海中に墜落する羽目になります。
 飛行中に上昇気流をかわすために昇降舵が下げられたところ、舵がその位置で固着してしまいます。即座に全エンジンを停止し、前部バラスト水を捨て、乗員を後部に送り、海面上400mでどうにか下降を止めることができました。右舷昇降舵の上部操舵索が破損し、下部操舵索が滑車から外れて絡まっていたのが原因でした。修理の為に乗員を送って両舷の昇降舵の結合を外し、右舷を中立位置で固定、左舷昇降舵だけで操船しつつL14はのろのろとトンデルンに向かいます。どうにか基地に緊急着陸できたのは翌日朝05:20でした。

 結局、高海艦隊が出撃したのはこの日の夕方遅くになってからでした。もちろん、とうの昔に英艦隊は帰途に就いており、何も得るものはなく帰港します。

 そして数週間後、未帰還となったL7に何が起こったかが判明します。

 11:30、水上機の揚収を終えて帰路に就いていた水上機母艦を援護する軽巡洋艦が、視界内にL7を捕らえます。2隻は30分に渡って砲撃を加えますが、L7は低い高度ながらも十分な距離を保って触接を続けます。この間、どういう訳かL7は無電で報告を送っていません。
 しかし、L7は突如船首を突き立て、炎の輝きと共に海面に突入します。2隻のどちらかが放った砲弾の1つが燃料タンクを直撃し、発した火がすぐさま全船を覆ったのでした。

◆この時軽巡洋艦と水雷戦隊は水上機母艦と別行動を取っていたのでしょうか? ちょっと不明な部分があります。
 軽巡ガラテアとフェントンは共にアリシューザ級に属します。砲兵装は152mm単装6基と102mm単装4基、高角砲が102mm単装1基ですから、ひょっとして主砲で撃墜したんじゃないでしょうか。だとすればL7を「最も恥ずべき低空飛行を行った飛行船」と認定したいところですが、イギリス側のラッキーヒットにも程がありますね。

参考;アリシューザ級軽巡洋艦:http://en.wikipedia.org/wiki/Arethusa_class_cruiser_%281912%29(英Wiki)

 付近には潜水艦が潜伏している危険があった為、艦隊は墜落現場に接近せず帰投しますが、付近にいた英潜水艦E31が浮上して7名の生存者を拾い上げました。E31は浮上航行中にツェッペリンを発見し、攻撃を避ける為潜航して潜望鏡深度にあったのですが、潜望鏡からの観測でしょうか、L7撃墜の瞬間を写真に収めています。この写真がイギリスの新聞の紙面を飾ってようやく、ドイツ側はL7未帰還の原因を知りました。



 さて、長らくお待たせ致しました。実は5月の残りの期間は南西の強い風が続き、飛行船による作戦は不適と判断されて海軍飛行船部隊はまったく活動していません。次なる作戦が「ユトランド海戦」に繋がります。

 文字ばかりでどうでも良いことばかり書き連ね、ご覧の方々はいい加減うんざりしてきたでしょうが、執筆者は『いよいよ佳境に入ってきた』つもりでおります。今しばらくお付き合い下さい。



 5月23日以降、高海艦隊司令長官シェーア中将は飛行船部隊に次のサンダーランド地方(イギリス東岸中部)砲撃作戦に備えるよう指示を出す一方、Uボート(Unterseeboot,潜水艦)15隻をロサイス、クロマティ(イギリス北部)とスカパ・フロー(オークニー諸島)の英海軍根拠地の周囲に配置します。
 海上戦力でイギリスに劣るドイツは、潜水艦作戦を展開する一方、イギリス艦隊の一部を誘い出した上で局所的に優勢な戦力をもって敵戦力の漸減を図るべく、艦艇による英本土沿岸砲撃を繰り返しています。こうした『おびき出し作戦』を行うには敵艦隊の動静把握が非常に重要ですが、その役割を担っていたのが飛行船による偵察でした。

 シェーア中将は2つの作戦案を持っていました。1つは北海北西部、つまりサンダーランド地方への出撃で、これはドイツ側の意図しない優勢な敵艦隊との遭遇を避ける為、飛行船の偵察が必要不可欠でした。もう1つは北海北部、ユトランド半島東岸を行動するもので、半島自体が敵艦隊の東からの接近を防いでくれること、また、敵艦隊の根拠地からの距離が遠くなることで不時遭遇の危険をより低くしてくれるとの考えから、飛行船の偵察は必要ではあったもの不可欠ではないと判断していました。

