重構桁鉄道橋の最期
重構桁(じゅうかまえげた)とは、旧陸軍の工兵の一種である鉄道隊が、主として破壊された鉄道橋の応急修理に用いた分解可搬式のトラス桁である。結合する部材の数を増やすことによって最大32mまでの長さに対応でき、必要とする長さの桁を横に並べて、場合によっては二段にして橋桁を形成し、これを重構桁鉄道橋と称した。
なお、執筆者の祖父は戦争中鉄道隊に従軍し、実際にいくつかの重構桁鉄道橋の架橋に携わっている。
この重構桁が、北海道夕張市に戦後建設された森林鉄道に用いられ、その廃線後40年を経て3橋4連が現存する。日本における最初期の溶接鉄道橋の姿を今に伝える、橋梁技術史において貴重な近代土木遺産であると考えられる。
しかし、平成24年(2012)完成予定のシューパロダムによって、周囲の鉄道橋梁群と共に水没することが確定している。やがて湖底に消えるであろうその姿を、ここに記して留めたい。
重構桁の開発
大陸鉄道用として昭和5年(1930)に研究が開始された重構桁は、JKT(重・構桁(=トラス)・鉄道用)として試作され、改良が加えられて昭和10年に九三式重構桁鉄道橋として制式採用された。九三式が少なくとも50組整備された後、使用成績が良好であったことから九六式、九九式と改良されながら製造は続き、横河橋梁と桜田機械の2社が製作に加わっていたことが判明している。
重構桁は上構桁と下構桁からなり、共に主材は二等辺三角形状のトラス部材で、その大きさは長さ3m、高さ1.3m、幅0.5mであった。これを縦に9個、両端に端部を結合した全長32mのものを1組と称した。これら部材はピンのみによって接合され、容易に分解組立が可能であった。自動車による運搬、人力による架設を前提とするため、1つの部材の重量は500kg以内とされた。なお、少なくとも99式にはより短い端部トラスがあり、これを用いれば1.5m単位で長さの調節が可能であった。
重量軽減のため、当時一般的であったリベット接合の代わりに電気溶接が採用されたが、過去に経験が無いため数千個のテストピースを作成し、強度試験で溶接部から破断することがないことを確認の上、実物大の試験体を作成した。その破壊試験を行った結果、溶接部には異常なく湾曲するのみであったという。
昭和12年5月、鉄道第二連隊による試験の結果、下表の通り構桁を配列すれば、145t機関車に45t貨車を直結した広軌重列車の通過に耐えることが確認された。
張間
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5m
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8m
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11m
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14m
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17m
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20m
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23m
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26m
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32m
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構桁列数
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上構3
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上構4
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上構5
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上構6
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上構7
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5
