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陸軍特殊船 第二極洋丸


改装完成時

主兵装
 38式7.5cm野砲改:2基
 88式7cm単装高射砲:4基
 96式20mm単装高射機関砲:12基
 爆雷投下台:2基/爆雷10発

搭載量
 大型発動機艇63隻(内訳:船内25,甲板上38/最大)
 小型発動機艇4隻(船尾楼上)

 歩兵1個大隊相当(約1,000人)とその支援部隊及び補給物資の搭載が可能。


発端
 昭和12(1937)年10月末。この月初めに竣工成って、一路南氷洋に向け南下の途上にあった大洋捕鯨の捕鯨母船第二日新丸(17,553総トン)は、台湾沖から急遽引き返しを命じられた。軍命令である。
 そして11月5日、第四艦隊に護衛されて杭州湾上陸作戦に従事する大船団の中に、その一際巨大な船体を誇示する第二日新丸の姿があった。1,500平方メートルに及ぶ広大な上甲板を、上陸用舟艇の輸送に使おうと目をつけた陸軍の指示であった。

 おそらくはこの時この場所で、一つの考えが誕生した。誰もが考えつくようなものではあるが、それが誰の発案であったのか、どのような経緯を辿って実現への道を歩んだのか、今となっては確かめる術はない。

計画を巡る情勢
 昭和9('34)年、日本捕鯨がノルウェーから中古捕鯨母船アンタークチックを購入し、回航の帰途南氷洋で試験的に操業したのが、日本の南氷洋捕鯨の嚆矢である。以後、日本捕鯨(後の日本水産、以後日水)の第二/第三図南丸、林兼商店(後の大洋漁業、以後大洋)の第一/第二日新丸、スマトラ拓殖(後の極洋捕鯨、以後極洋)の極洋丸と、設計図こそ輸入であるものの国産の捕鯨母船が続々と誕生し、毎年秋になると船団を組んで一斉に南氷洋へと出漁していった。

 捕鯨母船とは、捕鯨船(キャッチャーボート)が捕獲した鯨から鯨油を採取、貯蔵する設備を持った船舶である。船尾にはスリップウェイと呼ばれる開口部と傾斜路を持ち、ここからウィンチで上甲板へ鯨を引き上げ、解体を行う。上甲板の下にはクワナボイラー、ハートマンボイラー等の鯨油採取機器が並んだ船内工場があり、ここで精製された鯨油をさらにその下の鯨油槽に貯蔵するという設備を持っている。

 船舶としては油槽船に非常に近い構造であり、南氷洋の往復に堪える堅牢な船体と航続力、鯨を解体するための広大な上甲板、船団所属の捕鯨船に供給する補給物資を貯蔵する貨物倉と、200名を超える鯨を解体する作業員の居住設備を持っていることなどが特長であった。

船内配置図
灰:鯨油槽 黄:鯨油処理工場 緑:貨物倉 橙:居住区 赤:機関室・缶室/燃料油槽 青:バラスト/清水槽

 中でも、油槽船としての捕鯨母船に注目していたのが海軍である。鯨油槽にはそのまま原油又は石油製品を積み込むことが可能であり、つまり捕鯨母船は載貨重量2万トンの油槽船でもある訳である。事実これらの捕鯨母船は、夏の漁間期には北米からの重油積取の航海に従事していた。
 なお、国内で建造された捕鯨母船は、すべて優秀船舶建造助成法の適用を受けていた。

経緯
 時はやや遡って昭和11('36)年9月。日水は新たに捕鯨母船5隻、捕鯨船40隻の建造計画をブチ上げた。この船隊が成った暁には、合計母船8隻、捕鯨船62隻というおそるべき陣容である。もっとも、この時点で手持ち母船は輸入中古船の図南丸1隻だけで、1隻(第二図南丸)が建造中、1隻(第三図南丸)が計画中であった。
 なお、この年ノルウェーは13隻、イギリスは8隻の母船を南氷洋に送っており、日水の計画もあながち荒唐無稽という訳ではない。国際捕鯨協定加入を控えて既得権益の確立という向きもあったのであろうが、南氷洋の鯨資源上無理な計画であろうと予測できるようになるには、これらのデータ収集が進む戦後まで待たなければならない。