 高海艦隊は飛行船による北海北西部の偵察結果を得る為、23日から待機します。しかし、30日になっても天候は好転せず、まもなくUボートは補給の為配置を離れなければならなくなりました。シェーア中将は決断します。すなわち、飛行船による偵察なしでやらなければならない、と。
 彼は北西への進出を諦め、艦隊の針路を北へ向けることにしました。こうして、飛行船部隊が北海西域を偵察できなかったが為に、ユトランド海戦がまさにその場所で戦われることになったのです。

 シェーアは麾下の巡洋戦艦部隊に『作戦はノルウェー沿岸からスカゲラック海峡(ノルウェー−デンマーク間の海峡)の間で行う』ように指令を下します。しかし、イギリス側は「何かが起こりつつある」ことを察知し、5月30日夜半前に英艦隊は根拠地から出撃していました。一方、独艦隊の出港は31日早朝となりました。

参考;ユトランド海戦:http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Jutland(英Wiki),http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6(日Wiki)



 1916年5月31日、史上空前にしておそらく絶後、両軍合わせて250隻もの艦船が戦列に加わった一大艦隊決戦がここに惹起します。

 しかし、当日早朝になっても天候は飛行船の飛行に適せず、ノルトホルツ基地にあった海軍飛行船部隊が担当する哨戒区域に向けて離陸することができたのは午後になってからのことでした。しかも、L11とL17は風向が格納庫に対して横風であった為、すぐには出庫することが出来ません。まず、回転式格納庫にあったL21とL23が離陸していきます。

◆第一次世界大戦中、飛行船用の巨大な格納庫(人名を冠しています)が各基地に建設されますが、ノルトホルツにあったやや小型の"Hertha(ヘルサ)"格納庫のみが風向に応じて回転できる仕組みを持っていました。小型とは言っても長さ182m、幅35m、高さ30mの巨大な建造物ですが。シュトラッサー中佐は後にこの時の例を引いて回転式格納庫の有用性を主張しています。

 ただでさえ耐航性が高いとは言えない飛行船ですが、格納庫への出入庫(人力)の際がもっとも風に対して脆弱な瞬間でした。これより少し前の4月17日、トンデルン基地でL22が"Toska(トスカ)"格納庫に入庫する際に船首を激しくぶつけ、10日間の修理を要する損傷を蒙っています。むしろこれは幸運だった例と言ってよく、8ヶ月後に同じ格納庫でL24が同様の事故を起こしますが、この時は漏洩した水素ガスに何かが引火したらしく、彼女は格納庫内にあったL17と共に全損に帰することになります。

 けれども、依然北海上空は濃い霧と300mの低い雲底の為に視界は遮られており、15:30になっても未だドイツ沿岸付近にありました。この頃、英独巡洋戦艦部隊はすでに互いを発見して艦隊機動を行っており、今まさに砲火を交えんとしている時刻です。

※海戦の詳細な経緯については市販書籍、及び他Webサイトなどを参照してください※

 L23のシューベルト大尉は、依然ドイツ海岸上空にあった15:00の時点で航海日誌にこう記しています。『視程2.5km,風力3から4,曇,雲頂750m』 17:00になって戦闘の無電を受信、北と東から巡洋戦艦部隊を援護するべく針路を取ります。しかし、L23は部隊を発見することが出来ませんでした。
 L14もまた、視程5kmの濃霧の中にあって視界内に何も捉えることが出来ませんでした―18:10、雲上でL23と互いに視認し合った以外には。

 そして、この2隻が海戦の行われた海域に最も近い飛行船でした。

 つまりこの日、海軍飛行船部隊は、L9,11,13,14,16,17,21,22,23,24の10隻、麾下のほぼ全力を投入したにもかかわらず、なんら戦局に寄与することが出来なかったのです。21時を過ぎて日没を迎える頃、海戦は一通りの決着を見て、終幕の局面に向かいつつありました。



◆22:06、シェーア中将はシュトラッサー中佐宛に一通の電文を発しています。『ホーンズ・リーフ付近の早急な偵察を必要とする』
 もしこれが傍受されれば、彼の意図、つまりドイツ艦隊の未来位置が明らかになるという点で非常に危険なものでした。

 事実、イギリスの暗号解読機関である「第40号室」ではこれを傍受して解読していました。しかし、これを受け取った士官はこの手の情報を扱った経験が不足していたらしく、イギリス艦隊には伝達されませんでした。一方、シュトラッサーは通信妨害の為この電文を受信していません。

 夜に入り、ノルトホルツとハーグの基地に戻ってきたL11,13,17,22,24の各飛行船は、補給が済み次第前日と同じ哨戒区域に向けて再び離陸していきます。視界はやや改善し、北に進出した2隻の飛行船からは、遠く海上で繰り広げられるいくつかの夜間戦闘を目撃します。