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5
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6
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7
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構桁段数
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1
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1
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1
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1
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1
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2
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2
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2
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2
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また、列車重量に応じて用いられるべき重構桁の列数と段数を一覧にした表も別に存在し、列数が少ない場合に上下構桁を用いて二段にすると安定性が悪い点が指摘されている。このため、支間が短い場合や列車重量が軽い場合は上構桁のみを用いて架橋することが多かった。
なお、この試験において、支間が主材1個分の長さである3m単位に制限される点を改善する要望が出されたらしく、これを反映して1.5m単位で支間が変更できるように改良されたのが96式以降の重構桁ではないかと思われる。新たに制式とされるにあたって加えられた各種改良は付属品などに重点が置かれ、基本構造は共通であったため、現地では3種の年式が混用して使用されていたようだ。
戦場に架ける鉄路
重構桁は主に中国大陸に展開した鉄道隊で使用され、その最も大規模なものは、通称大陸打通作戦こと一号作戦の一環として、昭和18年(1943)12月に開始された京漢線の黄河橋梁復旧に用いられたものであろう。鉄道第六連隊のほぼ全力を投入した作業で、全長3,073mの長大橋は重構桁を用いて4ヶ月後に戦車橋として復旧し、6年間不通であった北京と漢口間の陸路連絡が可能になった。
南方戦線においても、「戦場にかける橋」のモデルとなったタイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道で、空襲で破壊された鉄道橋を復旧する際に重構桁が用いられた橋梁が存在する(メークロン(現クウェー・ヤイ)川鉄橋の仮復旧など)。これらはほんの一例であるが、当然ながらいずれも戦後60年を経てその痕跡は残っていない。
使い勝手の良かった重構桁は、鉄材の不足もあって戦後も昭和30年代まで国鉄において復旧用資材として盛んに使用された。PC桁の架設に重構桁を利用するためのマニュアルも存在するようだ。また、改造を加えられて歩道橋として用いられたこともあったという。
国鉄が流出橋梁の復旧に使用した例として、昭和32年('59)9月26日の伊勢湾台風によって被害を受けた国鉄越美南線(当時,現第三セクター長良川鉄道)長良川第五橋梁(岐阜県郡上市)の仮復旧に支間35m、7列2段の重構桁が用いられている。久大本線玖珠川橋梁においても同様の事例(支間32m,7列2段)が存在するが、いずれの仮設橋も現存しない。
日本最初の溶接鉄道橋梁としては、昭和9年(1934)完成の京浜急行本線の瑞穂橋梁が知られているが、この時すでに正式採用前のJKTが多数存在しており、重構桁鉄道橋は日本の溶接鉄道橋梁の嚆矢的な存在であると言えよう。
大夕張地区の森林鉄道
かつて石炭が黒いダイヤと呼ばれていた時代、夕張は石炭産業の街として栄えていた。一方で夕張はまた、夕張川上流一帯の豊富な森林資源を背景に、良質の木材を産出する林業の街でもあった。その繁栄は、最盛期に市内に営林署が二ヶ所設置されていたことでも伺える。
