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 第二章  自然との闘い


三 苦闘する連絡船

1.北の海に挑む
 稚泊航路90海里間は、国鉄の鉄道連絡航路において、最も気象条件の厳しいところであった。夏は比較的天候は穏やかであるが、東樺太と対馬の寒暖両流がぶつかり合う海峡の霧は濃厚で、強風下でも次々と発生するため晴れることがない。特に6月から8月にかけては、日数にして3分の2が濃霧におおわれる。冬はシベリア地方で発生する低気圧のため時化が多く、10月から3月にかけては25m/sを超える北西の季節風が吹き荒れる。12月から2月にかけての3ヶ月間の暴風日数は、西部で30日以上、北東部で20日以上にも及ぶ。降雪は平均初雪10月22日、平均終雪5月17日で、その間208日は一年の57%にあたる。一年を通じて不良視界から開放される月はない。

 一方、宗谷海峡の海流は、夏は暖流の対馬海流が優越するため、ほとんど東流で流速も大きく、樺太南端の西能登呂(にしのとろ)岬南東約8海里(約15km)、稚泊航路最大の難所である二丈岩の岩礁に圧流される危険を常にはらんでいる。冬は寒流の東樺太海流が流れ込むため西流が優勢で、オホーツク海や亜庭湾内の海氷が日本海へ向けて押し流され、流氷となって海峡を埋め尽くす。

 そして、毎年年が明けて1月の初旬を迎える頃、亜庭湾の結氷が始まる。亜庭湾最奥部の千歳湾では水深が浅く、鈴谷川の河口が位置しているため塩分濃度が低いこともあって、この付近から薄いクリーム状の軟氷となって凍結し始める。結氷の時期は通常1月上旬から中旬頃までだが、年によっては12月中や2月間近いこともある。寒気が加わるに従って結氷は亜庭湾全域に及び、氷質も硬くなって厚さ50cmに達するような堅氷ができる。
 これが風によって流され、波に砕かれて重なり合い不規則な形に固まった累氷は、砕氷船がまともにぶつかってもびくともしない厚さになる。海氷が流された後には次々と新しい氷が張り詰め、2月の極寒期は湾内一面の大氷盤に成長する。氷盤は風に流されて常に動いており、時には連絡船が氷原に閉じ込められることもあった。

 また、オホーツク海東海岸に発生した氷原は、偏北風によって南下し、流氷となって亜庭湾や宗谷海峡に漂流してくる。その厚さは1〜3mのものが多く、時には宗谷海峡を埋め尽くし、普段は暖流が流れているため結氷しない日本海まで入り込んで、西は西能登呂岬を回って樺太西岸の宗仁岬まで、南は北海道西岸から利尻・礼文島付近まで達した。流氷は1月下旬から3月中旬にかけて多いが、1月中旬から流れてくることもあり、遅いものは4月、時には6月になって濃霧の中から現れることもあった。
 その年の寒暖によって結氷の早遅や量に変化はあるものの、全航路を通じて氷を見ないようになるのは3月の末であった。

 砕氷船に改造されたとはいえ、すでに船齢18年を超えて老朽船の部類に入る壱岐丸型連絡船は、冬を迎えるとしばしば氷原の中で難航を強いられていた。砕氷能力の不足から、堅氷盤に遭遇した場合にはアイスアンカーを氷盤に打ち込み、ウィンドラスで巻き上げて推進力に加えたり、船体に固着した氷を熱湯で融解させるというような方法も用いられた。

2.対馬丸の遭難
 航路開設から1年と2ヶ月余りが経過した大正13年(1924)、壱岐丸も対馬丸にならって神戸製鋼所播磨造船工場で砕氷船への改造工事が行なわれた。7月25日付で正式に稚泊航路所属となり、28日から実際に就航している。
 本来なら、これで壱岐丸型2隻による毎日運航が可能になるわけだが、その一週間ほど前の7月18日、対馬丸は稚内港シユルコマナイにおいて座礁事故を起こしていた。当時の天候は不明だが、おそらく濃霧のためであろう。この事故で対馬丸は推進器を折損、修理のため函館に回航されて、翌8月12日まで1ヵ月近くの間運航を休止する羽目になる。しかし、彼女の不幸はこれだけにとどまらなかった。