 そのうちの1隻、L24は敵艦との遭遇時には上昇して雲の中に逃げられるように、雲底の下を飛行することにしました。01:06、ホーンズ・リーフの灯台船に達した時、北東に砲火を見ます。その方向に針路を取りましたが、砲火はまもなく止んでしまいました。
 もう1隻のL22は、多数の砲火とサーチライトの光条が彩るドイツの戦艦とイギリスの水雷戦隊の夜間戦闘を見ています―02:10、戦艦が雷撃で大爆発を起こした最後の瞬間の閃光も。

◆これは前ド級戦艦ポンメルンです。

 L24の指揮官コッホ大尉は、02:38、ボーバーグ(Bovbjerg,デンマーク西岸中部の灯台)の西43海里の地点から触接報告を送りました。その時の状況は以下の通りです。

”夜明けに多数の駆逐艦と潜水艦に攻撃を受けた。高度1,500m、艦艇は見分けにくかったが砲口炎で発見することができ、駆逐艦戦隊と6隻の潜水艦を含むと思われる。上空をジグザグコースで飛行し、投下した爆弾は3発から5発が駆逐艦への至近弾になった”

 夜明けを迎える04:00には、

”ハンストホルム(Hanstholm,デンマーク北端の港湾都市)の沖17海里、高度2,200mからヤマー湾(Jammer Bay,デンマーク西岸北部)に12隻の大型艦と多数の巡洋艦からなる分艦隊を発見。南への針路で艦型特定を試みるも、艦隊は高速で南へ移動しており、最初の接近では前方に巡洋艦を伴い一列になって航行していた。2隻の巡洋艦が飛行船を追跡してきたので、北西の雲の中に進路を取り、西と北東からの接近を試みた。雲ともやが晴れたので、敵の小艦艇からの追跡と砲火なしに敵本隊に近づくことが不可能になった”

 シェーアはこの艦隊は敵の主力艦隊から分遣されたものと結論を下しましたが、実は、この時L24が報告した場所に英艦隊は存在しませんでした。

◆この時L24が発見した幻の敵艦隊について、ドイツの第二水雷戦隊ではないかとの指摘があるようですが、この水雷戦隊の戦時日誌には該当する記述が見られないようです。また、輸送船団であった可能性や、デンマークの漁船群を見誤ったのではないかとの指摘もありますが、結論は出ていないようです。

 一方、L11の指揮官シュッツェ大尉は夜明け直前の04:00、テルスヘリング島の北35海里の地点で煤煙を発見します。10分後、それはイギリス連合艦隊の大部隊と判明し、艦型識別と位置報告を行っています。この触接が、ユトランド海戦を通じて海軍飛行船部隊が行った偵察飛行の事実上唯一の成功と言えるものでした。

”12隻の戦艦と多数の軽艦艇からなる強力な敵艦隊が、高速で北北東に向かっていた。L11は触接を保ち、無電報告を送り、円を描きながら東へ向かった。04:40、地点043βで軽艦艇を伴った6隻の戦艦からなる第2の敵艦隊と遭遇した。これを発見した時には西に方向転換しており、明らかに最初の艦隊と合流しようとしていた。この一団が最初のものより我々の艦隊に近かったので、L11はこれに触接を継続した。しかし、04:50、L11と敵本隊との間、地点029βに巡洋戦艦3隻と軽艦艇4隻からなる第3の艦隊が北東から南下しつつあるのを発見した。視界が悪く、触接を続けられなかったので、より敵艦隊を見やすくなるよう高度を1,100mから1,900mに上げ、昇りつつある太陽に正対した。
 04:15に最初の敵艦隊と遭遇して以来、敵は全艦艇からすべての対空砲とあらゆる口径の砲で射撃を行い、主砲塔は舷側に発射していた。これらはよく狙われてよく集弾し、その砲口炎は艦艇自体が見えない時でも縦隊を浮き上がらせていた。
 視界内のすべての艦船が精力的に射撃してきたので、その時L11は21隻の大小艦艇の砲火の下にあった。射撃は成果を得られなかったにもかかわらず、大口径弾の通過と榴弾の炸裂が船体構造物をひどく振動させ、距離を取った方が得策であるように思えた。南西から北上してきた巡洋戦艦がL11の近くを通過し、その強力な砲火から逃れる為北東に針路を取った05:20には射撃が終息した。同時に視界は著しく悪化し、敵を視界から逸した”