昭和9年(1929)主夕張森林鉄道の建設が開始され、同年中に7.9kmが完成、昭和12年には本線すべてが完成して総延長15.4kmとなった。昭和14年と、戦争を挟んで昭和29年にそれぞれ4.4km、4.0kmの支線が完成したが、昭和33年(1958)には路線の撤去が始まり、昭和36年に撤去が完了して廃止されている。
下夕張森林鉄道は昭和14年(1939)に着工され、昭和16年までに全線16.8kmがほぼ完成したものの、戦局の悪化により竣工したのは昭和20年であった。昭和28年から36年にかけて10.4kmが延長されたが、昭和39年には撤去が始まり、41年に廃止された。下夕張森林鉄道 夕張岳線は昭和17年(1943)着工、昭和19年11.6kmが完成したが、こちらも竣工は昭和21年になっている。昭和26年から2年間でさらに4.7km延長されたが、昭和39年には全線が廃止となった。
この急速な森林鉄道の廃止は全国的な規模で進行しており、その背景には自動車の普及と林道網の充実を背景にしたトラック運材への転換時期であったことに加え、特に北海道では昭和29年(1954)の15号台風(洞爺丸台風)による風倒木処理に、森林鉄道というシステムが十分に対応できなかったためであると言われている。
これは、一定範囲の樹木をすべて伐採する皆伐を、大規模に実施できるほどの森林資源が当時すでに枯渇しつつあり、限定的な地域からの大量輸送を特性とする森林鉄道から、より機動力に富み小回りの効く運搬方式への移行時期にあったからであると思われる。風倒木処理のように広範な地域から少量の運材を行うには、敷設費用や地形的条件において路線の延長が容易でない森林鉄道は、柔軟性に欠けるとみなされたのであろう。さらにはこの時期から外国材の輸入が本格化し、林業の採算性自体が悪化したことも一因であると考えられる。
大夕張ダム建設と水没補償工事
昭和27年(1952)、北海道開発局は大夕張地区へのダム建設工事に着手する。灌漑と発電を目的とする二股ダム(後の大夕張ダム)で、完成は8年後の昭和35年、総工費は60億円であった。ダムの位置は下夕張森林鉄道と同夕張岳線の分岐点付近で、共に一部水没する2線併せて総延長9,583mの水没補償工事が実施されることになった。
同夕張岳線は、当初ダム湖(シューパロ湖)上流部に迂回した上で架橋し、橋梁長を短くする方針であった。ところが、営林署側から迂回距離が長すぎるという意見が出て、湖を直角に横断するように計画が変更されたため、第一号橋梁が延長されることになった(橋梁長381.8m,三弦橋)。結果、総工事費用を抑えるために可能な限り既存架橋の移設転用が行われ、夕張岳新線の11橋梁のうち5橋梁が旧線からの転用となった。
この時、すでに下夕張森林鉄道にはいくつかの重構桁鉄道橋が供用されていた。下夕張森林鉄道旧線 第一号橋梁(支間20m2連)、同第四号橋梁(14m2連)、同夕張岳旧線 下夕張川橋梁(27.5m2連)、同第一号橋梁(20m2連)の4橋梁計8連がそれである。これらの製造年月や経歴は明らかではないが、昭和23年(1948)には桜田機械が札幌営林局に重構桁6連168トンを納入したとの記録が残っている。終戦後外地から持ち帰る余裕はなかったであろうから、陸軍が国内で保管していたものか製造元の在庫であると考えられる。
戦中から戦後にかけて、大夕張地区の森林鉄道では木製橋の落橋事故が連続して発生し、鉄橋への更新が進められていた。しかし、鉄不足の時代に鉄桁の新規製作は難しく、入手可能な既製品を捜し求めた結果が重構桁の採用に繋がったものと思われる。重構桁以外のいくつかの鉄桁も、銘板から国鉄からの払い下げ品であることが判明している。
水没位置にあった夕張岳旧線 下夕張川橋梁の27.5m2連が新線第六号橋梁に移設転用されたほか、同第一号橋梁の20m1連が新線第五号橋梁に、下夕張森林鉄道旧線 夕張川橋梁の20m1連が新線第六号橋梁に移設転用されたものと思われる。ここで余剰となった20m2連と14m2連の重構桁の行方は分からない。
こうして水没補償工事後改めて3橋4連の重構桁が森林鉄道に供用されたものの、ダム完成後わずか4〜6年で森林鉄道廃止の日を迎えることになる。下夕張森林鉄道 第六号橋梁は廃止時に解体撤去され、重構桁の行方も分からないが、残りの2橋3連は残置されて今に現存する。
なお、主夕張森林鉄道沿線の小巻沢林道の橋梁に、架橋時期は不明ながら20m1連の重構桁が用いられており、水没補償工事時に余剰となったうちの20m1連が転用された可能性が高い。
再びのシューパロダム建設