 翌大正14年(1925)12月17日9時50分、対馬丸は旅客188人、郵便物24個、貨物47.4t、手小荷物294個を搭載して大泊を出港、稚内に向かった。本来は前日の16日に大泊発第2便として出港する予定であったが、悪天候のため1日見合わせていたのである。しかし、天候はまだ回復せず、西能登呂岬を通過して宗谷海峡にさしかかるころには猛吹雪のため視界不良におちいった。

 当時、稚内へ入港する際に航路標識として用いられていたのは、野寒(野寒布,ノサップ)、宗谷の各灯台であったが、濃霧、吹雪などの視界不良下では役に立たなかった。このため、連絡船は磁気コンパスや手用測鉛、あるいはケルビン式測深儀*1などの貧弱な航海計器を用いて、手探りで入港していたのである。

 対馬丸は測深を繰り返し、海流による東への圧流を考慮しながら進んだが、同17日17時15分、野寒岬灯台北西0.7海里(1.3km)の地点(東経141度38分、北緯45度27分)で座礁し航行不能になった。結果からみて、逆に西へ流されていたことになる。
 遭難と同時に発信された鉄道無線の緊急通信と非常汽笛によって、稚内桟橋から救助船が駆けつけてきた。吹雪と激浪をついて、21時55分までにようやく旅客、郵便物の全部と旅客手回品及び小荷物の一部を陸揚げしたが、浸水が次第に増加し危険な状態となったため、22時10分に乗組員全員が一時退船した。

 遭難後、直ちに対馬丸の救助が帝国サルベージ会社函館出張所に依頼され、翌18日、サルベージ船が船固めのため現地に向かった。しかし、天候不良で救助作業に取りかかることが出来ず、現状調査をしただけで一時作業を中止した。その後、荒天で対馬丸の船体中央部が前後に両断、大破したため引き上げを断念し、船体は放棄された。

 こうして対馬丸の遭難は、国鉄連絡船史上初の連絡船全損事故となった。稚泊航路に転属しておきながら壱岐丸に第一船の栄誉をさらわれ、再びの座礁事故を起こして沈没してしまった不運な対馬丸であるが、乗客乗員に一人も死者が出なかったのは幸運だったといえる。なお、この事故は鉄道無線が人命救助に用いられた最初の例であった。

3.最新技術の導入
 この事故に対する国鉄の対応は目を見張るほど素早かった。事故からおよそ半年後の大正15年(1926)5月、姉妹船壱岐丸の検査工事の際にフェッセンデン式音響測深儀(米国製)と回転翼式船底測程儀を装備、7月にはマルコーニ製無線電話を、さらに12月にはコルスター式無線方位測程儀(米国製)を取り付けた。音響測深儀は商品名をファゾメーターといい、日本で商船に取り付けられたのは壱岐丸が最初*2である。

 この時に装備された無線方位測程儀(商品名コルスター式ラジオコンパス)は、音響測深儀と共に当時としては最新の航海計器である。取付工事は函館船渠で行なわれたが、最新というからには以前に経験がないものであり、取り付けから調整まで製品に添付された説明書と首引きであったという。後には製造元から技術者を招いて、ようやく実用に供されるようになった。
 壱岐丸の方位測程儀は船橋の右舷側に取り付けられ、受信用ループアンテナ(1辺2m近い長方形の枠)はその上に設置された。電波を受信しながらこのループアンテナを手回しハンドルで回転させていくと、枠の向きによって受信音が高低に変化し、発信局に正対すると音が消えるというものである。装置自体はごく単純な仕組みであるが、函館港外で実際に試験を行なってみると、巨大なアンテナが風を受けて風車の如く回転し、測定不能になったというお笑いのような話もある*3。のちに同型のものが亜庭丸にも搭載された。

*1…長さ約60cmで一方が閉じた細いガラス管の内側にクロム酸銀を塗ったものを、約550mの細い鋼索を用いて海中に沈め、着底したところで引き上げて海水で変色した部分を測定し深度を決定するもの。
*2…これより先に海軍で同じ物が採用され、二等海防艦「満州」に装備されている。
*3…改良されてアンテナがより小型になり、円筒形のケースに収められたものが秩父丸などに装備された。


四 新造砕氷船就航

1.亜庭丸
 対馬丸の座礁沈没後は壱岐丸1隻で運航を続けていたが、 大正15年(1926)4月16日からは、当時函館で繋船中だった田村丸(1,479総トン)*1が代船として就航した。田村丸は砕氷設備を持たないため冬期運航は不可能であり、冬期は壱岐丸のみで運航を続けた。

