第三章
栄光の光と影と
1.小笠原捕鯨その後
まず、戦後すぐに一等輸送艦によって開始された小笠原捕鯨であるが、日水、大洋、極洋の3社共営の時期を経て、昭和25年(1950)からは南氷洋捕鯨の出漁許可が下りなかった極洋捕鯨の単独事業とすることで合意した。
極洋は早速母船への改装に適した船を捜し、尼崎に係留されていた貨客船ばいかる丸(5,266t)を手に入れた。同船は戦前大阪商船の大連航路に就航し、戦時中は病院船として活躍していたが、戦争末期に触雷して大破座礁、戦後に浮揚されたものの修理もされず放置されていた。
しかし、強力な母船を投入して母船式捕鯨を行なったため、小笠原の鯨資源はたちまち減少に向かった。船団は鯨群を求めて絶えず移動することを余儀なくされ、効率の悪化により生産量は伸び悩んだ。輸送距離が増加したことによる鮮度低下などで鯨肉の市場価格も下落し、小笠原捕鯨の採算の悪化に伴って、極洋捕鯨は新たな漁場への出漁を画策し始めた。 昭和27年(1952)春、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は政治的、経済的に独立を果たした。極洋捕鯨はこれを機に北洋捕鯨を計画し、日本水産、大洋漁業に共同経営方式による出漁を働きかけた。当時、北太平洋における船団操業に対し、ソ連が示す態度を懸念する声が多い中、極洋が北洋捕鯨にこだわったのには理由があった。 極洋捕鯨は昭和21年(1946)の第一次南氷洋捕鯨から出漁を計画していたが、その年は捕鯨母船を確保できず涙をのんだ。翌22年にようやく母船に適当な船舶を入手して改装を開始したのも束の間、GHQが南氷洋捕鯨の出漁許可は2船団に限るという方針を示したため、遂に出漁を断念した。しかし、以後も毎年出漁認可を出すよう政府に働きかけ、さらには将来の出漁を見越して捕鯨船を他社の船団に参加させ、情報収集と船員の養成を行なっている。
もともとGHQが南氷洋捕鯨を2船団としたのは、オーストラリアなど日本の南氷洋捕鯨に反対する国を意識してのことだった。独立は絶好の機会とばかり、極洋捕鯨は講和条約発効を見越して昭和26年(1951)、再び出漁申請を行なった。
極洋は、捕鯨母船ばいかる丸を南氷洋への出漁に際して再び改装する。船体を耐氷構造とし、二重底を新設して燃料油槽兼バラストタンクを設け、航続距離の延伸を図った。中甲板を一段下げて油密構造とし、拡張された船内工場にはマッコウ油の生産に必要な機器類が設置された。何としても南氷洋捕鯨事業に参戦したい、という極洋の意気込みが感じられる。 極洋捕鯨が再起を賭けたこの出漁は、結果として失敗に終わる。母船ばいかる丸以下捕鯨船5隻からなる南氷洋マッコウ船団は、オーストラリア〜ニュージーランド海域で操業を行なったが、荒天に見舞われ捕獲頭数は222頭にとどまった。それに加えて、先に記したように第六次南氷洋捕鯨(1951/52年漁期)は朝鮮戦争の終結によって鯨油価格が暴落している。中でもマッコウ鯨油は、10月の出漁時にトン当たり16万円であったものが、翌27年3月の帰港時にはわずか4万円となり、極洋は2億円の赤字を出してしまう。
2.北洋捕鯨再開
昭和29年(1954)の第三次北洋捕鯨からは大洋漁業が錦城丸(元第一日新丸)船団を参加させ、二船団体制となった。翌30年の第四次には、極洋捕鯨がばいかる丸に代えてより大型の新母船を投入する。これが極洋丸(11,449t)で、元は3TL型3番船鶴岡丸として三菱重工業長崎で建造された、戦時標準型油槽船である。戦後は飯野海運の下で油槽船として運航されていたが、極洋捕鯨に売却されて、昭和30年(1950)2月から捕鯨母船への改装が行なわれた。3ヵ月後の5月には北洋への出漁を控えての慌しい工事であった。