 閑話休題、この月に日新丸が竣工、1隻(第二日新丸)の建造が決まった大洋も、1隻だけであるがさらに追加建造を予定して3船団の体制に入ろうとしている。新たに会社を設立して母船3隻を建造し、南氷洋捕鯨に加わろうという動きもある(遠洋捕鯨、のち設立断念)。この流れの中で、現捕鯨3社のうち最後発となって遅れを取り、さらに後発にも追われる立場にあって、かろうじて日新丸のコピー1隻(極洋丸)の建造を決めた極洋が、ひとり焦りを募らせていた。
 極洋丸の認可に際して、農林省は捕鯨に対する国際規制の声の高まりから建造認可を渋ったものの、土佐出身の山地土佐太郎社長は同郷である海軍大将永井修身の支持を取り付け、融資先の日本興業銀行には、海軍が保証するとの海軍次官山本五十六の一筆を入れて融資を受けている。この政治力を生かし、山地の新事業にかける情熱にも裏打ちされて、極洋はさらなる母船の建造に動いた。

 これまで捕鯨母船建造を支援してきた海軍であるが、その真意はさらに深いところにあった。海軍が望んだ捕鯨母船は、有事において単なる大型油槽船としてではなく、艦隊に随伴できる速力を有した高速油槽船であった。

 それを示すのが、この頃設立準備中であった遠洋捕鯨に対する海軍のいくつかの働きかけである。海軍案の捕鯨母船として示された数字に、全長215m、幅28m、鯨油搭載量14,000t、機関はタービン25,000馬力2基とディーゼル10,000馬力1基併用で26kt(日新丸は163.1m/22.6m/20,000t/ディーゼル6,000馬力14kt)というものがある。また、造船資材として空母加賀の主機2台、戦艦長門の送風機6台など、海軍の廃棄機関で利用見込みのものを斡旋する、という話も提示されていた。
 しかし、支那事変以後の情勢の見通しが不透明であることから出資者の動揺を招き、また母船建造費の暴騰(800万円/'37→3,500万円/'39)もあって、遠洋捕鯨を含め各社とも計画は遅々として進まなかった。

-***-

 こうした手詰まり感の蔓延する昭和13年の半ば頃、極洋に陸軍からの打診があった。上陸支援用の船舶として、捕鯨母船を建造しないかというものである。もちろん、建造に際しての陸軍からの協力は約束されていた。
 杭州湾上陸作戦において捕鯨母船の輸送力を目の当たりにし、また同時に作戦に参加していた昭和9年建造の陸軍特殊船、神州丸の有用性も確認された。翌年のバイアス湾上陸作戦、海南島攻略作戦など、この船型が上陸作戦に役立つものであるという認識も十分浸透していたに違いない。
 そして、杭州湾で生まれた提案が、どこをどう巡ってきたのかここで陸軍から示された。

 『捕鯨母船のスリップウェイから大発を発進させることは出来ないだろうか』

 計画自体は神州丸で使用した泛水設備を、そのまま捕鯨母船に搭載するというものである。陸軍側としては過去に実績がある方法であり、試算でも十分に実現可能な計画であった。実現の暁には、神州丸を上回る大きな輸送力を手に入れることが出来る。極洋側としても、海軍案のように不経済な高速力を求められることもなく、甲板の支持構造とデリックの強化程度の小改良で対応でき、新たな母船も手に入る。最初渋った海軍も、改装後も油槽船としての機能は残すという確約を受け、労せずして大型油槽船が1隻増える案にもはや異論はない。
 話はトントン拍子に進み、翌昭和14年4月に正式に発注が行われ、資材・資金調達を含む陰日向からの陸軍の支援によって、同年秋、神戸川崎造船所に新たなキールが据え付けられる運びとなった。

 こうして昭和15年初秋、本邦7隻目の捕鯨母船が誕生したのである。

第二極洋丸(新造時)

主要目(新造時)
 総トン数:17,550t
 載貨重量トン数:21,500t
 全長:163.1m
 全幅:22.6m
 深さ:14.9m
 主機:川崎MANディーゼル1基/1軸,7,600HP
 速力:15kt
 神戸川崎造船所 昭和15(1940)年9月竣工


改装要領
 上甲板前半部に走行式のトロリークレーンを設置し、ここに搭載された大発(最大20隻,2段積)は舷側に振り出されて海面まで降下される。上甲板後半部は中央にコロ軌条を設置し、ここに搭載された大発(最大18隻,中央1列以外は2段積)はコロ上をスリップウェイ前までウィンチ駆動のトロリーで牽引され、同じくコロの設置されたスリップウェイを自重で下る。中央列以外の大発はデリックで中央列まで移動され、順次発進する。

