※注:このページに記されている内容は史実と異なります
Note: It is different from the historical facts described in this page.
陸軍特殊船 第二極洋丸
主兵装
搭載量
歩兵1個大隊相当(約1,000人)とその支援部隊及び補給物資の搭載が可能。
発端
おそらくはこの時この場所で、一つの考えが誕生した。誰もが考えつくようなものではあるが、それが誰の発案であったのか、どのような経緯を辿って実現への道を歩んだのか、今となっては確かめる術はない。
計画を巡る情勢
捕鯨母船とは、捕鯨船(キャッチャーボート)が捕獲した鯨から鯨油を採取、貯蔵する設備を持った船舶である。船尾にはスリップウェイと呼ばれる開口部と傾斜路を持ち、ここからウィンチで上甲板へ鯨を引き上げ、解体を行う。上甲板の下にはクワナボイラー、ハートマンボイラー等の鯨油採取機器が並んだ船内工場があり、ここで精製された鯨油をさらにその下の鯨油槽に貯蔵するという設備を持っている。 船舶としては油槽船に非常に近い構造であり、南氷洋の往復に堪える堅牢な船体と航続力、鯨を解体するための広大な上甲板、船団所属の捕鯨船に供給する補給物資を貯蔵する貨物倉と、200名を超える鯨を解体する作業員の居住設備を持っていることなどが特長であった。
灰:鯨油槽 黄:鯨油処理工場 緑:貨物倉 橙:居住区 赤:機関室・缶室/燃料油槽 青:バラスト/清水槽
中でも、油槽船としての捕鯨母船に注目していたのが海軍である。鯨油槽にはそのまま原油又は石油製品を積み込むことが可能であり、つまり捕鯨母船は載貨重量2万トンの油槽船でもある訳である。事実これらの捕鯨母船は、夏の漁間期には北米からの重油積取の航海に従事していた。
経緯
閑話休題、この月に日新丸が竣工、1隻(第二日新丸)の建造が決まった大洋も、1隻だけであるがさらに追加建造を予定して3船団の体制に入ろうとしている。新たに会社を設立して母船3隻を建造し、南氷洋捕鯨に加わろうという動きもある(遠洋捕鯨、のち設立断念)。この流れの中で、現捕鯨3社のうち最後発となって遅れを取り、さらに後発にも追われる立場にあって、かろうじて日新丸のコピー1隻(極洋丸)の建造を決めた極洋が、ひとり焦りを募らせていた。
これまで捕鯨母船建造を支援してきた海軍であるが、その真意はさらに深いところにあった。海軍が望んだ捕鯨母船は、有事において単なる大型油槽船としてではなく、艦隊に随伴できる速力を有した高速油槽船であった。
それを示すのが、この頃設立準備中であった遠洋捕鯨に対する海軍のいくつかの働きかけである。海軍案の捕鯨母船として示された数字に、全長215m、幅28m、鯨油搭載量14,000t、機関はタービン25,000馬力2基とディーゼル10,000馬力1基併用で26kt(日新丸は163.1m/22.6m/20,000t/ディーゼル6,000馬力14kt)というものがある。また、造船資材として空母加賀の主機2台、戦艦長門の送風機6台など、海軍の廃棄機関で利用見込みのものを斡旋する、という話も提示されていた。
こうした手詰まり感の蔓延する昭和13年の半ば頃、極洋に陸軍からの打診があった。上陸支援用の船舶として、捕鯨母船を建造しないかというものである。もちろん、建造に際しての陸軍からの協力は約束されていた。
『捕鯨母船のスリップウェイから大発を発進させることは出来ないだろうか』