共同出漁のため多くの規制に縛られてはいたものの、北洋捕鯨の成功は後の日本捕鯨業に大きな影響をもたらすことになる。
さらに、捕鯨各社はこの漁閑期に遊休設備を活用すべく、捕鯨母船をタンカーに転用して中積油槽船とともにペルシャ湾からの原油輸送に用いた。捕鯨母船は船内工場で精製した鯨油を搭載する鯨油タンクを持っており、戦標船のタンカーを捕鯨母船に改装したことからも分かるように、構造的にはタンカーとまったく同じである。戦前にも各社の捕鯨母船は漁閑期に油槽船へと早変わりし、アメリカカリフォルニア州からの原油輸送に従事していた。
1.波濤を越えて
捕鯨船団に付属する塩蔵/冷凍工船は、日本独特の船種でもある。有史以来、鯨肉を食用として利用していたのは、消費地が近い沿岸捕鯨によるものであり、遠洋捕鯨で鯨肉を生産して持ち帰り、食肉とした例はこれまでになかった。これは大量の鯨肉を長期間保存・運搬する技術が存在しなかったこともあるが、鯨を捕獲する目的が主として鯨油の生産にあった為である。
母国の食糧事情を解決する為、先にも登場した塩蔵工船天洋丸には、一つ1,200トンもある巨大な塩蔵庫が設けられた。当時、大量の肉を冷凍/冷蔵する設備を開発・搭載する技術も資金もなく、唯一長期保存の見通しが立つ貯蔵方法が塩蔵だったのである。
さて、漁場に到着して初めての鯨肉が母船から運ばれてくると、肉を規格の大きさに切って塩をすり込むという工程で塩漬けを始めた。ところが、48名の作業員が1日がかりで処理できたのはやっと60トンという有様で、これでは母船から1日に送られてくる400〜500トンにとても間に合わない。取れたばかりの鯨肉は36〜37℃という体温が保たれたまま、デッキの上で山となって湯気を立てている。
天洋丸は沈没寸前というのに、肉はあとからあとからやってくる。船団にはGHQの監督官が同行しており、捕鯨船が捕って浮かばせておいた鯨を見失うとすべての操業を中止して捜索させたり、「あらゆるものを利用すべし」と製品の歩留まりの向上に熱心な手前、鯨肉を捨てようにも捨てられない。やむなくタンクの塩水を捨てて、喫水を調節した。
日水、大洋共に冷凍工船が付属してくるのは、昭和24年(1949)の第四次南氷洋捕鯨からである。戦前の冷凍船が搭載していた冷凍装置は、零下八度の塩水に漬け一晩かけて冷凍するというものであったが、戦後アンモニアを触媒とした急速冷凍装置が開発され、天洋丸もこの急速冷凍装置を含む冷凍設備を搭載する改装工事を受けて、この年から新たに冷凍工船として参加している。
中積油槽船第二天洋丸は、12月の日本を出港するとまずペルシャ湾に向かう。サウジアラビアで燃料用のA重油とボイラー用のC重油を積み込み、インド洋からオーストラリアの西岸を通って南氷洋の捕鯨船団に向かう。ここで捕鯨母船や冷凍工船に燃料を渡し、空になった油槽を洗浄して鯨油を積み込む。
ここで最も問題となるのが、原油が入っていた油槽に鯨油を積み込まなくてはならないことである。当時、鯨油の輸出は日本の重要な外貨獲得手段の一つで、主に食用油脂としての利用が多い鯨油に重油が混入しては一大事である。油槽間の油密隔壁はドック入りの際厳重にチェックされ、南氷洋で鯨油を入れる前にも油槽は念入りに洗浄される。
時は敗戦から10年を経ようとしている昭和20年代末、2TM型戦時標準船第三共同丸。冷凍運搬船への改装工事こそ受けたものの、「船体3年、エンジン1年」の予定で作られた戦標船としては、とうの昔に船としての寿命が尽きている代物である。それを証明するかのように日々故障が頻発するが、どこもかしこも悪いところだらけで手のつけようがない。