現在、大夕張地区に再びダムの建設計画が進行中である。既設の大夕張ダム下流155m地点に、新たに堤高107mのシューパロダムを建設するもので、完成により堤高67.5mの大夕張ダムは水没し、シューパロ湖は475haから1,510haに拡大、人造湖としては朱鞠内湖に次ぐ日本第2位となる計画である。
シューパロダムの完成予定は当初平成16年(2004)であったが、補償問題から大幅に遅延し平成24年(2012)となっている。40m近い水位の上昇によって水没する大夕張地区の鉄道橋梁群に対する保存運動は、一部でその必要性が唱えられているものの、夕張市が財政再建団体に指定されたこともあって、現在のところ実施される見込みはない。
下夕張森林鉄道 夕張岳線
第五号橋梁 (地点A)
第六号橋梁のやや南に位置し、4連の橋桁のうち中央1連が支間20m、3列1段の重構桁である。第六号橋梁と共に、昭和33年(1958)に大夕張ダム建設による水没補償工事として架橋された。旧線第一号橋梁から転用されたと考えられる。
第六号橋梁 (地点A)
大夕張地区に現存する重構桁鉄道橋のうち最長の橋梁。5連の橋桁のうち中央2連が支間27.5m、3列2段の重構桁である。なお、上下構桁を使用しているのはこの橋梁のみである。旧線下夕張川橋梁から転用されたと考えられる。
第五号橋梁と共に、接近するには湖面を船で渡るか対岸の林道(シューパロダム建設工事のため閉鎖中)からかなりの距離を下る必要があり、到達は容易でない。
空知森林管理所 小巻沢林道
小巻沢林道橋 (地点B)
大夕張地区に現存する重構桁鉄道橋のうち、最上流にあって最も接近が容易な橋梁。3連の橋桁のうち中央1連が支間20m、3列1段の重構桁である。この橋梁がいつ架橋されたかは明らかではないが、下夕張森林鉄道旧線 第一号橋梁または同夕張岳線旧線 第一号橋梁からの転用である可能性が高い。
主夕張森林鉄道の途中から分岐する形で伸びる林道に架設されている。なお、この橋梁は架設当初より鉄道橋ではなく林道用(自動車道)として使用されており、上面には路盤代わりに10kgレールが敷き詰められている。シューパロダム完成時、水没を免れる可能性のある唯一の重構桁鉄道橋である。
左岸上流、岸からの視点。若干の上反角が見て取れるが、図面を見ると上構桁の部分桁の接合間長が下構桁より8mm長く、元来このような設計がなされていることが読み取れる。
左岸下流、川底より。3列の重構桁が橋桁を形成している様子がよく分かる。構桁同士はボルトで横に連結される。
重構桁左岸端部。この直角台形の部材の正式名称は上端末桁甲で、99式重構桁の場合、重量340kg、上辺のピン間長は2.5mである。下辺にピン接合されているのは継材甲で、ピン間長3m、重量は158kgである。
なお、上端末桁乙はピン間長1mで、これを用いれば1.5m単位で支間を設定することができた。但し、これを使用すると継材甲が使用できず、この部分のみ継材乙が必要となる。上端末桁乙と継材乙(及び下端末桁乙)は、第六橋梁の2連で使用されている。
連結部の拡大。部材はすべて直径約50mmのピンによって接合される。脱落防止用と思われる鎖は、架橋後よりもむしろ分解運搬中の紛失を避けるためではないかと思われる。構桁を横に連結しているボルトが見える。
上の逆二等辺三角形が主材となる上部分桁で、ピン間長3m、重量390kg、その下の頂点から左右に延びるのが継材甲である。上構桁のみを用いて架橋する場合、支間が3m単位であれば上部分桁、継材甲、上部端末桁甲の3種類の部材で架橋可能なのが重構桁の特長であり、この小巻沢林道橋がその一例である。下構桁も用いた場合でも、以上に加えて下部分桁と下部末端桁甲の2つの部材が必要となるのみであった。
例として小巻沢林道橋を架設する場合、支間20mの桁は上構桁で上部端末桁甲2、上部分桁5、継材甲6が必要であり、2段として下構桁も用いると、下部端末桁甲2、下部分桁5、継材甲6が加わる。この時の重量は上構桁3,578kg、下構桁3,200kgであった。
支間18.5mとすると、上構桁で上部端末桁甲1/乙1、上部分桁5、継材甲5/乙1、下構桁で下部端末桁甲1/乙1、下部分桁5、継材甲5/乙1となる。
附1)下夕張森林鉄道 夕張岳線
第一号橋梁(三弦橋) (地点C)
重構桁鉄道橋とは直接関連がないが、付近に存在する貴重な土木遺産の一つに、この下夕張森林鉄道 夕張岳線第一号橋梁がある。総延長381.8mの下路ワーレントラス橋で、写真右より支間39m1連、77m1連、52m5連の計7連からなる。大夕張ダムの水没補償工事として昭和33年(1958)に架橋された、幅6m、高さ8mのリベット接合による単線トラスである。最も高い橋脚は42.5m、ダム貯水前における川面からの橋梁高は68mであった。
