[back...]
独白調。
(この文章は事実を元に再構成したフィクション、ということにしておきます)
5/1 晴
午前6時、すでに太陽は地平線からいくらか高度を取っており、辺りは明るい。薄暗い中で震えながら暖気にてこずった冬の朝を思うと、青葉の季節を迎えた今の暖かさが嬉しく感じられる。暖機運転もそこそこに、アパートの駐車場を後にした。街はまだまどろみの中にある。
まだ三重に住んでいた学生時代。蒲郡のヨットハーバーで開催される大会に出場するため、年に数回片道120km余の道程を往復した。ヨット部の仲間と馬鹿話に興じながら、早朝深夜に車を飛ばした日々が懐かしい。
私が4回生の時の1回生が、今年で4回生になる。初めて蒲郡を訪れた時は建設中だったハーバー横のテーマパークは、今年で何周年かを迎える筈だ。林立するクルーザーのマストを横目で眺めながら、単車は快調にオドメーターを刻んでいく。
車も疎らな豊橋市内で給油する。エストレヤのタンク容量は14L、うちリザーブが2L。燃費が30km/Lを切ったことのない我が愛車は、一度満タンにすれば計算上400kmを越す航続距離を持っていることになる。いつもは300kmを越えた辺りでスタンドに入ることにしているので、給油量は大体10L程度になる。
愛知と静岡の県境を越えた辺り、長い下り坂の後にトンネルを抜けると視界がさっと開けて、眼下一面に遠州灘が広がる地点がある。道は引き続き左カーブとなって下っていくが、思わず視線をそのままに見とれてしまう光景である。
流れる車の数は驚くほど少ない。バックミラーをちらりと確認して右に出ると、スロットルを全開にしてみる。エンジンが呻吟しつつ、2つのメーターの指針はじりじりと右に回っていく。
浜松でコンビニエンスストアに入ると、先ほど追い抜いていったうちの1グループが休憩を取っていた。挨拶をしてしばらく話をする。中年男性の3人組でBM、ドゥカ、国産の大型バイク。名古屋からやってきたツーリング仲間で、清水港で昼食を取った後R52を通って本栖湖に抜け、甲府に宿をとるとのことだった。
「今日はどこまで?」「とりあえず、大井川を遡ろうかと思っています」
「また、どこかでお会いしましょう」と、手を挙げて別れた。
再び鞍上の人となる。浜名湖花博の幟が風にたなびく市街を抜け、天竜川を渡る。距離を稼ぐのが目的なので、磐田掛川とバイパスを使って東進する。車の流れは順調で、下道にして正解だったようだ。大井川に架かる橋を渡ったのは9時半過ぎであった。
R1を降り、少し離れた川堤に単車を止める。堤防に上がって腰を下ろし、家の炊飯器を空にするために持ってきたおにぎりを食べた。
風に揺れる木々のざわめきと、少し離れたR1から聞こえてくる車の走行音。時折混じる甲高い排気音はツーリングのバイク集団だろうか。川の両岸に迫る山の緑が目に痛いほどだ。空を見上げれば、どこまでも吸い込まれていきそうな青。いい天気だ。
再び大井川を渡り、右岸に出る。そろそろ大井川鉄道の蒸気機関車が始発駅の金谷を出る頃だ。カメラを構える適当な場所を見つけなければならない。
R473を上流に向かう。道路脇には、車を停めて三脚を据え付けている人が思いのほか多い。10kmほど上ったところで小さな鉄橋を見つけ、近くの踏切の横に単車を止める。ソロのバイク乗りの先客がいて、少し会話を交わす。
一昨年の夏の終わり頃、私はあの蒸気機関車が牽く列車の窓から外を眺めていた。どうやら、あの車窓から見える景色は私には狭すぎたらしい。