これではさすがに申し訳ないと思ったのか、しばらくして主機を換装する事になった。当時は南氷洋における熾烈な捕鯨競争の真っ最中で、急速に捕鯨船の大型化、高馬力化が進んでいた。これにならって既存の捕鯨船も新しい機関に換装したため、発生した中古ディーゼル機関を搭載することになったのである。
時は冬、捕鯨船団はすでに南氷洋に向かっている。第三共同丸は全速力で遠州灘の時化を突っ切って横須賀に向かい、船団への補給物資を積み込むと慌しく南氷洋に向けて出港、船団の後を追った。
仕方がないのでとりあえず水漏れを止め、片っ端から木枠で囲ってコンクリートを流し込み、セメントボックスを作って補強した。そのうち砂利が足りなくなったので、乗員は積んであったバラストの玉石をハンマーで砕き、手作業で砂利を作った。
しかし、今度は燃料油槽に母船からもらう燃料を入れなくてはならない。油でコンクリートが剥がれるかどうかなど誰も知らないが、船底に亀裂を抱えたまま氷の海を走り回る羽目になる。なんとか無事のうちに冷凍倉も鯨肉で満載となり、3月初めには船団より一足先に単独で南氷洋を離れた。
後に永洋丸と名を変えるこのオンボロ船は、以後10年近くに渡って、時には南氷洋捕鯨に、あるいは冷凍製品の輸出入に従事して、太平洋を縦横無尽に駆け巡ることになる。
永仁丸 (2A型) 大洋漁業所属,'54時
2.南氷洋技術開発ものがたり
まず、船団各船の能力向上が図られた。捕鯨母船、冷凍工船の処理能力は、新技術と新造船の導入によって大きく増大した。捕鯨船も年を追う毎に大型化し、母船の処理能力の向上によって1船団あたりの隻数も増えていった。第一次南氷洋捕鯨(1946/47)では総トン数300〜350トン、機関出力1,600馬力であったものが、5年後の第五次(1951/52)には470トン型の捕鯨船が船団に加わり、さらに5年後の第十次(1956/57)には総トン数700トン、機関出力3,500馬力の捕鯨船が登場した。わずか10年でほぼ倍の大きさになったことが分かる。 捕鯨に関わる装備も大きく進歩した。昭和26年(1951)、東京大学教授平田森三によって旧海軍で使用されていた平頭弾*1をヒントに平頭銛が発明された。それまで用いられていた尖頭銛は、浅い入射角で水中に進入した際、水面で跳ね返ったり屈折したりして直進率が悪かったが、平頭銛は水中でも弾道が曲がらず、命中率が良くなった。
意外なことであるが、尖頭銛は浅い角度で命中した場合、鯨にうまく刺さらないことがある。銛先が鋭角であると運動エネルギーが外側に逃げ、表皮で滑ってしまう。平頭銛なら先端の平坦な部分の角が表皮に引っかかり、運動エネルギーは銛先が体内に進入する形で消費されるのである。
銛に繋がる銛縄もマニラロープから絹ロープ、ラミーロープと試行錯誤を経て、ナイロンロープが用いられるようになった。銛が命中しなかった場合、銛縄をウィンチで巻き上げて銛を装填し直し、再度発射するのであるが、以前はロープが水を吸収して重くなるため、銛はなかなか狙い通りに飛ばなかった。ナイロンロープは軽く強靭で、何より水を吸わない。目立たない部分であるが、銛先の改良とあわせて命中率の向上に貢献した。
もちろん成功例ばかりではなかった。旧海軍が潜水艦攻撃用として試作した、というふれこみ*2で「電気銛」なるものが持ち込まれた。銛が命中したところでスイッチを入れると、先綱のラミーロープに巻きつけた銅線に230ボルト90アンペアの高圧電流が流れ、鯨が感電死するというものだった。昭和25年(1950)の第五次南氷洋捕鯨で試験的に使われたが、先綱が重くて遠距離では当たりにくいものの、命中すれば鯨は一撃で死んでしまうことが分かった。