 一方、壱岐丸1隻では冬期の運航に支障があるため、鉄道省は対馬丸の代船建造計画を立てた。設計にあたっては、航路開設以来の冬期航海の経験を基礎として、特に砕氷能力と船体の強度に重点が置かれ、昭和2年(1927)8月20日、神戸製鋼所播磨造船所に発注された。建造費は135万円とされる。この日本初の本格的砕氷客貨船は、翌昭和3年2月18日起工、9月23日進水し、稚泊航路を抱く湾の名から亜庭丸と名付けられた写真3。11月25日竣工、新造時の要目は表2の通りである。代船として就航していた田村丸は、亜庭丸の就航を前にして昭和2年(1927)10月21日で運航を打ち切った。

表2  亜庭丸の要目(新造時)
総トン数
長さ/幅/深さ
喫水
旅客定員
乗組定員
貨物搭載量
主缶
主機/軸数
出力
最高速力
:3,298t
:99.8/13.7/9.2(m)
:6.4(m)
:754人
:87人
:470t
:舶用スコッチ型4基
:三連成往復動汽機2基、2軸
:6,394hp
:16.40kt
 亜庭丸の船体の鋼材は主としてドイツからの輸入品で、外板総面積2,651平方メートルの32%にあたる856平方メートルは厚さ1インチの鋼板を用いた。船首は船底から傾斜を持たせた砕氷型とし、、船尾は巡洋艦型(クルーザー・スターン)とされた。船首材は普通船で1.5tのところを10.5t、船尾材は6tのところを18.5tのものを用いた。これにより、鋼材の使用量は同型の普通船を約240t上回った。

 主機関は砕氷作業に適した三連成蒸気レシプロ2基*2、缶は圧力14キログラム毎平方センチメートルの筒型汽缶を4基装備し、6,000馬力を発揮したが、夏期は2基で充分だったとされる。また、船の全長に渡って高さ1.5mの二重底が設けられており、缶室部分のみ0.97mとされていた。機関室部分の二重底には、アイスタンクと称するものを4肋材(フレーム)間に渡って設置し、ここに復水器の排水口を設けて、氷海航行時に氷で詰まらないよう減圧蒸気を注入し加熱できるようにした。また、砕氷用として船尾水槽の前方に隣接して深水槽*3を持っており、注排水用のポンプは主循環ポンプにクラッチで連結駆動するようになっていた。
 甲板の補機類を汽動式にすると、冬期に蒸気管が凍結破損するためすべて直流電動式とした。これは鉄道連絡船として初めての試みである。舷外に関係する弁類は、減圧蒸気を注入できるような構造とされ、海水温水器を1基備えて冬期の甲板洗浄用とし、普段は入浴設備などに用いた。また、万一に備えて清水を得るために蒸化器を装備したが、これは実際には使用されなかったという。

図2  亜庭丸(竣工時)

亜庭丸(竣工時)

 壱岐丸では氷原の状況を確認するために、いちいち前檣の見張り台に登らなければならなかったが、亜庭丸では船橋室の上に見張り室を設けて、室内から梯子で登れるようになった。船橋が一段高くなっているように見えるのはそのためである図2
 船尾寄りの舷側には「山」の字型をしたケヤキの防舷材が張られ、ここに送迎船(テンダーシップ)利尻丸(「六 最果ての地へ」参照)を接舷できるようにした。船尾近く、後部三等昇降口囲壁前方の一本ポストのデリックは、載貨用であると同時にその際に乗船橋をかけるためのものである。乗船橋はデリックと後檣の間2肋材間に渡って甲板に溝を設け、ここに取り付けた。後に稚内に桟橋が完成し、送迎船の必要がなくなると門型デリックに改造されて載貨専用とされた。なお、亜庭丸は貨物として牛馬を8頭搭載することができた。

亜庭丸
写真3  亜庭丸
 旅客定員は一等18人、二等102人、三等634人で計754人である。客室区画は、船橋より一段下がった遊歩甲板から、下へ順に船楼甲板、上甲板、下甲板となり、一等室(3人部屋6室)は遊歩甲板後半部、船楼甲板には前から順に一、二等食堂、喫煙室、出入り口広間(エントランス・ホール)、二等寝台室(14人部屋、両舷)、二等座席室(じゅうたん敷)が配置された。三等座席は、上甲板後半部と機械室後部の下甲板に設けた。
 壱岐丸の三等室には”お蚕棚”といわれる二段座席が残っていたが、亜庭丸では一段の畳敷き座席となり、居住性が改善された。座席の周囲には蒸気ヒーターが巡らされており、サービスとしてお茶沸かし器が設置されていた。