大井川鉄道が蒸気機関車の営業運転を復活させたのは、昭和51年(1976)のことである。私が生まれる3年前だ。
この前年、動力近代化の波で最後まで残った北海道の蒸気機関車が缶の火を落とし、国鉄の路線上から蒸気機関車が姿を消している。いわゆる「無煙化」が達成されたわけだ。山陽新幹線が博多まで全通したのもこの頃である。
蒸気機関車が牽く列車の最後尾には、電気機関車の後補機がつく。経年劣化ですでに往時の出力が確保できなくなった蒸気機関車に、定時運行を確保させるためだ。多客期には7両もの客車がつく。例え新製時の全力が出せたとしても、それだけの重量を背負って大井川を遡るには、この形の蒸気機関車では荷が重い。
動かしていれば、消耗する部品がある。すでに製造されなくなって久しいそれを確保する為に、すでに動かなくなった仲間から部品を取ってくる。中には十数両分の部品を寄せ集めて走っている機関車があるという。
史料として整備し、博物館で保存したいという意見がある。
どこかで聞いたような話だ。
また、見に来よう。今こうして動いている姿を見られるのは、多分、幸せなことだから。
去年生まれたばかりの私の単車は、単気筒の小気味良い排気音を山肌に響かせながら、杉林の中を抜け、茶畑の裾を縫い、大井川に沿って上流を目指す。
-***-
蒸気機関車はすでに先着し、ホームで白い蒸気を吐いている。
駅前に単車を止め、売店で買った大振りな饅頭を頬張る。立ち食い蕎麦屋に冷たいお蕎麦はありますか、と尋ねたところ、「ありません」と言葉だけ冷やかに返ってきた。
家を出る時は寒いくらいだったが、今はジャケットの前を開けて走っている。初夏のような日差しが黒いGパンを灼く。10kmほど進むと長島ダムに着いた。路肩に停止してタンクバックのプラップをめくり、時刻表を確認する。もう列車は過ぎた後のようだ。
お気に入りだったのに。
気を取り直してクラッチを繋ぐ。道路は急傾斜でぐんぐん高度を取っていく。ところどころに落石と思われる石が路面に転がっている。
視界は山の緑と空の青で一杯になる。農学部林産学科卒にもかかわらず、杉ヒノキ以外に1つも名の分からない木々に囲まれた山道を、3速と4速のギアを使って40km/hほどの速度で駆け上がる。油温計の針が定位置の60℃から80℃あたりまでじわじわと上昇する。時折視界に入る紫色は、藤の花だろうか。
しばらくすると、すこし開けた道に出た。終点井川駅はすぐそこだ。
駅前の商店で買った炭火焼の味噌団子に噛り付きながら時計を見ると、時刻は1時近い。オドメーターは150kmを越えている。そういえば昼食を取っていないが、美食追求だとかの方の欲求はめっきり薄いし、停まるたびに何かしら買っているので空腹も感じない。
しかし、なぜ旅に出た時の買い食いはこうも美味しいのだろうか。
-***-
ハンドルを返して来た道を戻り、再度長島ダムに出る。ダムの上に単車を停め、望遠レンズをセットしたカメラを三脚に据えて列車の到着を待つ。
大井川鉄道井川線のアプトいちしろ−長島ダム間は現在日本唯一のアプト式区間である。アプト式とは、2本のレールの中央に凹凸のついたもう1本のレールを持ち、これを機関車の歯車が捉えて急勾配も登れるようにしたものである。
長島ダムの建設によって以前の線路が水没することになり、平成2年に新線として開業したのがこのアプト式区間である。建設費が最も安く済む方法がこの方式だったようだ。