そして、捕鯨業にもっとも大きな影響を与えたものが鯨探知機である。捕鯨船の船底部に設置された昇降式の発信機から18キロサイクルの超短波を発射する装置で、元は潜水艦探知用のソナーであるが、最初に鯨追跡機(Whale Chaser)として捕鯨に転用したのは英国だった。日本では、極洋捕鯨が昭和31年(1956)の第十一次南氷洋捕鯨で英国ケルビン社製のものを輸入して使用したのが最初であったという。大洋漁業では同じ年試験的に運用され、翌32年の第十二次においてその効果が認められた後、本格的に導入された。
他にももう一つ、旧海軍の技術が南氷洋捕鯨に導入されている。船位の測定を天測に依存するしかなかったこの時代、天候の不安定な南氷洋において正確な船位を求めることは至難の業だった。濃霧や雪で天測が出来ない場合は推測位置で操業し、天測位置が決定できると修正することを繰り返していたため、常に船団の正確な位置を知ることは困難であった。
*1…戦前から海軍は目標艦の手前に落下した砲弾が、希に水中を直進して水線下に命中する場合があることを発見していた。この水中弾発生の確率を高めるために採用されたのが、砲弾の先端部を平らにした九十一式徹甲弾である。 *2…実は戦前から実績があり、昭和9年(1934)からノルウェーが南氷洋捕鯨で用いていた。日本では日水が昭和12年から研究を始め、昭和16〜18年に沿岸捕鯨で実用化しているがそれ以上の進展はなかった。 *3…ヒゲ鯨の鯨体は比重が水より重いため。マッコウ鯨などの歯鯨は水に浮く。
1.世界一の座へ
そして昭和34年の第十四次南氷洋捕鯨において、ついに捕獲頭数で前年1位のノルウェーを上回り、捕鯨世界一の栄冠に輝くのである。もっとも、世界一の座についたとはいえ、日本の捕獲頭数が戦前戦後を通じて最大となった昭和36年の第十六次南氷洋捕鯨でも6,574.2頭(BWU)であり、第一次に7船団を出漁させたノルウェーの7,320頭に及ばない。 さらに昭和35年(1960)極洋が第三極洋丸(20,300t,旧バリーナ/イギリス)を投入して7船団体制となり、翌36年には大洋が錦城丸に替えて第三日新丸(23,406t,旧コスモスV/ノルウェー)を投入し、同じ7船団ながらも能力はより増強されている。日本の高度経済成長と共に、この頃が日の丸捕鯨船団の全盛期であったと言えよう。 一方、すでに戦前から減少傾向を示していた南氷洋の鯨資源は、各国が競って最先端技術を導入し捕獲競争を展開する大規模母船式捕鯨業の圧力に耐えかね、急速に枯渇への道を歩んでいた。国際捕鯨委員会(IWC)が捕獲制限枠の縮小を強力に推し進め、昭和37年度(1962)には15,000頭(BWU)であったものが、わずか4年後の41年度には3,200頭にまで削減された。さらに、遊泳速度が遅いため格好の標的とされたザトウ鯨と、かつての南氷洋捕鯨の主役であったシロナガス鯨がそれぞれ昭和38年度(1963)、41年度から禁漁となった。 日の丸捕鯨船団の7船団体制はわずか5漁期で終わりを告げ、昭和40年の第二十次南氷洋捕鯨(1965/66)には第二日新丸と第二極洋丸の2母船を減船した5船団となった。以後、南氷洋捕鯨は坂を転げ落ちるように衰退の一途をたどり、再びこの黄金時代が訪れることは無かった。 この2つの流れの中で、戦時標準船は設備の老朽化による維持費の増大や生産効率が低いことを理由として、昭和30年代後半から40年代前半にかけて次々と第一線を退き、解体されていった。戦禍によって短い生涯を閉じた幾多の先輩達に比べて、敗戦直後の日本が最も苦しい時期に南氷洋捕鯨を支え、20年以上に渡って活躍した長い一生は恵まれたものであったと言えよう。
2.斜陽
終戦直後の昭和21年(1946)11月、ワシントンで国際捕鯨会議が開かれた。当時占領下にあった日本は参加を許されず、GHQがオブザーバーとして出席している。この会議で国際捕鯨条約が決定され、15カ国が署名して2年後の昭和23年から効力を発揮するとされた。これによって誕生したのが国際捕鯨委員会(IWC)で、以後鯨資源に関する国際的な取り決めはすべてここで行われることになった。