 船内装飾は東京美術学校の助教授が設計し、船楼甲板前より、一、二等食堂には細かい彫刻を施した配膳棚を設け、壁面は模様入りの絹サテン張りとした。食堂の右舷後部に位置する喫煙室はジャコバン式とし、イミテーション・キャンドルを設けた。その後の一、二等出入り口広間は狭く、ここに遊歩甲板の一等船室にのぼる大階段を取付け、頂部に天窓をおいた。階段をのぼった両側にソファー、安楽椅子、テーブルを備えてアール・ヌーボー式装飾の談話室(ラウンジ)とした。これには後に装飾の統一感がないとの批判が出たという。

 亜庭丸は昭和2年(1927)12月8日の大泊発第2便から就航した。優秀船であるだけに乗客を奪われかねず、他の樺太航路を運航していた船会社を恐れさせ、一部では反対もあったようである。彼女は優れた砕氷能力を発揮し、よほど厚い氷や吹雪、濃霧の場合は別として、冬期でも定時運航を確保していた。一方で、壱岐丸との性能差は大きく、壱岐丸が氷原に閉じ込められて航行不能になるたびに救援に駆けつけ、時には氷上で旅客を移乗させることもあった。

2.大寒波襲来
 昭和6年(1931)の冬、樺太は領有以来初めてという大寒波に見舞われた。航路の結氷は例年より早い1月上旬に始まり、2月には厚さ50cmを超え、場所によっては2mにも達する凄まじさであった。壱岐丸と亜庭丸はこの堅氷を相手に大苦戦をすることになる。

 まず1月28日、亜庭丸が第4便として大泊を6時30分に出港したが、大泊港から能登呂半島中央付近の菱取沖合までは厚さ20cm、それより南は重積した40〜50cmの氷盤で、氷原にはわずか一条の切れ目が開いているだけだった。この水路を航行していたところ、13時50分壱岐丸と遭遇した。おそらく氷原で難航していたのだろう。これを導いて稚内に向かったが、厚さ1mの大氷盤に突入難航した。海峡には一帯に重積した2m以上の流氷があり、一時大氷盤に乗り上げたが、約2時間半後に離氷に成功し、出港後約20時間を要して翌29日の2時30分、稚内に入港した。
 この航海で、亜庭丸は舵補強骨上中下3本のうち、上部補強骨が舵心材付根から折損し、舵板は中部補強骨から上、全面積の3分の1にあたる部分が左舷に向け約70度屈曲した。壱岐丸は大きな損傷を受けなかったが、同30日第3便として稚内を出港したところ、同じような氷盤に遭遇し、舵頭を約20度捻曲して引き返している。

 続いて2月2日、壱岐丸が大泊を第4便として出港したが、4日間に渡り73時間もの難航をすることになる。さらに同14日、同じ第4便で52時間を要し、稚内に入港したのは同18日であった。同26日にも同じく第4便で、今度は89時間を費やす大難航の末、3月2日にようやく稚内に入港した。
 この難航中、幾度にも渡って氷盤の中で船体を締め付けられたため、水線付近の外板が肋骨とともに大きく変形して凹凸が生じた。3月中に函館に回航して応急修理のうえ再度就航したが、船体の損傷は激しく、将来的に安全性を確保することが難しいとされ、ついに5月11日の第4便を最後に函館に回航され、14日に同港で係船されてしまった。

 この年の大寒波は、6月の中旬に亜庭湾に流氷を襲来させて大泊港を一時完全に封鎖し、6月下旬になってもなお流氷が出没、船舶の航行に危険を及ぼすという稀有のものであった。

3.宗谷丸
宗谷丸
写真4  宗谷丸
 係船された壱岐丸の代船として、当時関釜航路に就航していた高麗丸(3,029総トン)*4に昭和6年(1931)5月14日付で転属が発令され、翌6月2日から就航した。田村丸と同様高麗丸は砕氷設備を持たないため冬期運航は不可能であり、冬期は亜庭丸のみで運航を続けた。