井川線以前にも、日本にアプト式の鉄道が1つだけ存在した。かつて信越本線横川-軽井沢間の碓氷峠に66.7‰の急勾配があり、これをやはりアプト式で越えていた時代があった。やがて新しい線路が敷かれ、アプト式は廃止されて通常の方式で峠越えが可能になった。そして長野行新幹線の開通によって横川以西の路線自体が廃止になり、現在に至っている。
やがてモーターの唸りが聞こえてきた。赤と白で鮮やかに彩られた豆粒のような機関車が登ってくる。
ま、何一つ知らなくても良いことではあるが。
赤みを帯びてきた太陽の光の中、エンジンブレーキを利かせながら河畔の道を下っていく。ヘルメットのシールドを跳ね上げると、川下から吹き上げてくる風が頬に涼しい。
笹間渡まで一気に降りる。PAに単車を停め、すぐ隣にある鉄橋のたもとに向かう。
もっとも、そんな写真を撮ろうとか大それたことは考えてないけれども。
さて、富士山に向かうとしよう。
再びシートに腰を据える。青葉となった桜のトンネルをくぐり、黄金色に染まる川面を眺めながら、大井川に沿って下る。建設が進む第二東名のコンクリート橋脚を過ぎればR1である。
夕暮迫る静岡市内を抜け、右手に駿河湾が迫る海岸沿いを走る。左手の線路を後ろからやってきた貨物列車がしばらく併走し、やがて轟音を立てて追い抜いていく。既に日は暮れ、かろうじて富士の裾野がぼんやりと認められるほどの明るさしか残っていない。
しかも、どうやら上の方は雲の中。明日は晴れるのだろうか。
富士市に入り、今夜の宿を決めるべく富士駅に向かう。近頃めっきり少なくなった電話ボックスとタウンページも、駅のタクシー乗り場には必ずある。
鉄道で旅をしていた折、この駅で何度か乗り継ぎをしているはずだが、今日は少し違った印象だった。煙突が目の前にある駅というのは覚えていたけれど、もっと寂しい駅かと思っていた。あの時は昼で、今は夜という違いもあるけれども。
タクシー乗り場の電話ボックスに入り、タウンページのビジネスホテルの項目を開く。よかった、破り取られてない。
一軒目、中年の男性が出た。今晩泊まれますか、との問いに「ええ、ありますよ」との返事。応対はホテルの受付をしているとは思えないほどフレンドリーであった。「食事はどうします?」 とりあえず断った。
到着したところは、コンクリート建三階の民宿とさほど変わらない風情のビジネスホテルだった。一階が鮮魚料理の店舗になっている。砂利敷の駐車場に単車を停め、荷物を下ろして玄関に向かう。
電話の主で主人と思われる人物に、二階にある、と教えられた部屋はなぜかツインルームだった。他に客がいる様子も無かったが。
部屋に入ってから鍵を貰わなかったことに気付いた。受付などというものは存在しなかったので、一階に降りて玄関の隣にある扉に声をかけた。主人が出てきて、そういえば、とつぶやきながら、玄関の床に置いてあるお盆の中からじゃらじゃらと探し出して手渡してくれた。
当然の如く部屋にトイレもバスもない。同じ階にあった三畳ほどの風呂場は綺麗だったが、ステンレス製の湯船は家庭用のそれそのもので、男女の別もないようだ。以前九州で泊まった「ビジネス旅館」とやらもこんなシステムだった。
風呂から上がって浴衣のまま料理屋の方に回る。港が近いので刺身定食にも心を惹かれたが、天丼を頼んだ。一人暮らしの自炊は天ぷら
から縁遠い。
しばらくして、山盛りの天ぷらが丼からはみ出しているそれがカウンター越しに出てきた。小鉢が三つと焼きうどんの小皿がついて、品書きには\1,000とあった。勘定は宿代\5,000円と合わせて支払った。
(The 1st day Fin.)