戦後しばらくの間、南氷洋捕鯨の規制は捕獲頭数制限によって行われた。各国の船団は解禁日から一斉に操業を開始し、毎週の捕獲頭数をノルウェーの国際捕鯨統計局に報告する。統計局は頭数制限に達する日を予測し、前もって通知する。この操業終了日までどの船団がどれだけ捕獲しようとも自由であり、「オリンピック方式」と名づけられた。
昭和20年(1945)から昭和27年までの捕獲枠は16,000頭(BWU)であったが、昭和31年(1956)までに14,500頭となって捕獲枠は段階的に削減されている。南氷洋の鯨資源は毎年確実に減少を続けており、捕獲枠の大幅な削減も提案されたものの、各国の思惑が絡んで実現には至らなかった。なお、頭数と同時に操業期間も12月8日から4月7日までの5ヶ月間であったものが、開始期日が12月28日、1月2日、8日となって次第に短縮されている。
翌40年(1965)も削減は続き、捕獲枠は遂に4,500頭(BWU)となった。しかし、蓋を開けてみればこの漁期における総捕獲頭数は4,090頭で、捕鯨国のうち日本を除くノルウェーとソ連は国別に割り当てられた頭数を捕獲し切れなかったのである。ここまで引き下げられた捕獲枠を消化できないということは、鯨資源の危機を数字が如実に表しているといえる*2。
3.落日、そして
最も大きな原因は、国内の鯨肉市場の存在である。畜肉に比べて安価だった鯨肉は学校給食にも用いられ、全国的に消費する習慣が形成された。この安定した需要を元に、日本の捕鯨業は鯨油よりむしろ鯨肉の生産に重点を置いた経営を行っていた。対する欧州捕鯨は鯨油の採取のみを目的としており、その収益は油脂市場に大きく左右されるものであった。さらに大豆やパーム、綿花などから採取される植物油やアンチョビーを原料とする魚油が安定して供給されるようになると、鯨油はこれらの安価な油脂に代替され、需要そのものが減少していったのである。
欧州捕鯨にも固有の弱点があった。それは、ヨーロッパの南氷洋捕鯨は日本のように水産会社ではなく、海運会社の兼業部門が行っていたことである。このためどうしても本業である海運業の方が優先され、捕鯨業は配船の優先度や設備投資などの面において何かと後回しにされがちであった。日本の捕鯨船団が他社船団との競争の結果、捕鯨に高度な生産技術を投入しはじめると、とても太刀打ち出来なくなったのである。
日本の母船式捕鯨三社は捕獲枠の減少に対し、捕鯨母船を減船して船団を減らすことで対応してきたが、ここに至ってついに三社三船団の維持が不可能となった。各社は不採算部門に転落していた捕鯨部門を切り離し、さらに沿岸捕鯨三社を加えて日本の捕鯨業を集約した日本共同捕鯨を設立した。昭和51年(1976)春のことである。
そして今、依然商業捕鯨再開の目処は立っていない。調査捕鯨のための小さな捕鯨船団が毎年11月、かつてのような群集の大歓声も見送りの船団もなく、ひっそりと日本を出航していく。
(了)
*1…1930/31年漁期において、南氷洋における総捕獲頭数37,438頭、鯨油生産量3,608,348バレルの記録があり、戦前戦後を通じて史上最高記録である。大戦中2年の休漁期間を挟んでも鯨資源は回復せず、戦後もさらに資源の減少が続くことになる。 *2…当時捕獲対象となっていたナガスクジラ等の大型ヒゲ鯨に関してであり、現在捕獲対象とされている小型ヒゲ鯨のミンククジラ等に関しては別に議論する余地がある。
公開:02/12/08
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