下弦材2本に対し上弦材を1本しか持たず、四角錐を連結したような独特の構造から三弦橋とも呼ばれ、日本における鉄道橋としては初めてのものであった。なお、ドイツのケルン(Koln)−アーヘン(Aachen)間のデューレン(Duren)を流れるデュー(Dur)川に同様の構造を持つ鉄道橋(支間78m,複線)が存在し、第二次世界大戦において連合軍の爆撃により破壊された後復旧されて現存するようだ。
三弦構造採用の理由としては、鋼材の節約による建設費の低減、高所架橋時の安定性の優位、周囲の景観への適応が挙げられている。
ダム完成から僅か6年間しか供用されなかった三弦橋であるが、森林鉄道廃止後に林道への転用が断念されたのは、この三弦構造故に建築限界が小さかったためである。上流にある重構桁鉄道橋群と同じく、シューパロダム建設により水没する。
附2)三菱石炭鉱業 大夕張鉄道
旭沢橋梁 (地点D)
同じく重構桁鉄道橋とは直接関連がないが、付近に存在する貴重な土木遺産の一つ。大夕張鉄道は、国鉄石勝線清水沢駅と大夕張炭山間17.2km を結んでいた鉄道で、主に大夕張地区の炭鉱で産出する石炭輸送や、森林鉄道によって搬出された木材輸送、及び沿線の旅客輸送を行っており、昭和62年(1987)に廃止された。
五号の沢(後に旭沢と命名)に架けられたこの橋梁は、6連のうち4連がプレートガーターをトラスで補強した上路プラットトラスで非常に珍しい。大夕張鉄道に存在した8橋のうち主な6橋がすべてこの形式であったが、いずれの橋梁も同一の48フィート(14.6m)の上路プラットトラスと19.6フィート(6.0m)のプレートガーターの組み合わせで構成されていた。これらは共に昭和3年(1928)の大夕張鉄道建設時に架橋されたが、現存する旭沢橋梁以外は解体撤去され、やはり鉄道橋として現存する唯一のものである。この橋梁もシューパロダム建設により水没する。
写真右は'04 8月撮影、左は'06 8月撮影で、錆の進行が見て取れる。
※いずれの橋梁もWebサイト「歴史的鋼橋集覧」内
http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/01.htmに詳細がある。
国土地理院発行 1:25,000地形図「栄町(平成9年)」「シューパロ湖(平成11年)」より作成
以下に大夕張地区にかつて存在した各路線の概略を記す。
主夕張森林鉄道は鹿島地区を起点として、ほぼ夕張川に沿って遡る形で建設された。現在橋梁はほぼすべてが解体撤去もしくは倒壊・流出しており、廃線跡にはわずかに路盤や橋脚・橋台が残るのみである。
下夕張森林鉄道は南部地区を起点として、大夕張ダムからシューパロ湖に沿うように南へ進み、パンケモユーパロ川に沿って上流へ延びていた。また、その途中に分岐を設けて盤の沢線という支線が建設された。こちらも森林鉄道の痕跡を残すのは橋脚程度である。下夕張森林鉄道 夕張岳線は大夕張ダム脇のトンネル手前で分岐し、シューパロ湖を三弦橋で渡って湖岸沿いに進んだ後、ペンケモユーパロ川を遡って夕張岳の麓へ延びるように建設されていた。この廃線跡は最も痕跡が明らかで、国道から三弦橋を含めて第六橋梁までの6橋梁すべてが確認できる。さらに上流のペンケモユーパロ川沿いにも7橋梁が存在したが、その大部分が残存しているようだ。また、かつての路線の一部が地図上にも廃線として図示されている。
これら2つの森林鉄道は相互に連絡していないが、起点は共に大夕張鉄道の駅に隣接しており、木材の搬出は大夕張鉄道に依存していたようだ。
大夕張鉄道はほぼ国道452号に沿った山側にあり、国道からも築堤やトンネル、橋脚の基礎などが確認できる。終点大夕張炭山は鹿島地区にあった。
なお、現在、ダム建設によって水没する鹿島地区の建築物はほぼすべて取り壊され、街としての痕跡はまったく残っていない。
参考)
「シューパロ」とは「夕張川本流」の意味で、アイヌ語の「本当の」という意味を持つ「シ」と「鉱泉の湧き出るところ」という「ユーパロ」からなる言葉であり、後者は夕張の語源にもなっている。主夕張森林鉄道の名称も、あるいはここが由来かもしれない。
また、「ペンケ」は上、「パンケ」は下の意味で、「小さい、支流」を表わす「モ」と合わせて、「ペンケモユーパロ」は「より上流の夕張川支流」となる。
(以上)
公開:06/7/26
改訂:06/8/29
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