◆◆◆◆◆
5/3 雨
ぼんやりとした頭でしばらく考え、もう一度毛布の中にもぐりこんだ。
今度は7時過ぎだった。
ロビーに下りて、無料セルフサービスのトーストにマーガリンを塗りたくり、コーヒーをブラックですする。3枚でお腹一杯になった。
とりあえず、西に向かうことにした。
気が乗らないので、動作も自然のんびりしたものになる。タンクバックとサイドバックにカバーをかけ、カッパを着込んで安倍川のビジネスホテルを出たのは8時半を過ぎていた。宿代\6,000余は前の晩に支払っておいたのだが。
行き先は決めていなかった。雨が強くならなければ、今度は天竜川を遡るつもりだ。どうせ雨なら、山間を走るのもいい。
R1を西にひた走る。とはいえ、カッパが肘と背中でばたつくので60km/h程度のスピードになる。それでも縫い目から雨水が浸み込んできたらしく、股の辺りが冷たい。掛川を過ぎる頃にはブーツの中もぐっしょりになった。グローブは最初から諦めていて、例の穴が開いたのを濡れるがままに使っている。
雨は峠を越える毎に降ったり止んだりしている。一度止んだのを見計らってバックのカバーを取り払ったら、しばらくして大粒のやつが降ってきた。タバコ屋の前に単車を停め、慌ててかけなおす羽目になる。
天龍川はもうすぐだ。ガソリンは袋井の高架に入る前に入れておいた。昨日は220km余りを走っている。
缶が空になるまでに、とりあえず佐久間ダムまで轍を進めることを決めた。
浜松の市街を抜けると、R152は切り立った渓谷の間に分け入っていく。両脇にそびえる山の頂上は、低く垂れ込めた雲で覆われている。小雨は降り止むことなく、シールドに水滴を増やし続ける。
一つ目のダム湖はボートの練習場になっていた。カラフルな艇体が、これも様々なウェアを着たクルーのオール捌きと共に、黄色く濁った水の上を滑るようにして進んでいく。モーターボートが併走する。
どんよりした空と澱んだ湖面に挟まれた僅かな隙間で、雨に濡れた緑が深く鮮やかな色彩を放っている。
日本の国土において、森林の占める面積は7割に達し、その半分近くが人の手が入った人工林である。さらにそのほとんどが杉林で、今日では花粉症の主な原因の一つでもある。
日本が敗戦から再建の道を歩み始めた頃、焦土となった都市を再建する建築用資材を得るために植林が行われた。空襲による被害に加え、植民地からの引揚者が住宅不足に拍車をかけていた。戦時中の労働力不足により荒廃していた森林を、再び蘇らせるためでもあった。
ちょっと考えると面白いことは、なかなか知る機会がない。例えば、テレビというメディアは考えなくても理解できるものしか与えてくれない。常に一方的に垂れ流される情報は、思考という後戻りを許さない。
今、日本の木材自給率は20%に及ばない。杉を植えてから、1本の柱が取れるまでに成長するには30年かかる。自然界にとってほんの
わずかなこの時間は、大量生産・大量消費の現代社会において永遠に等しい。
だから、私の部屋にテレビはない。
いくつ目かのトンネルを抜けると、目の前に再びダムが現われた。灰色の壁面を背景に、鮮やかな赤色の釣り橋がかかっている。
道路の向かい側には小さな店があった。何か軒下で湯気を立てている。
手作りのこんにゃくと卵のおでんに、ゆずの香りのするみそをつけて食べた。3本で\210。
-***-
どこか遠く、救急車のサイレンが木霊する。
青葉となった桜並木のダム湖半を走る。ふと向こう岸を見上げると、緑の絶壁の上に白いガードレールが見える。それをたどっていくと、時折雲が流れる山頂に程近い場所に、小さな集落とそれに見合った規模の茶畑がちょこんと張り付いていた。
思い通りに景色を切り取れる場所がなくて、結局諦めた。遮る杉の木立が恨めしい。
緑に濡れた山肌に爆音を叩きつけ、雨を衝いて白いヘリコプターが飛んでいく。
しばらく国道を進むと、赤色回転灯が道路を塞いでいた。さっきのサイレンはこれか。
「事故があって、レスキューが入ってます。あと1時間くらいはかかると思います」
来た道を戻り、指示された対岸の迂回路に向かう。何台かこちらに向かってくる車がいるが、どうしたものか。