 船内工場は鯨油採取機器類をすべて撤去して、全通の大発格納庫とする(最大25隻)。床面は補強して上甲板と同じくコロ軌条を設置、大発はトロリーで左右両舷の舷側開口部まで移動して、中央楼に設置されたガントリークレーンで舷側に振り出された後、海面まで降下される。

 露天甲板に搭載した大発は、主に人員と馬匹を載せて発進する。船内格納庫にはあらかじめ砲・車両等重量物を積載した25隻を搭載する。一部大発は揚陸後、船と上陸地点間の貨物運搬に従事する。

 人員輸送用としては作業員用のスペースを充当し、船内工場の前部も一部居住区とする。不足分は上甲板前端にデッキハウスを新設し、軍馬用の畜舎もここに設ける。

船内配置図(改装後)

 武装は船首尾の砲座にそれぞれ38式7.5cm野砲改1門と88式7cm高射砲2門を配し、船橋上と中央楼、船尾楼の端艇甲板上にそれぞれ20mm高射機関砲を2門、4門、6門ずつ配置する。

 鯨油槽はバラストタンクとして航行時/舟艇発進時に喫水の調整が可能なよう配管する。

 上陸作戦従事時以外は、運送船として原油の内地送還及び物資の輸送に従事する。


戦歴
 第二極洋丸初の出漁にして戦前最後の南氷洋捕鯨となった1940/41年漁期が終わり、昭和16(1941)年春、桜咲く頃の日本へ帰った第二極洋丸を待っていたのは、予定されていた上陸作戦用の特殊船への改装だった。4ヶ月の工事を終えて造船所を出ると、来るべき開戦に向けて、実際に舟艇を発進させる訓練が始まった。
 訓練結果は陸軍を満足させるものであり、いくつかの小さな不具合を修正するに止まったという。

 陸軍は揚陸能力増強の為、2隻程の追加建造を希望していたが、世界情勢はすでに捕鯨船団が南氷洋で操業できる見通しが立たない時代となり、さらなる資材の逼迫と建造費の高騰もあって、各社が予定していた新たな捕鯨母船の建造は、材料手配が済んでいたものを含めて中止された。
 他の6隻の捕鯨母船に対する同等の改装も検討されたが、日本を取り巻く状況はすでにそれを許さず、急速揚陸能力を持った母船は第二極洋丸1隻のみに終わった。以後、さらなる揚陸能力を求める陸軍は、神州丸を改良した特殊船を建造する道を歩むことになる。

 開戦劈頭にフィリピン、後インドネシアへの上陸作戦を行った後は、本来の用途に使用されることなく原油の本土還送と前線への物資の輸送に従事し、昭和20(1945)年1月南下の途上、避港先の高雄港外で艦載機の空襲により直撃弾5発以上を受け炎上、擱座沈没。

 戦後の昭和26(1951)年4月、浮揚の後日本に回航・修理され、昭和48(1973)年に解体されるまで北洋・南氷洋捕鯨に従事し、日本の復興と経済成長を影で支えた。


後記
 天翔と申します。こちらに投稿させて頂くのは、第20回競作艦船の部のヘルゴラント改装案に続き2回目となります。

 ええ、捕鯨(母)船大好きです(笑 今回の建造計画のコードネームは「第七の母船」な方向で。

 実は『捕鯨母船を日本陸軍の上陸作戦用船に』という案は以前から抱えておりまして、それをそのまま表現してみました。泛水方法は史実の陸軍特殊船と同じです。。。反転台(シーソー)ないし、ちょっとスロープ長いけど。

 ちなみに、捕鯨母船以上に鉄道連絡船スキーな人間なので、『青函連絡船から貨車に載せた大発ポイッ』案もあったのですが、大発の全幅が国鉄の車両限界どころか建築限界越えてましたので諦めました(笑 この案の場合、大発を台車に載せてロープで連結しておき、低速航行しつつ最後尾から小さな落下傘を海に投げ込むと、傘の抵抗で自動的に引き出されて連続泛水というものでした。10分くらいで全部引き出せるんじゃないかなぁ。トリムバランス考えなければ(笑

 ちなみにこれ、危険物を積載した貨車が火災になった時の投棄方法です。実際に発案・試験されたのは戦後随分経ってからで、想定される投棄貨車は最大でも2〜3両程度の筈ですが。ああ、なんて魅力的な案なんだろう、と未だもって未練たらたらです(笑

 最後に、これらの案を考えていた間、非常に楽しかったということを付記させていただきます。

2006.1.21