 壱岐丸に代わる新造砕氷船として計画されたのが宗谷丸である写真4,図3。航路開設以来8年にわたる砕氷に関する調査・試験と世界各国の資料を参考にし、亜庭丸に準じる設計とされたが、亜庭丸就航後毎年冬期に行なった砕氷試験の結果により改良が施された。昭和6年(1931)9月横浜船渠株式会社に船価85万5千8百円で発注、12月25日に起工され、翌昭和7年6月23日に進水した。稚泊航路が横断する海峡の名から命名され、竣工は12月5日で、新造時の要目は表3の通りである。高麗丸は宗谷丸の就航を待たず、昭和7年(1932)10月31日の運航を最後に係船された。

表3  宗谷丸の要目(新造時)
総トン数
長さ/幅/深さ
喫水
旅客定員
乗組定員
貨物搭載量
主缶
主機/軸数
出力
最高速力
:3,593t
:103.3/14.2/9.2(m)
:6.6(m)
:790人
:87人
:380t
:舶用スコッチ型4基
:三連成往復動汽機2基、2軸
:5,851hp
:17.06kt
 船体の規模や構造は亜庭丸とほぼ同じであるが、亜庭丸の経験から氷海航行時の対策として、外板の1インチ鋼板部分が全体の47%まで増やされた。また、全長に渡って特設肋骨や船側縦通材を取り付け、船首部と船尾水槽内には中間肋骨が設けられていた。亜庭丸とは異なり、二重底はすべて0.97mとされていたようである。砕氷時に船を前後左右に揺らすために用いるヒーリング・タンクの容量は各舷76t、トリミング・タンクは船首203t、船尾140tで、前者は前部缶室の両舷に、後者は船首尾水槽の後方に設けられており、これに注排水するトリミング・ポンプは容量350立方メートル/時の蒸気駆動であった。船尾下部には鋳鋼製の突起物を設けて、後進時に舵の破損を防止する保護材とした。また、推進軸は普通真鍮巻きとしているのに対し、ゴム巻きとして強度の向上と費用の低減を図った。無線方向探知機はゴニオ式を装備し、アンテナは見張所の後部に設置された。
 その他の装備は亜庭丸と同一である。

図3  宗谷丸(竣工時)

宗谷丸(竣工時)

 旅客定員は亜庭丸に比べて三等が36人多く、計790人である。客室は一、二等食堂、同談話室(ラウンジ)、一等室を遊歩甲板の前から順に配置し、同じく二等座席室、同出入口広間、二等寝台室、そして少し離れて三等喫煙室を船楼甲板に設けた。三等は亜庭丸と同様中甲板と下甲板に配置している。
 一、二等食堂は、明るく温かみのある南方植物を描いたラッカー仕上げの壁面とし、その後方に位置する談話室には、ラワン材と漆喰を用いた当時としては斬新なデザインを施した。船楼甲板の出入口広間床面はモザイクタイル張とし、上部の談話室に通じる階段正面の壁面には、トナカイの浮き彫り(レリーフ)を入れてあった。時計の文字盤を浮き上がらせ、その背面にブルーのネオン管をつけてレリーフ表面を照らすようにしている。

 なお、宗谷丸は海軍の特務艦から海上保安庁の灯台補給船、後に南極観測船となった宗谷と名前が似ているためよく混同されるが、両者はまったく別の船である。宗谷丸も宗谷と同様、昭和30年(1955)に初代南極観測船の候補にあげられていたが、改造の費用や定員の問題から実現しなかった。

 当時の連絡船の色彩を再現したものはこちら(宗谷丸)。連絡船の塗装は明治42年(1909)3月に制定された「鉄道院汽船塗装規定」によって定められたもので、その後何度か改定されたものの、基本的に外舷は黒色、上部構造物は白色、マストや煙突、通風筒は黄樺色で、煙突に赤色の「工」マークという配色であった。なお、「工」は最初に鉄道を管轄していた工部省を表している。
 この配色が変わるのは、戦後洞爺丸の沈没事故以後に就航した新型連絡船からである。


*1…田村丸:明治40年(1907)竣工,総トン数1,479t,最高速力18.2kt,旅客定員436人。青函航路の開設以来17年間同航路に就航していた鉄道連絡船で、同型の比羅夫丸は日本で最初の蒸気タービン船である。
*2…全後進の切り替えが容易で、後進も前進と同じ出力が得られるため。蒸気タービンはタービン翼が一旦停止してから逆転させるため、切り替えに時間がかかる。また、後進時は専用の後進タービンを使用するため、前進時の1/2〜1/3程度の出力しか得られない。
*3…深水槽:ここではバラストタンク。
*4…高麗丸:「二 壱岐丸型連絡船」 2.関釜航路の発展 を参照。