ただ、気をつけよう、と思った。
対岸の県道は二輪車にとって山間の小道に過ぎなかったが、車にとって絶望的に狭かった。杉の丸太を満載した白いトラックを追い抜き、先頭に出る。あとは対向車とすれ違うばかり。
対向車線を2台のバイクが向かってくる。大型のロードスポーツだ。と、ライダーが大きく左手を上げた。慌ててこちらも手を上げる。
「雨の中ご苦労だね。頑張れよ」
そんな風に聞こえた。奇妙な連帯感。お互い二輪車に乗っているというだけの理由なのに。
今度は向こうからオフロード車が1台やってきた。今度はこちらから手を上げる。
小さく手を上げ返してくれた。嬉しかった。
R152に別れを告げ、R473に入る。集落の中をすり抜けるように坂道を登り、下る。JRの線路を横切って、県道1号に入った。
素掘りのトンネルを抜けると、佐久間ダムの脇に出た。
ツーリングマップルには「動力式ダム」とあるけれど、重力式の間違いだと思う。コンクリートの自重で貯水池の水圧に耐える仕組み。黒部ダムに代表的なアーチ式の方が資材の量が少なくて済むが、地盤が軟弱な場所でも建設できる。
建設されたダムの貯水池が一杯になった時、水圧で最初の位置から数センチずれる。そんなことも書いてあった。
国道が建設された順に番号が振られていくように、県道もまたそうなのだろうか。だとすると、このダムに通じる県道が1号線であることも理解できる。マップルには「戦後復興の象徴」ともあるが、こちらは間違いない。
カメラを片手に停めてあった単車に戻ると、老年の男性がエンジンの辺りを覗き込んでいた。少し言葉を交わす。
カメラを収めたバックのファスナーを閉めて顔を上げると、もう男性はいなかった。
さあ、帰ろう。
再びトンネルをくぐると、どこかで見た白いトラック。杉の丸太を満載。あ、抜けられたんだ。会釈したけど、通じたかな。
いつしか雨は上がっていた。
愛知県に入る。川は依然前から後ろに向かって流れ、まだ分水嶺を越えていないことを知る。
薄暗い林の中を曲がりくねった道が行く。杉の幹が縞模様になって視界の両端を流れていく。並んだ木々の奥はさらに暗く、森の深さを思わせる。
右カーブの手前で減速する。路面が濡れているので、後輪のブレーキをいつもより少し強めにかける。上体にかかる減速のGはすべてニーグリップで支え、手はハンドルに添えるだけ。視線はカーブの出口に向ける。顔は路面に対して垂直。
3速と4速の間を頻繁にシフトチェンジしながら、いくつものコーナーをクリアしていく。膝の間から熱を持った鼓動が体に伝わってくる。
暗いトンネルを抜けると、あとは海へと下るだけ。
視界がさっと開け、谷に向かって開けた集落に出る。山肌に階段状に刻まれた棚田は張られた水に空を映して明るく、田植えの季節を迎えているようだ。
泥色の水をたたえた一画から視線を外すと、家々の間に放置されて荒れた棚田が目に付く。規則正しく積まれた石垣が森と同化し、忘れられたように草に埋もれている。
すぐに集落は途切れて、道は再び森の中に迷い込む。
-***-
設楽町で「野仏の道」に立ち寄った。
私の通った中高一貫6年制の私立校は仏教系だった。毎週1時間の仏教の時間があり、従って期末テストというものも存在した。毎月1回の本山参詣、勤行と仏教聖歌。門前の小僧なんとやらで、今でもお経の1/3ほどはそらんじている。確か全部で400文字あった。
起伏に富んだ杉林の中で、無数の石仏が静かに佇んでいる。
再び訪れる無音。耳が痛い。
次第に街並みが整っていく道を、R257、R151と下って行く。やがて西の空から薄日が差してきた。そういえば、まだカッパを着たままだ。ま、視線を気にしなければ、どうでもよい事ではある。
新城市街を過ぎた頃、遠く豊橋の向こう側、渥美半島の付根にある蔵王山が見えてきた。蒲郡の沖でよく眺めた山だ。
ようやく帰ってきたような気がして、ほっとした。家までまだ50kmもあるのだけれど。
(Touring Fin.)
Mileage is a little more than 900km.