 L11の出現は、イギリス連合艦隊にまず興奮を、ついで失望を引き起こしました。夜の間にいくらか分散しており、ドイツ高海艦隊が彼らの後方を通過してホーンズ・リーフの安全な掃海航路に達していたという事実を知らなかったので、イギリス艦隊は西に向かい、夜明けに敵を発見してとどめを刺すことを望んでいたのです。6隻の巡洋戦艦を率いるイギリスのビーティー中将は、戦艦戦隊のやや前方に位置しており、これに合流しようと北北東に引き返していた時にL11と遭遇―04:10―しました。
 巡洋戦艦インドミダブルは前部主砲から12インチ(30.5cm)徹甲弾を発射し、第3巡洋艦戦隊の4隻も射撃を始めます。この発砲音は遠く東に離れた戦艦戦隊も聞いており、ビーティー中将がドイツ艦隊を発見したものと考えて発砲音がした方角に舵を取ります。この部隊が、L11が04:40に発見した西に向かう艦隊でした。上空の飛行船がシェーア宛にこの状況を報告しているのはまず疑いなく、英艦隊は大きな失望に包まれます。

 L11が最後に発見した3隻の巡洋戦艦―04:50―は4隻のド級戦艦からなる第6戦艦隊で、その旗艦戦艦マールバラは魚雷攻撃による損傷を受けており、戦列から分離されていました。マールバラの13.5インチ(34.3cm)砲は『装填済みの弾丸を砲口から抜き取る』為にL11に向けて発射され、同時に2基の3インチ(7.5cm)対空砲から数射を送ります。他の戦艦、中でも戦艦ネプチューンは、東の空にある目標に向かって『乱射』を行っています。

 すでにヤマー湾にあったシェーア中将は、L11の報告にあった多数の敵艦隊を『英仏海峡からの援軍』であると考えています。これは、シュッツェ大尉が戦闘による損傷の兆候を注意深く観察し、『しかし、檣楼、煙突、ブルワークは完全であるように見え、高速で艦隊機動を行っていた。5月31日の戦闘に従事していないのは明らか』と見ていたからです。
 05:07、シェーアは麾下の全艦艇に『戦隊毎に行動せよ』との指令を下し、戦時日誌にこう記しています。『私はL11の報告にあった敵部隊に対して何も行動を起こさないことにした。なぜなら、現在の状況と不十分な空中偵察では何も成果があがらないだろうから』 07:26、彼はシュトラッサー中佐に向けて次のような電文を発しています。『飛行船による偵察はもはや不要』

 この海戦後、シェーアは飛行船による哨戒は信頼を継続するに値すると述べています。『この戦術は優勢な敵勢力の予期しない出現に対して、最大限の保障を与えられる。したがって、さらなる広域作戦には飛行船による偵察飛行が基本となる』



 さて、世紀の一大海上決戦は終わりを告げました。結局、この海戦において飛行船は文字通り「何も見ることができなかった」と言えます。巷の書籍においても―そもそもユトランド海戦について記した日本語書籍は少ないのですが―海軍飛行船部隊の活動が取り上げられていないのは当然と言えるでしょう。実際のところ、何も出来ていないのですから。しかし、それを額面通りに受け取ってしまえば、こうしたドイツ帝国海軍飛行船部隊の活動は歴史の霧の中に消えていくことでしょう。

 それでも、シェーア中将は海軍水上部隊の活動にはなお飛行船による偵察が不可欠であると考えていました。これは、ユトランド海戦自体が『飛行船による北海の偵察が出来なかったが為に』その海域で戦闘が行われたこと、そしてこの海戦を通じて行われた各戦闘が霧と靄に包まれた北海での不意遭遇による突発的なもの終始したことが原因であるようです。
 つまり「海上から見えない時は、空からもやはり見えない」という訳で、これは四半世紀の後にレーダーが登場するまで絶対の不文律でもありました。ユトランド海戦はそうなるべき海域で行われた戦いであり、であるとすれば、この飛行船部隊の活動が不首尾に終わったのもまた必然的にそうなるものであったと言えるでしょう。

 この海戦以後、ドイツ海軍水上部隊の活動は極度に低調なものとなり、海軍の作戦は潜水艦による通商破壊にその主軸を移していきます。1918年11月11日の休戦までの間に再びイギリス艦隊との大規模な海上戦闘が行われることはなく、従って再び飛行船が水上艦艇の目となって活躍する場面が訪れることもありませんでした――以来一世紀を経て今日に至るまで、そしておそらくは今後も。

 以後、海軍飛行船部隊は英本土爆撃に全力を注ぐことになり、それに特化した装備を持つ戦略爆撃部隊へと変化を遂げていきますが、それはまた別の物語となるでしょう。

(以上)

公開:08/03/30


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