五 宗谷海峡を渡る

1.稚泊航路
 稚泊間の定期運航開始は、文字通りの開拓だった。樺太側の大泊は日本郵船や北日本汽船等の定期船が発着しており、港湾も一応整備されていたが、北海道側の稚内港は一漁村に過ぎず、陸に囲まれているのは南と西だけで北と東が宗谷海峡に向けて開けているため、立地条件がよいとは言い難かった。また、底質が岩であるため錨が効かず、時化の時はその兆候を察知して、いち早く港外に逃げ出さないと座礁必至であった。
 当時の気象予報は、観測地点が少ないこともあってきわめて不正確で、ここを襲うシベリアからの低気圧の予報を当てにすることができず、気圧計を睨み機関を暖めながらの停泊であったという。

西能登呂岬灯台
写真5  西能登呂岬灯台
(光達距離19海里)

 運航開始当初、稚内を出港した連絡船は西能登呂岬の東2海里を目指して針路を定めていた。しかし、9時間運航で10ノット、8時間運航で11.25ノットの速力では、時に10ノットを超す海流に流され、何度も針路を折って向け直すことになった。西能登呂岬に並航してからは大泊楠渓町灯台に向け、大泊港に入港していた。一方、大泊を出港した連絡船は、下り便とほぼおなじ航路をとって西能登呂岬に並んでから、野寒岬あるいは少し西の宗谷岬に向け、宗谷岬灯台に並航してから稚内に入港していた。
二丈岩標灯
写真6  二丈岩標灯
(光達距離13.5海里)
 当時航路標識として用いられたのは野寒、宗谷、能登呂の各灯台のみで、潮海流の方向を知る手立てはなく、大泊を出港した連絡船は西能登呂岬の南東約8海里にある二丈岩の岩礁に脅えながら西能登呂岬にたどり着き、錨の効かない稚内に恐る恐る入港していたのである。二丈岩に灯標が設置されたのは昭和3年(1928)8月のことであった。また、霧や降雪の際には操作の面倒な測深儀と不正確な磁気コンパスを頼りに推測で突っ込んでいくという、軽業師並みの運航であった。

 対馬丸の座礁沈没事故後は、音響測深儀とラジオコンパスが装備され、暗中模索の不安は軽減された。当初設置されたラジオビーコンは大泊、稚内の2ヵ所だったが、いずれも入港針路から右に偏っており、湾口に近づくに従って有効でなくなるため移設が要望されていた。
 また、西能登呂岬にビーコンができたのはずっと後であったため、二丈岩に接近するのは危険であり、その東側を迂回する航路をとるようになった。この航路は10海里ほど距離が延びるが、二丈岩の岩礁からは安全であった。鬼志別にもビーコンが存在したが、不便なこともあってあまり利用されなかったようである。

2.砕氷航法
 稚泊航路の開設当時、日本の砕氷に関する技術はほとんど手探りの状態であった。”本格的”砕氷船としては、大正10年(1921)に神戸川崎造船所で建造されたばかりの海軍特務艦大泊*1がある程度であった。

 そのような状況の中、航路開設当初初めて海氷に出合った連絡船は、一旦行き脚を止めてゆっくりと近づき恐る恐る割っていた。しかし、慣れるに従って次第に大胆になり、氷盤に向かって全速力で突進し、一度で割れない場合は全速後進をかけて氷から離れ、また全速前進で突進することを繰り返した。この方法は船体や機関に負担がかかるばかりでなく、そのわりに砕氷能率が上がらなかったので、後にはよほどのことがない限りやらなくなったという。毎年の氷海航行の経験を元に、暗中模索で編み出された砕氷航法は次のようなものである。