チョークを引いてセルを回すと、軽快な排気音と共にタコメーターの針が踊り、250cc空冷単気筒のエンジンが鼓動を始めた。
未だ目覚めぬ連休初日の住宅地を横切り、田植えが始まったばかりの田園地帯を抜け、R23に出て東に向かう。豊橋まで1時間余、途中蒲郡までは走り慣れた道程である。
タンク一杯の安心感とともにR1に入る。青空の下、朝日に向かってひたすら東へ、東へ。
続く浜名バイパスを挟んで20kmほどの高架区間は、晴れていれば右手に太平洋が一望できる快走路だ。本線でメーターの針が3桁近くを指しながら走る横を、それを上回る速度で追い抜いていく大型バイクのグループが1つ、また1つ。
緩やかな下り坂、7,000rpm130km/h。振り分けサイドバックと後部シートに荷物を満載した状態ではこれが限界か。右手を緩め、左手でウインカーを弾いて本線に戻る。人にも単車にも余裕が出たのか、エンジン音が心なしか少し嬉しそうに聞こえる。
泊まる場所は決めてません、と続けると笑い声が弾けた。ミーティングで富士山に向かうこと、その後の行き先は天候次第なこと。互いの情報を交換する。
キャンプ装備のない割に荷物が多いことに話が及び、サイドバックの半分はカメラが占めていることを告げる。「そういえばSLが走ってたね」 どうもバイクにカメラ一式を積んでいる人間は珍しいらしい。私の後付タコメーターからしばしパーツ談義に花が咲く。
カメラと三脚を引きずり出し、撮影ポイントを探して走る。構図を決めて三脚を立て、シャッタースピードと露出を確認してピント合わせをしていると、遠くの方から甲高い汽笛が聞こえてきた。
じりじりとした時間が過ぎて、蒸気機関車が姿を現わす。何枚かシャッターを落とし、手持ちに替えてさらに何枚か。
油を焚いているのだろう、煙突から吐き出される煙にはほとんど色がない。観客が少ないところではファンサービスを控えているのか、住宅地が近いからか。
昭和24年に全線電化を達成していた大井川鉄道は、この流れに背を向けて、観光鉄道としての道を歩んだ。以来今日まで運行は継続され、こうして私が生きて動いている蒸気機関車を目にすることが出来る。「戦場にかける橋」の泰緬鉄道から帰ってきた車両や、保存運動が始まってその基金で運行されている車両もあるという。
走る蒸気機関車に乗りたい、それを見たいと願う人々がいる。
公園の片隅で、ペンキと錆にまみれた仲間が雨ざらしになっている現実がある。
大井川鉄道本線の終点、千頭に到着したのは正午近かった。ここから先は井川線と名を変え、乗客はよりレール幅の狭い小さな列車に乗り換えて、さらに上流を目指すことになる。R473、362と登ってきた道路も、ここからは先は県道になる。
と、グローブを落としてしまった。左は地面に落ちたが、右のグローブは見事にエキパイの上に乗っかって煙を上げている。慌てて拾い上げたが、シームの部分が焼き切れて人差し指の横の部分がぱっくりと口を開いてしまっていた。
先行車を追い抜き、対向車をやり過ごし、曲がりくねった道を行く。すでに遥か下方に去った川と共に、道は次第に幅を狭めていく。
最大勾配90パーミル。パー・セント(%)、すなわち百分率ではなく、パー・ミル(‰)で千分率となり、1000m進むと90m登る9%の勾配であることを示す。道路でさえ相当に急な坂道である。
もともと井川線はダム建設の資材輸送のために建設された路線だった。今はその役割を終え、観光鉄道として旅客輸送に従事すると共に、地元の人々の貴重な交通手段にもなっている。道路は先ほど記したような状態であり、寸又峡、接岨峡温泉へ接続する唯一の公共機関であるにもかかわらず、経営状況は苦しいという。
それはこの景色の中ではあまりにも小さくて、手を伸ばせば届きそうに思えた。駅で客車を連結した機関車は、再びゆっくりと勾配を下っていく。
上りも下りも機関車は必ず坂の下側、アプトいちしろ駅側に連結される。上りは押し上げ、下りは押し止める格好になるわけだ。連結が切れて列車が暴走することを防ぐ為だという。