計画自体は神州丸で使用した泛水設備を、そのまま捕鯨母船に搭載するというものである。陸軍側としては過去に実績がある方法であり、試算でも十分に実現可能な計画であった。実現の暁には、神州丸を上回る大きな輸送力を手に入れることが出来る。極洋側としても、海軍案のように不経済な高速力を求められることもなく、甲板の支持構造とデリックの強化程度の小改良で対応でき、新たな母船も手に入る。最初渋った海軍も、改装後も油槽船としての機能は残すという確約を受け、労せずして大型油槽船が1隻増える案にもはや異論はない。
こうして昭和15年初秋、本邦7隻目の捕鯨母船が誕生したのである。
主要目(新造時)
改装要領
船内工場は鯨油採取機器類をすべて撤去して、全通の大発格納庫とする(最大25隻)。床面は補強して上甲板と同じくコロ軌条を設置、大発はトロリーで左右両舷の舷側開口部まで移動して、中央楼に設置されたガントリークレーンで舷側に振り出された後、海面まで降下される。 露天甲板に搭載した大発は、主に人員と馬匹を載せて発進する。船内格納庫にはあらかじめ砲・車両等重量物を積載した25隻を搭載する。一部大発は揚陸後、船と上陸地点間の貨物運搬に従事する。 人員輸送用としては作業員用のスペースを充当し、船内工場の前部も一部居住区とする。不足分は上甲板前端にデッキハウスを新設し、軍馬用の畜舎もここに設ける。
武装は船首尾の砲座にそれぞれ38式7.5cm野砲改1門と88式7cm高射砲2門を配し、船橋上と中央楼、船尾楼の端艇甲板上にそれぞれ20mm高射機関砲を2門、4門、6門ずつ配置する。 鯨油槽はバラストタンクとして航行時/舟艇発進時に喫水の調整が可能なよう配管する。 上陸作戦従事時以外は、運送船として原油の内地送還及び物資の輸送に従事する。
陸軍は揚陸能力増強の為、2隻程の追加建造を希望していたが、世界情勢はすでに捕鯨船団が南氷洋で操業できる見通しが立たない時代となり、さらなる資材の逼迫と建造費の高騰もあって、各社が予定していた新たな捕鯨母船の建造は、材料手配が済んでいたものを含めて中止された。 開戦劈頭にフィリピン、後インドネシアへの上陸作戦を行った後は、本来の用途に使用されることなく原油の本土還送と前線への物資の輸送に従事し、昭和20(1945)年1月南下の途上、避港先の高雄港外で艦載機の空襲により直撃弾5発以上を受け炎上、擱座沈没。 戦後の昭和26(1951)年4月、浮揚の後日本に回航・修理され、昭和48(1973)年に解体されるまで北洋・南氷洋捕鯨に従事し、日本の復興と経済成長を影で支えた。
後記
ええ、捕鯨(母)船大好きです(笑 今回の建造計画のコードネームは「第七の母船」な方向で。 実は『捕鯨母船を日本陸軍の上陸作戦用船に』という案は以前から抱えておりまして、それをそのまま表現してみました。泛水方法は史実の陸軍特殊船と同じです。。。反転台(シーソー)ないし、ちょっとスロープ長いけど。 ちなみに、捕鯨母船以上に鉄道連絡船スキーな人間なので、『青函連絡船から貨車に載せた大発ポイッ』案もあったのですが、大発の全幅が国鉄の車両限界どころか建築限界越えてましたので諦めました(笑 この案の場合、大発を台車に載せてロープで連結しておき、低速航行しつつ最後尾から小さな落下傘を海に投げ込むと、傘の抵抗で自動的に引き出されて連続泛水というものでした。10分くらいで全部引き出せるんじゃないかなぁ。トリムバランス考えなければ(笑 ちなみにこれ、危険物を積載した貨車が火災になった時の投棄方法です。実際に発案・試験されたのは戦後随分経ってからで、想定される投棄貨車は最大でも2〜3両程度の筈ですが。ああ、なんて魅力的な案なんだろう、と未だもって未練たらたらです(笑 最後に、これらの案を考えていた間、非常に楽しかったということを付記させていただきます。 2006.1.21 |