  • 厚さ30cm程度の張り詰めた均質で平坦な氷なら、ほとんど速度を落とさず航行できるが、重なり合った累氷では著しく減速する。
  • 同じ厚さの平坦な氷の場合、はるか先まで切れているのが見えるときは割れるが、陸岸まで一面に張り詰めたものは割りにくい。
  • 軟質の氷は船体に付着して抵抗が大きく、まったく航行不能となることがある。ざくざくとした氷はアイスタンクをも詰まらせる。
  • いかに遠回りになっても、氷のないところや薄いところを探して縫航する方が結局時間の短縮となる。
  • 概して沿岸は氷が薄く、沖は厚い。但し、陸岸近くで氷に閉ざされ、向岸風が吹くと座礁の恐れがある。また、風下は氷が厚いと思わなければならない。
  • 氷に閉ざされて動けなくなって真横から風を受けると、氷は船体を締め付け、さほど厚くない場合は舷側に積み上がる。
  • 夜間はまったく氷質を判別できないので、明るいうちに大氷盤を見つけて軽く乗り上げ朝を待つ。そうしないと夜間に氷にもまれて舵や推進翼を破損し、危険な漂流をする。
  • 常に風向と風力に注意すれば、氷の流行及び圧縮や緩みを知ることができる。氷は絶えず移動するので、氷泊中といえども脱出できる状態となったら夜間でも航行した方がよい。
  • 勢いよく氷に乗り上げると降りにくいので、まったく行き脚のとまらないうちに機関を全速後進にかける。後退する時は、真っ直ぐに降りないと舵を破損するので舵中央とする。
  • 氷に乗り上げて降ろす時にトリミングタンクを操作して船首を上げるが、ヒーリングタンクで左右に傾けるのも非常に有効である。
 氷海航行中の船体や推進器の損傷はたびたび発生し、壱岐丸を係船に追いやったのも氷によるものであった。推進器は翼端のピッチングがひどく、特にひどいときには両面に穴が開いていることがあり、毎年入渠の際に補修、または予備品と取り替えている。
 記録に残っている損傷としては、昭和7年(1932)2月17日に亜庭丸の右舷推進器翼が1枚、先端から約13cmのところで折損している。また、昭和12年2月15日に宗谷丸が稚内を出港し、途中氷盤のため難航して翌々17日に大泊に入港した際には、左舷推進器翼2枚が根元から約5cmのところから、1枚は根元から約1mを残して欠損していた。この直後、函館に回航して入渠調査したところ、さらに左舷は残り1枚、右舷は2枚根元のところに亀裂が発見された。

3.流氷の猛威
 また、流氷によってしばしば運航や港内荷役が停止されることがあった。この航路を襲った記録に残る大寒波は、先に挙げた昭和6年(1931)以外に昭和12年(1937)、昭和14(1939)年、昭和19(1944)年で、特に立地条件の良くない稚内港は、昭和12年の2月13日から25日まで流氷により使用不能となったのをはじめとして、昭和14年の2月と、昭和19年の3月および4月にも入港が不能となった。

 昭和12年の大寒波の際には、宗谷丸が2月13日稚内港の岸壁突端わずか300mの地点において、流氷のため暴風の中を48時間立ち往生している。先に挙げた推進器の損傷は、この後に発生したようだ。亜庭丸は2月20日に同じ状況の中、稚内港外0.75海里(1.4km)の地点で航行不能に陥りかけたため、目的地を変更し小樽に向かった。その後、小樽−大泊間の臨時運航を行い、25日に稚内へ入港している。
 昭和14年は流氷の状態が最も悪く、2月5日には暴風雪の中、稚内岸壁に停泊中の亜庭丸が脱出する間もなく流氷に閉ざされ、以後23日もの間進退不能になった。この時宗谷丸は大泊に向かっていたが、翌6日猛吹雪による視界不良と結氷のため樺太西岸の宗仁岬沖に仮泊、その後北海道へ戻って留萌に入港し燃料を補給した後、9日になって大泊に入港していた。しかし、稚内港が使用できないため小樽−大泊間を4航海実施し、28日からようやく平常運航に戻った。
 昭和19年3月7日、大泊発上り便の宗谷丸が流氷のため途中氷泊し、同日午後留萌に回航した。稚内発下り便の亜庭丸もまた、流氷のため途中氷泊して9日大泊に到着している。

 記録によれば、これらの運航遅延はすべて暴風の中で発生しており、風で吹き寄せられる流氷の恐ろしさを示している。一方、流氷は風が変わらなければ、いつまでも動かないのでさらに始末が悪い。当時最新鋭を誇った国鉄連絡船も、自然の猛威には逆らえなかったのである。


*1…大泊(おおどまり):基準排水トン数2330t,全長64.3m,主機関蒸気レシプロ2基,出力4000hp,最高速力13kt。


(続く)

公開:00/11/10
一訂:00/11/20

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