少し日に焼けたようだ。
ここは絶好の撮影ポイントだ。何か大井川鉄道の蒸気機関車を紹介する記事には、必ずここで撮影した写真が載っている。雲ひとつない青空の下、鉄橋を渡る列車。
列車が去った後も、遥か遠く汽笛が聞こえる。蒸気機関車を見に来たのであろう、川原から手を振っていた家族連れが何組も車に戻っていく。
R1を東に向かって峠を越え、安倍川を渡ったところで渋滞を避けてバイパスを降りる。
いずれにせよ、別の印象を受けるということ自体は嬉しいことだ。またここに来ようという気分になる。
町外れにあってなるべく小さく、チェーン展開をしていないようなところに当たりをつける。
今夜の宿は、富士駅から5kmほど離れた隣駅の近くに決まった。製紙工場の合間を縫うようにして夜道を走る。頭上で道路を横切るいくつもの太いパイプ。ヘッドライトが延々と続くコンクリートの壁を照らし出す。
電話では断ったが、宿のの佇まいを見て気が変わったので夕食をお願いしてみる。迷惑な客だ。
あの時は湯船に無数の羽虫が浮いていたが。確か、素泊\3,600だった。去年のGWの話だ。
自然に目が覚めた。時刻は午前5時半を少しまわったところだった。部屋は薄暗い。カーテンを引いて窓を開けると、しとしとと雨が降っていた。
広げた新聞の天気予報は、連休後半の天候悪化を告げていた。
まっすぐ帰ってしまうべきか。いや、それは一番気が乗らない選択肢だ。
閉じられたシャッターには「5/3,4,5休みます」の張り紙がしてあった。
橋を渡ったところでコンビニに入って休憩をとる。雨滴を払い落としてコーヒーを買い、軒下を借りて地図を眺める。
道路脇には拡声器をもった男性が立っている。高校の部活なのだろうか。
天竜川が切り拓いた峡谷の両脇には、綺麗に手入れがなされた杉の幹が等間隔に列をなし、斜面を覆って林を成している。流域一帯は有名な天竜杉の産地であったことを思い出す。
樹種の選定に当たって、生育の早い杉が選ばれたのは当然の成り行きだった。
しばらく迷った後、左ウィンカーを出して後続車を先に行かせる。対向車が来ないことを確認してUターン。数百メートルを戻って単車を路肩に停めた。カバーを剥いでカメラを取り出し、シャッターを切る。
その写真が撮りたくて、山腹に向かう脇道に入った。車1台がようやく通れそうな急傾斜のつづら折を、2速に入れて登る。
ほとんどのヘリコプターはパイロットの視界に頼って飛行するため、悪天候の中を飛ぶことはない。何かあったのだろうか。
単車を降り、3台前の車のドライバーと会話を交わしていた警察官に状況を聞く。
道路脇の小学校の校庭にヘリコプターが降りていた。白い機体の脇腹に「Doctor」の文字が読めた。どこからか再び救急車のサイレンが鳴り出した。
再び橋を渡ってR152に戻る。
小学生の頃、図書館で読んだ本にはそう書いてあった。今でも十分変だという自覚はあるけれど、どうやら当時から相当に変な奴だったらしい。
この荒れたコンクリート舗装の上を、ダム建設の資材を積んだトラックが通っていたのは何年前のことだろう。
「250の単気筒?」「いい音がするんだろうね」
「そうですね。何もいじってませんけど」
向こう側の山裾を走る鉄道の線路が見える。JRの飯田線だ。3年前の冬、あそこを走る列車からこちら側の景色を眺めてるはずだ。けれど、さっぱり記憶にない。寝ていたわけではないと思うけど。
湿気を含んだ空気に、乾いた排気音が吸い込まれていく。
やがて杉の並木が途切れ、名も知らぬ木々が鬱蒼と茂った森に入る。起伏に富んだ路面を横切る小さな雨水の流れを、轍が切断していく。
ブレーキを開放し、右ステップに体重を載せてやると車体はスッと傾き、カーブの内側に向かって切れ込んでいく。出口に向かって少しずつアクセルを開けば、車体は加速しながら自然に起き上がってくる。
もっとも、それを数えたのはお勤めの最中だったのだが。
足音さえも落ち葉が包む静寂を、ウグイスの鳴き声が破る。